幽霊に会えますように

ガビ

幽霊に会えますように

 私が小学3年生の頃、通学路の駐車場付近に必ず痩せたお爺さんがいた。

 髪は全てが白髪に染まっているが、老いの象徴である白髪も、全てとなれば不思議と綺麗に映っていた。


 そのお爺さんは「挨拶ジジィ」と私達小学生の間で呼ばれていた。登校時は必ず、我々小学生に「おはよう」と挨拶してくるのだ。

 今では不審者として通報される案件になるかもしれないが、当時は平成の半ば。そんな変わり者は地域のネタ枠として許されていた。


 5年生の春、登校時の班長に任命された私は、それはもう張り切っていた。様々な学年の小学生が1列になって歩くアレである。

 その際、挨拶ジジィに挨拶を返すかどうかは、先頭にいる班長の反応によって変わってくる。

 私が1年生の頃の班長は、ちょっと怖いタイプのお姉さんだった。彼女は挨拶ジジィを綺麗に無視していたため、後列の我々下級生もそれに倣うしかなかった。


 空気を読む。

 日本で生きる上で重要な能力だが、獲得するとともに、何か大切なものを失う感覚もする。


 知らない人に挨拶されても返さない。それは当たり前かもしれないが、彼を無視する度に、私の中の何かが少しずつ、すり減っているように思えた。

 しかし、年月を経て、私は班長を任された。責任とともに影響力も手に入れたのだ。


「おはよう」

「おはようございます!」


 今までの罪悪感を払拭しようと、元気に挨拶をする私に倣って、後列の子達も続く。


「おはようございます」

「ジジィ、おはよー」

「オハザイマス」


 言葉遣いの悪い子もいたが、まあ、そこはご愛嬌だ。

 班員全員が返した時、挨拶ジジィは、たぶん、笑っていたと思う。

\



 その日の給食はカレーだった。

 給食オブ・給食である、カレーライスだった。


 なんと、そんな大事な日の朝、私は熱を出してしまったのだ。


 さぁ! 今日はカレーだぞと意気込んで登校の準備をしていた。しかし、母から「アンタ、顔赤いよ。とりあえず熱測っときな」と言われ、ブーブー言いながら検温したところ、37度1分との微妙な数値が出てしまった。


「今日は一応、休んどきな」


 普通の日だったら喜んで二度寝をして、起きたら親に隠れてゲームをしていたところだが、なんせ今日はカレーなのだ。熱如きで諦めるわけにはいかない。

 あの、忌むべきコロナウイルスが世界中を混乱させる前の、平成のガキの考えだ。どうか寛容な心でスルーして頂きたい。

 しかし、そこはさすがの母上。


「熱が下がるまでは横になっておきな」


 そう言って薬を飲ませてくれた。


「大丈夫だって!」と文句を言いながらも、布団に潜り込んで5分もしないうちに眠りに落ちてしまった。本能が休息を欲していたのだろう。

\



「‥‥‥ッ!」


 いつの間にか眠ってしまっていたことに気づき、慌てて飛び起きる。

 今何時だ!?

 時計を確認すると、午前10時5分。

 これは、急げば給食に間に合うかもしれない。


 母の手前、もう一度熱を測ってみる。

 36度7分。


「よし! セーフ!」

「できれば、今日は安静にしてもらいたいけど‥‥‥まあ、いいや。いってらっしゃい」


 季節は、夏だっただろうか。

 暑い中、ダッシュで学校に向かう。全てはカレーのため。


 そんな中、挨拶ジジィとすれ違った。


「お‥‥‥」


 急いでいるのも関わらず、私は条件反射で挨拶をする。


「おはようございます!」


 もう10時過ぎだから、そろそろ、こんにちはじゃないかと言ってから思った。

 しかし、さすが挨拶ジジィ。こんなズレた小学生にも挨拶を返してくれる。


「おはよう」


 その時の表情は、嬉しさと同時に寂しさも混ざった不思議なものだった。

 いつもの時間だったら、ただ挨拶して終わる関係である私達。

 しかし、今日は少しだけ時間がある。


「あ、あの! ちょっと話しませんか?」


 そう。私はずっと、この変わり者のお爺さんと話してみたかったのだ。

\



「学校は大丈夫なのかい?」

「はい。給食に間に合えば良いので、30分くらい余裕があります」


 さっきまで走っていたが、よく考えればその必要は無かったのだ。


「ハハ。そうかい。では、何を話そうか」


 私は、というか我が校の児童全員が気になっているであろうことを聞いてみた。


「なんで、いつも挨拶してくれんですか?」

「‥‥‥」

「あ。いや、話したくなかったら無理には‥‥‥」

「いや、済まない。むしろ逆だ。誰かにこの話を聞いてほしかったから、嬉しくてなぁ‥‥‥」


 少し涙ぐんでそう言う挨拶ジジィ。

 私は、大人でも涙を流すのかと、珍しいものを見るかのように凝視してしまっている。


「実はな‥‥‥」

\



 挨拶ジジィの話を再現すると、以下のようになる。


 かつて、挨拶ジジィがジジィではなくおじさんだった頃の話だ。

 奥さんを若くして亡くした彼は、男手ひとつで小学生3年生の娘さんを育てていた。


 父子家庭でも、娘さんに寂しい想いはさせまいと、普段からコミュニケーションをとり、休みの日は一緒に遊園地や映画館に行く良いパパだったらしい。そんな優しい父を、娘さんも愛していた。

 しかし、人間というのは、どれだけ性格が良くても調子が悪くなる時期がある。


 ある日の深夜、職場の工場からの電話が家中に鳴り響いた。

 こんな時間からの職場からの連絡は厄介ごとに決まっている。

 その予想は的中した。


 職場の工場長が夜逃げしたと言うのだ。

 従業員の知らない間に借金を抱えていた工場長は、もう取り返しのつかない領域に踏み込んでしまった。それは、闇社会の皆様の手を煩わせるほどに。


 その影響は、工場の幹部と呼ばれる父にも及ぶことになった。

 それから、賭けに負けた工場長の尻拭いをする日々に忙殺されるようになった。

 その忙しさは、愛している娘に気が向かないレベルのもので、彼の心は徐々に歪んでいった。

 しかし、それでも娘さんは良い子であろうと、家では笑顔を絶やさなかった。


「おはよう!」


 7月のある日、娘さんから挨拶をされるも、疲労から何もする気の起きない彼は、それを無視した。

 それどころか、意図的に明るく振る舞ってくれている我が子に、こんなことを思ったそうだ。


(人の気も知らないで、ヘラヘラしやがって‥‥‥)


 声には出さなかったらしいが、その悪感情は娘さんに伝わってしまっていたことだろう。子供は、大人よりも感情に敏感な生き物だ。


 自分で食パンをチンして、バターを塗って朝食を済ませてから、娘さんは玄関に向かう。


「いってきます!」


 その挨拶にも、父は無視をした。


 その、わずか1時間後。

 電話が鳴る。

 電話は嫌いだ。また碌でも無い知らせを持ってくるに決まっている。

 その予想は今回も当たっていたが、覚悟が足りなかった。前回が可愛く思える、最悪の知らせだったのだ。


「⚪︎⚪︎さんのお宅ですか? ××警察署の者ですが‥‥‥」


 娘さんが登校時に、交通事故で亡くなったと言う。


 それから、さらなる怒涛の日々が始まった。

 職場に頭を下げて休暇をもらい、葬式の手続きをした。

 葬式は決めることが山積みで、悲しんでいる暇もなかった。


 そして、全てが終わり、誰もいない部屋で1人で項垂れていると、あの日の朝のことがフラッシュバックした。


「おはよう!」

「いってきます!」


(あれ‥‥‥? 俺、あの子の挨拶を無視しちゃったじゃん‥‥‥)


 忙しさによって抑制されていた涙が、ボロボロ流れる。


(機嫌が悪い親父のために、あんなに元気に挨拶してくれたのに‥‥‥。俺は‥‥‥)


 その日、1人ぼっちの父は終日泣き崩れた。

\



「情けないことに、20年近く経った今でも、そのことが頭から離れないんだ」

「‥‥‥」


 いつも、挨拶ジジィが出現する駐車場の隅で話を聞いていたが、私は何も言うことができなかった。

 その代わりに、ジジィの話を一言も聞き逃すまいと神経を集中させていた。


「ここな、この道路な。あの子が轢かれた場所なんだよ。だから、定年になってからは毎朝ここにきて、あの子が現れるのを待っているんだ。幽霊でもなんでもいい。また会いたいんだ。君達に挨拶しているのは‥‥‥自己満足な贖罪かな」


 ジジィは目を閉じる。姿は、何かに祈っているようにも見えた。


 何か。

 何か、私にできることはないか。


「‥‥‥こんな話を聞いてくれてありがとう。人に話すと、やっぱりスッキリするね」


 今の無力な私にできること。

 それは、簡単な挨拶しか思い浮かばなかった。


「おじいさん」


 わざとらしくならないように、気をつけて言う。


「いってきます」

「‥‥‥いってらっしゃい」


 今度はゆっくり歩き出して、私も祈る。

 どうか、ジジィが娘さんの幽霊に会えますように。

 

 

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