ポカとボケよけ
榊 薫
夏のできごと
「ボケ」の原因を調べていると、仕事のミスやトラブルを起こす原因は、知的活動の低下といった、いわば老齢化で痴呆に近づく病的なものもありますが、年齢に関係なく天然ボケのように勘違いや不思議な言動をすると周囲の人にはボケのように見えるものもありました。
前者は後期高齢者になると、少しずつ認知症状としてやって来るので、自分の年になると日頃からその対策を練っておく必要があるようです。ミスは自分の不徳の致すところではありますが、そのときに異次元の悪役令嬢ポカが引き起こす誤認識や誤操作に責任転嫁すると少し気が休まるようです。後者については、場所、物、人を組み合わせた落語の三題噺にも通じる要素で、天真爛漫に振る舞っているだけで突っ込みされるようになれば、その場を「グッ」と盛り上げる上で欠かせない役が廻ってくることもあるようです。と言うことは、このボケを逆手にとって突っ込めるようになれば楽しく対応することができるかも知れません。
ボケまで行かなくても、あわてていると知的認識の範囲が低下するため、想定外の出来事に伴って、このときとばかりに異次元から悪役令嬢ポカがトラブルを誘いにやって来ます。
悪役令嬢との戦いは、酷暑が続くようになって、ますます頻繁に起こってきました。
そこで、息抜きに、近場で涼しいところをインターネットで探していると、伊豆の下田がヒットしました。
時刻表を見ているとサフィール踊り子号というのが目に入りました。
サフィールとはフランス語で宝石の青いサファイアとのことだそうで、車体が深い青色のところは昭和時代の寝台列車を思わせますが、乗り込むと、中はゆったりとした座席で広々とした車窓からの眺めが満喫できます。
ブルーサファイアは御守りのような役目があるようで、古代ギリシャから羨望と危害から身を保護すると言われています。
車窓を楽しんでいると、退職後、XYZ世代の働く異文化の世界に飛び込んだきっかけや出来事を思い出しました。
めっきは素材から使用環境まで幅広い知識で処理しないと、どこかの国の金銀銅メダルのように、すぐにハガレたり変色たりしてしまいます。
メダルだけでなくめっきは工業製品にとって切っても切れない加工技術です。化粧品で言うと、クレンジング、スキンケア、メイクアップ、UVカットなど素顔の悩みに合わせてウキウキ、ワクワクするようにきらびやかに仕上げていくのとそっくりの役割があります。工業品の素材には金属やプラスチックなどがあって、その上を耐熱性、耐食性、耐磨耗性、導電性、光沢外観などを持たせてきらびやかに仕上げるので、汚れて埋もれていた素顔をもののみごとに“眉目秀麗”に仕上げる魔術の一つとなっています。
めっき加工時に毒物や劇物など数多くの有害物を高い濃度でふんだんに扱うことで、各社各様の機能を持たせているため、加工で出てくる有害な厄介者に合わせて排水は処理方法を変える必要があります。XYZ世代が働く異文化世界の大手処理メーカーも政府も嘆かわしいことに対応力がなく、処理できるのは一部でしかありません。そこで、排水処理の厄介者には処理の原理だけでなく加工技術で使う薬剤の知識をフル回転させながら工場ごとに個別に処理してきました。
ところで、異文化世界では大手工場の海外移転に伴って国内の工場が次々と減産したため、親亀がこけた子亀、孫亀のように、下請け中小企業のめっき工場数も激減の一途を辿っています。めっき技術が衰退すると言うことは、悲しいことに、工業立国もいよいよ終焉を迎え、工業の檜舞台から逆さまに転落することに他ならないのです。異文化世界の若者は、教科書や手引書にない、臨機応変な対応が必要なトラブル解析などの想定外のできごとには手も足も出ないのか、全く疑問を抱かず質問さえしませんでした。このことからも、もはや負け戦で工業立国を返上するのがふさわしいようです。
排水処理に必要な「魔術」の基になる過去に培った分析と表面技術の知識を活かしながら、退職後、XYZ世代のいる異文化の世界でボケ対策するために、めっき排水処理の厄介者と取組んできましたが、喜寿も近づき三途の川のお迎えが先かめっき業界の終焉が先になるのか、これから終盤を迎えようとしています。工業の衰退した異文化の世界になってしまえば、はがれたり、変色したりするメダルのレベルが当たり前になることでしょう。
移りゆく車窓の景色とともに、過去と異文化のできごとなどをとりとめもなく追想しながら一路下田を目指していると、あっという間に昼過ぎ到着しました。
下田では、夏の強い日差しを浴びた歩道の照り返しがあり、涼しいところまではいきませんが、都会のコンクリートのビル街が灼熱の太陽に照り付けられて、息苦しいほど「ムッ」とした空気ではなく、時折、潮風が漂って来ることから、ちょっとした避暑旅行気分を味わうことができます。先ずは名所めぐりと思って、観光バスを探しにバス会社に行ったところ、乗員乗客不足でやっていないとのことでした。運送関係の人手不足がここにもやって来ているようです。
宿にいくまで時間があるので、近場で唐人お吉の墓のある宝福寺にいきました。
お吉は、江戸幕府の開国のため黒船で来港したアメリカ外交官ハリスの仕女として支度金と手当金を当てがわれ、3日で自宅待機となったものの、異人に身を売ったとの風評被害から、最後は、投身自殺し、引き取り手がないのを哀れんで、宝福寺の住職が墓に手厚く葬ったと伝えられています。後に、戯曲、映画化されたときの俳優達が哀れんで新たに建立した墓に移されていると記されています。
国際交流では言葉の高い壁があり、文化の違いで何を欲しているのか分からないことが多々あります。ハリスは下田奉行に牛乳を所望したところ、当時の日本人は牛乳を飲む習慣がなくて下田奉行は拒否したという報告書があるといわれています。通訳が居たとしても、お吉はどうやってハリスが牛乳を欲していることを察知できたのか、お吉は飲んだこともない牛乳を知り、どうやって手に入れてハリスに提供できたのか、お吉としては想定外だった出来事に対する臨機応変な“対応力、反応力”を発揮できる奥深い力量を持ち合わせていた筈で、近頃の異文化世界ではお目にかからない振舞いのできた人であることを感じながらお参りしていると背後に妖怪魔術とは違う、何か異質な気配を感じました。
振り返ると、植え込み越しの離れたところに、赤い前垂れを掛けた地蔵尊がうつむき加減で座した姿で瞑想して祀られていることに気が付きました。近付いて見ると、名を刻んだ石柱に「ボケよけ地蔵」とあります。ぼけよけ二十四地蔵尊霊場は、和歌山県、奈良県、大阪府にまたがる地蔵霊場で1988年に開創されたということは、この地蔵尊も名前からするとお吉の墓を建立した当時にはなく、どうやら比較的最近になって祀られたのではないかと思われます。
三途の川に行く前に、お参りすることができる機会を与えてもらえたような巡り合わせが起こりました。羨望や危害から守るサフィールと名付けられた踊り子号でやって来た
スマホのカメラに納めて御守りとさせていただくことができました。これで、仕事をしていると、異次元から悪役令嬢ポカが暑さとともにやって来るのは許せないと身構えるのではなく、むしろ、どうせやってくるのであれば、三題噺の突っ込みのように立ち回りを楽しみながら、落ち着いて作業を確かめていれば、振り回されずに裁くことができるような気がします。
家に戻ってみると、排水試料が待ち構えていました。
排水を処理してできた
そこで、安価に処理できるように「魔法の薬」添加量をできるだけ少なくしながら処理し、処理できたかどうかは、蟻がやっと通れるすき間程度の独自開発したマイクロ分析を使うことにします。ごく微量なので加熱時間もあっという間で素早く分析することができます。
クロムのマイクロ分析では、予め濃度の分かっている標準液と一緒に処理した液の分析を始めましたが、なんと、発色するはずの標準液が発色しません。試薬が古いためかと思い、新しくしても変わりません。発色を妨害するものは何かを見つけることが急遽必要になってきました。そこで、添加量を一つずつ変えてみましたが、発色しません。
どうやら夏の暑さも手伝って、悪役令嬢ポカがやって来たようです。添加量を少なくしても、多くしても発色しないと言うことは、原因は添加量ではないようです。それにしても何故できないのか不思議です。どうしてできないのか、こうなると一大事で、「ハタ」と考え込んでしまいました。
ボケが始まってしまったのかも知れません。しかし、ボケの認知症対策も三題噺に必要不可欠な突っ込み案もまだできていません。
気を取り直して、もう一度分析に必要な第一薬剤、第二薬剤、最後の発色剤を順々に加えてみることにしました。第一薬剤を加えてはボケの対策を考え、次に、第二薬剤を加えてはボケの対策を考え、最後に発色剤を加えてボケの対策を考え込みましたが、肝心の発色しないトラブル原因が気になって、ボケよけの良い考えは全く浮かんできません。するとどうでしょう。わずかに発色したではありませんか。と言うことは、考え込んでいる間に少し反応していたことに気付きました。手際よくやらずに、一つずつ十分に反応時間をかけてやったところ、やっと従来のように発色させることができ、クロムの処理も問題ないことが確認できました。
操作を間違えず、手早くやるだけではダメなことを再確認させられました。分析手順が分かっているので、「善は急げ」とばかりに間髪入れず立て続けにやったことが失敗の原因でした。今回は、残念ながら悪役令嬢ポカの対策として作業の合間に、楽しくなるような突っ込みを思い付くことはできませんでしたが、「急がば回れ」「急いてはことを仕損じる」ことを肝に命ずるできごとになりました。
これまでは、作業のリズムが狂うと思考能力が散漫になり、悪役令嬢ポカが忍び寄って来てミスすることを幾度となく経験してきました。しかし、手順を一定の速度でやったのでは逆にミスに繋がることがあることが分かりました。反応に必要な時間を確保しているときに、異次元からやってくる悪役令嬢をどうやってやり過ごすことができるか、そのためには、リズム不揃いの反応時間に何をやればよいか、その際、ボケと突っ込みの楽しみを見出せるか、という課題が残りました。一応、堂々巡りの迷路に突っ込んでも抜け出せたことは「ボケよけ地蔵」の御守りのおかげのようです。 了
ポカとボケよけ 榊 薫 @kawagutiMTT
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