高二 春

紅葉賀

青と春をまぜて恋をつくる

 約束の時間を過ぎても光は現れなかった。どうやら委員会は長引いているらしい。午後四時を過ぎた春の夕方の空は穏やかな青色だ。待ち合わせ場所の廊下に温かな陽光が差し込む。

 もともと終了時刻の判断がつかず、最悪遅くなるかもしれないというのは委員会が決まってから光本人に聞いていたので、遅刻されることはなんら問題ない。問題なのは。

 これから好きな人に、体育祭の出し物で披露するダンスを私が教えるというシチュエーションだ。

 清宮せいみや光。

 紫雲高校一番のイケメンと名高いクラスメイトで、先輩後輩同級生問わず彼に好意を抱く者は数知れない。もれなく私もその数にカウントされている。

 文武両道、眉目秀麗、品行方正……はちょっと違うか。光は紫雲高校のマドンナお姫様である姫川夏葵なつき先輩と付き合っているにもかかわらず、いろんな女子と遊んでいるらしいし(なんなら、二人はお互いにそれを許可し合ってるといううわさだ)。

 そう。光には入学早々お付き合いをしている人がいる。それもちょっとやそっとじゃ太刀打ちできない、お姫様みたいにきれいで賢い女の子の憧れを体現したような。所詮私の恋は片思いで、ばら色の青春なんて遠すぎて手を伸ばす気にもなれない。

 それでもクラスの違った一年次に比べ、同じクラスになれた今年はいい方だ。片思いなりに、せいぜい思い出作りに励もうと四月、心中ひっそり決意したのが記憶に新しい。

 今日はその、思い出作りの日になるだろう。

 体育の授業で捻挫をした光は、私と他数人の友達で手がけた創作ダンスを発表するメンバーの集まりに参加できなかった。

 それじゃあ完治したら個別に彼に振付を教えようと話が進んだとき、一人の友人が提案したのだ。


「じゃあ光はさ、紅葉もみじに教えてもらいなよ」


 恋愛の気配に目ざとい女子高生はこういうとき厄介だ。


「そうだよ、紅葉が一番ダンスうまいし、それがいい」


 他の子も裏の意図を察し同意を表明する。こうして私は友情に篤い彼女たちに背中を押され、曲がりなりにも好きな人と二人きりになる時間をゲットした。

 そして当日。こうやっていつ来るかはっきりしない片思いの相手を待つのは、妙にソワソワしてしまう。最初はさざ波程度に体の中をざわつかせていた緊張が、今では暴れまわり高潮のようだ。

 これは良くない。落ち着くべくルーティンワークにかかることにした。

 両足のかかと同士をくっつけつま先を外へ外へと開き、百八十度になったところで止める。バレエの基礎中の基礎、一番ポジションだ。

 足はそのままに、呼吸を忘れず両腕で象った楕円をゆっくりゆっくり頭の上に運ぶ。

 スカートは別として、制服だと動きが制限されるな。ブレザーは脱いでシャツ一枚でもどうにも引っかかりを覚える。

 楕円の頂点、触れるか触れないかくらいの指先を丁寧に離し、今度は腕が床と平行になるよう広げる。頭頂部に落ちた雫が肩から腕に伝わって、うつくしく伸ばした爪の先まで転がるようなイメージで。

 バーレッスンとは違う、コンクールや発表会直前の自己流ルーティン。ここまででだいぶ波は穏やかになった。一番の足はいったん両のつま先をぴったり前に向けてそろえたパラレルに。

 続けて片足を、背筋と直角をなすよう九十度に上げてアティチュード、キープ。履いているのはトゥシューズではなくただの上履きなので、足指から甲まで伸びたきれいなつま先立ちのポアントはできない。指全体が床に接地したこのドゥミ・ポアントはあまり見映えはよくないとされるが、大事なのは体を正しく使うこと。基本を疎かにしなければ、簡単な技でだって人の目を惹けるのだ。

 やっぱりバレエは次にどう手足を動かすか思考の連続だから、悩みが入り込む余地がなくなる。体だけじゃなく、心の置き場所まではっきりしてくる。

 次はこのまま上体を倒してアラベスクへ――――


「ごめん志賀、遅、れ、た……」


 階段から筆箱とファイルを脇に抱えた光がサッと飛び出してきた。

 びっくりして私はアラベスクの途中で静止してしまうし、急いで走ってきてくれた光もその足を止め目を点にしている。

 さっきまで平常だった精神が羞恥に荒波を立てる。好きな人と会う前に気持ちを静めようとして、妙なポーズをとってる姿を見られたなんて、そんなの訳ない。サッと足を下ろし普通の姿勢に戻る。下着、見られてないよね。好きな人に見られて困るような下着を恋する女子高生は千載一遇のチャンスに履いてはこないけど。でも見せるのはもっと別のタイミングで……違う違う。


「……何してたんだ?」

「げ、原点回帰?」


 心身の安定にはバレエが一番という私の返事は、事情を知らない人からすれば不可解だろう。


「ああ、志賀ってバレエやってるんだっけ。練習してた?」


 が、光は納得し、なんなら思いもよらない返事をした。光と習い事の話をした記憶はない。


「え、知ってるの?」

「去年の文化祭の出し物見てたらさ。一人ジャンプ力がすごいのがいる、誰だ誰だってみんな盛り上がって。そしたら志賀っていう子で、バレエ習ってるんだって教えてもらった」


 確かに私は去年秋の文化祭でもダンス好きの仲間と有志の出し物部門に出場した。そのころ既に私は光が好きで、でも光はクラスも選択授業も部活も委員会も重ならない私のことなんか気にも留めていないと諦めてた。

 一年生のうちはずっと一方的に私だけが彼を知っていると落ち込んでいただけに、その事実一つだけで表情が緩みそうになる。光にとってはなんてことなくても、私にとっては冗談でもなんでもなく大ごとだ。


「そうなんだ。どうだった? 私のダンス」

「ジャンプ力もすごかったけど、腕の動かし方が他とは全然違って見えた。丁寧っていうか、指先まで意識がいってるようで、動きが波みたいにスムーズで」

「そっか」


 嬉しさのあまり内心浮かれてしまい、変なことを口走らないよう自制を心がけたらそっけなくなってしまった。いけないいけない、ここは大げさなくらい喜んで、かわいげを前面に――――


「夏葵さんもすごいって言ってた」


 その一言で、羽が生えたように舞い上がっていた心が落下して土にまみれて汚れた。

 文化祭は秋だ。二人はもうとっくの前から付き合っていて、いろんな出し物をカップルらしく肩を並べなんなら手も繋いで楽しく周ったのだろう。その光景を想像して胸が痛む。

 改めて、不毛な恋をしている青春を突き付けられた。

 諦めた方がいいのかな。土に汚れるばっかりの恋心は手放した方がいいのかな。

 気落ちしているうちにお礼も言い損ねてますます自分が嫌になる。

 私の内心を知る由もない光は廊下に並んだロッカーの上に荷物と脱いで畳んだブレザーを置き準備を調える。


「だから今日、ちょっと楽しみだった。志賀のダンス間近で見れるの」

「え、えぇ?」


 およそかわいいとは程遠い声色の、上ずった驚きの声が口からぽろっと出た。


「よければさ、見せてよ。志賀が踊っているとこ、見てみたい」

 




 意中の相手からの思わぬお願いに、私は応えることにした。

 さて、何を披露すべきか――――と悩むこともなく演目を決める。

 『ジゼル』のヴァリエーションにしよう。体は弱いながらも身も心も美しい村娘のジゼルが、収穫祭でダンスを披露するシーンだ。

 心なしか好奇心が表情に現れた光を前に、目を閉じタイミングをはかる。

 頭の中でオーケストラが最初の一音を奏でた。可憐な乙女のための始まりの合図。それに合わせて、まるで貴族がする挨拶のように片方ずつ腕を広げお辞儀をした。目を開いた私は、もうジゼルヒロインだ。

 舞台はそう広くはない廊下だ。その場で跳ねたり、ステップを踏んだりしてなるべく移動をせずつなごう。最初のバレエらしい動きは二回のアラベスク。息を吸って足を百八十度開ききったら、開脚したまま上半身を思い切り下げる。

 上体を引き上げたらまるでちょうちょを追うように腕を伸ばし流れに強弱を。

 お次はアティチュードをしながらの回転。右回り、左回り。ぶれないために不可欠な視点の固定先は唯一の観客にした。なるべく最後まで光と目が合うよう顔を残しながらふんわりと回る。

 せっかく顔を向けるんだから、バレエの主人公たる愛らしいほほ笑みを見てもらいたい。そもそもこのシーンのジゼルは恋人の前で楽しく踊っているのだ。喜びや幸福が目や唇に表れないわけがない。以前先生に表情のぎこちなさを注意されたが、今日は今までで一番の自信がある。 

 正面に体が戻ったら、両手でスカートをつまみ広げる。ここの振付では誰だってお姫様の気分になるだろう。ジゼルだって、私だって。

 母指球は床につけたまま、踵を上げたドゥミ・ポアントの左足でとんとんその場で跳ねる。本来は移動するんだけどこればかりはしょうがない。右膝から下は音楽に合わせ四十五度の方向に伸ばしたり曲げたりを小刻みに繰り返す。がさつに見えないよう軽やかに、軽かに。

 ジゼルは田舎者だけど、決して野暮ったいわけではない。広げたスカートの裾をつまむ指を離してからの腕の振付は柔らかく優雅に。村娘でありながら、ヒロインの自覚は忘れないように。

 いよいよラストスパート。

 回転しながらの移動は不可能なので、最後のシェネはその場で回り続けるフェッテにすることにした。

 フェッテは好きだし、だから得意だ。軸となる左足はしっかり伸ばし、右足を床と水平にムチのように振る。

 まずは一回転で。上履きがキュッと鳴る。


「志賀が踊っているとこ、見てみたい」


 好きな人からの思いもよらない一言に、私はかなりはしゃいでいるようだ。かっこいいところを見せたくてたまらない。

 滑る廊下の狭い舞台での回転にコツを掴んできたら、次は二回転に回転数を増やす。最後はできれば連続二回転で締めたい。

 頭の中に流れていた『ジゼル』の演奏はとうに鳴りやんでいる。それでも私は回る。狂女のように。

 かわいそうなジゼル。

 愛する恋人が、身分違いの貴族――――それも婚約者のいる――――とは露知らず、一途に思い続け、裏切りに絶命した。

 光の前でこのヴァリエーションを選んだのは、なんとなくジゼルにシンパシーを感じていたから。

 ただの無知な踊り子でいれば、辛い目にあわずにすんだのに。あなたも私も。

 決定的に違うのは、ジゼルは村娘でありながらお姫様ヒロインであったこと。

 いくら上手にジゼルを演じようとも、私は、王子様に見初められるお姫様ではない。名前のない村娘モブ、それもAではなくいいとこBの脇役だ。

 そろそろ限界が見えてきた。もうひと踏ん張りと軸足を強く床に押し付け、動脚を勢いよく動かす。


「あっ……」


 連続二回転の途中で体がぐらついた。やっぱり正規じゃないシューズじゃ無理があった。


「危ない!」


 痛みを覚悟し倒れこみそうになった私の体を光が支える。顔がおどろくほど近い。

 きっと、私がジゼルなら、お姫様なら、私だけの王子様にこのままキスをされていた。

 でも私は、名もない村娘役だから。


「ありがとう」


 お礼を言ってすかさず自分から離れる。顔が紅葉を散らしたように無様に赤い自覚があるから、今の私を見ないでほしい。秋ならいざ知らず、こんなに青い春の下では夕日も言い訳にできない。


「あーあ、最後に失敗なんて、一番かっこわるいとこ見せちゃった。やんになる」


 失敗してもなるべく明るく終われるよう、本心をおどけた風に中身のない空っぽな自嘲にして口にする。


「そんなことない」


 すかさず光は否定してくれる。優しいな、好き。


「俺はバレエに詳しくないし、どんなキャラやシーンを志賀が演じていたのか全然知らないけど……そう」


 一度言葉を区切った光が私のための表現を探してくれる。


「そう。踊ってる志賀は、お姫様みたいだった」


 瞬間、呼吸が止まるかと思った。

 私はあなたのお姫様にはなれないのに、憧れの人は私をお姫様に見立ててくれた。

 ――――それだけでもう。


「なんだよー、見る目があるじゃん。そうだよ、お姫様みたいだったでしょ」


 この恋を続ける理由ができてしまった。

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令和版 源氏物語(仮題) 栞子 @sizuka0716

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