ベガとネオンとアルタイル

佐倉島こみかん

ベガとネオンとアルタイル

 人間の目は、五億画素だという。

 最近のスマホで高画質と言われているカメラでも千二百~二千万画素。

 世界一画素数の高いカメラですら一億画素。

 六億画素を超えるスマホカメラを作ると謳っているメーカーもあるけど、まだ実現はされていない。

 だから現状、最も美しく対象を捉えるなら、肉眼で見るのが一番なのだ。

 角膜を通り、虹彩で調整された光は水晶体で屈折して、網膜に像を結ぶ。

 でもこの虹彩、いわゆる瞳孔ってヤツが厄介で、自律神経とも開閉がリンクするなんていう仕組みがあるせいで、光の入り具合の調整が下手くそすぎて、五億画素が台無しである。

 私が見る琴音ことねは、たぶんいつだって、現実よりも眩しい。


 今、目の前で嬉しそうにバレンタイン用のガトーショコラのためにメレンゲを泡立てている琴音も、とびきり可愛いく輝いている。

 白い肌、やや垂れ目のぱっちり二重の目は色素が薄めの茶色い虹彩で、それも美しい。

 ストレートの長い黒髪はツヤツヤで、通った鼻筋と小さな唇も合わさって、まるでかぐや姫みたい。

 小柄な体のわりに肉付きがよくて、無駄に背ばっかり伸びた私が抱きしめたらすっぽりと抱え込めるふわふわボディもたまらない。

 同性で幼馴染みだからこそ許される抱き締め特権は、去年から私だけのものではなくなった。

 琴音が、天文部の同級生の鷲田わしだと付き合いだしたせいだ。

 二人の名前と、織姫と彦星の由来となった琴座と鷲座にかけて『ずっと好きでした。僕のベガになってください』なんて気障なセリフで鷲田が告ったらしい。反吐が出る。

 ずっと私が琴音の一番近くにいたから、私だけの琴音でなくなった事実にこっそり泣いたが、琴音が嬉しそうにしているのだから仕方ないと自分に言い聞かせた。

 一年経った今でも、溶かしたチョコレートの甘い匂いに負けないくらい、とびきりの甘い表情でお菓子を作っているのを見て、その目に思い浮かんでいる人間が自分ではないことに落胆している。

 地元の私大が第一志望だった琴音は、二月の頭で入試が全部終わり、二月十三日バレンタイン前日なんて国公立大入試まで二週間を切ったタイミングでも、お菓子作りをする余裕があるのだ。

 琴音は第一志望の合格発表が来週だけど、秋にあった特別奨学生入試で滑り止めの私大が合格だったので、この余裕である。

 対する私は地元の国立大学が第一志望なので、受験は今が佳境である。

 塾と学校との往復の毎日での、数少ない癒しの場が、琴音の元なのである。

嘉乃かのちゃん、ぼうっとしてないで赤本解きなよ。さっきから手が動いてないよ」

 眺めていた琴音からたしなめられて、肩をすくめた。

「だって疲れたんだもん。赤本より琴音を見てたい」

「私を見てても勉強にならないでしょ」

 私が頬杖を突きながら言えば、琴音は呆れたように正論を述べる。

 上がった眉さえ食べちゃいたいくらい可愛い。

「出来上がったら嘉乃ちゃんにもあげるから、もうちょっと頑張って」

 嘉乃ちゃん『にも』ね、と内心毒づくが、そんな素振りを見せて琴音のきらめく表情が曇ってはいけないので、おくびにも出さなようにする。

「やった! もうちょっとって、どのくらい?」

「うーん、一時間くらいかな」

「分かった、それなら頑張れるかな」

 私は頑張った自分への特別に甘いご褒美のために、一つ伸びをして、英語の長文問題にとりかかった。


 そこから、大体四十分後、オーブンレンジのオレンジ色の光が消えて、ガトーショコラが焼きあがった。

「早かったね。もう食べられる?」

「粗熱を取ってからね。予定通り、あと二十分は待って」

 こんなに部屋中甘くていい匂いなのに、まだ待たなければならないのは地獄だ。

 焼いている間も、琴音は洗い物をしたり、ガトーショコラに添える飾りのチョコレートにチョコペンでメッセージを書いたりと忙しなく動いていて、小動物みたいで可愛かった。

 私の方と言えば、赤本は長文が片付いて、苦手な英作文に差し掛かり、ここの文法ってどうだっけと参考書を開いていたところである。

 鷲田も確か参考書を買いに来てたっけな、と秋口にばったり本屋で会ったことを思い出して、歯噛みした。

「そういや鷲田って、一橋大志望でしょ。渡すタイミングあるの?」

 少し意地悪な気持ちから私が聞けば、琴音ははにかんだ。

「うん、明日、自主登校の後に、駅前のカフェで久々に会う予定なんだ。受験に専念できるようにしばらく連絡を取り合うのも控えてたんだけど、一時間だけ会って話そうって約束したの。受験頑張ってね、って気持ちを込めてお守りも作ったんだよ」

 きらきらした笑顔で答えられて、こちらの意地悪さが恥ずかしくなってくるくらいのピュアさに目が眩んだ。

 なんという節度ある清い交際だろう。

 そんな感じだから、鷲田を憎み切れないのだ。

「そっか。お守りまでもらえるなんて、鷲田、きっと喜ぶよ。でも……琴音は本当にいいの? 遠距離恋愛になるんだよ」

 私が言えば、琴音は少しだけ寂しそうに笑う。

「うん、大丈夫だよ。私の学力だと国公立大は厳しいし、私大だと地元にしか行かせられないって親に言われてるしね。侑太ゆうたくんは国公立大を受けるだけの力と、県外に通わせてもらえるだけの環境があるんだから、それを生かさないとダメだよって話したの。お互い納得済みだよ」

 この二人ともとても良い子な回答が歯がゆい。

「でも受かったら、本当に織姫と彦星みたいじゃん」

「さすがに長期休みが年三回あるから、年一回しか会えない織姫と彦星ではないかな。それに、東京と愛知なら新幹線で二時間くらいだし」

 琴座のベガは織姫星、鷲座のアルタイルは牽牛星で夏の大三角形を構成する一等星だ。

 天文部の琴音はその辺を汲んで突っ込んでくれる。

「それならいいけどさ。でも私、鷲田は落ちたらいいのにと思ってるよ」

「嘉乃ちゃん、なんてこと言うの!」

 私が歯がゆさから本音を溢せば、琴音は怒ったように言った。

「だって鷲田、『私大なら地元』って滑り止めは南山なんざん大でしょ。そしたら二人とも離れ離れにならなくて済むじゃん」

 私が唇を尖らせて言えば、琴音は苦笑する。

「嘉乃ちゃん、心配してくれるのはありがたいけどさ、私たちは大丈夫だから。遠距離ごときで揺らぐような気持ちじゃないよ。ほら、私は侑太くんのベガなので」

 琴音が穏やかに言いつつ、最後は照れ隠しで茶化したように言うので、私はもどかしさを飲み込むしかなかった。

「うわあ、出た! 惚気! その告白で琴音もよくOKしたよね」

「いいじゃん、ロマンチックで。運命的でしょ?」

 私も茶化して返せば、琴音は肩をすくめて答える。

「その辺の感性が似ているところが、気が合う理由なのかもねえ」

 溜息交じりに答えて、ガトーショコラのせいだけでなく甘い空気を、目いっぱい肺に取り込んだ。


 ――それが、一年半前のこと。

 私の願いも虚しく鷲田は一橋大に受かり、二人は遠距離恋愛になった。

 私の心配をよそに、琴音から聞く限りでは、二人ともZoomやらLINEやらで連絡を頻繁に取り合って、問題なく過ごしているようだった。

 でも、東京に行った鷲田は写真を見せてもらうたびに垢抜けていって、私はそれがちょっと心配だった。

 角刈りみたいな短髪にごん太の黒縁眼鏡でガリ勉っぽかった鷲田は、最新の写真だと、ちょっとウェーブのかかったいい感じのセンター分けロングマッシュに細い銀縁の丸眼鏡で、インテリ優男になっていたのだ。

 そんな、八月中旬。

 夏休みで帰って来た鷲田と久々に会うと喜んで、私とああでもないこうでもないとデートの服を見繕って、ばっちりメイクもして、普段の百倍輝いてデートに行った琴音は、見る影もなく萎れて六時には私のところにやってきた。

「えっ、どうしたの?」

 インターホンが鳴ったので開けてみたら、そこに琴音がいて、心底驚いた。

 二人とも五月生まれで二十歳になっているので、今日はお酒を飲んで、あわよくばお泊りするので、琴音の親には「嘉乃ちゃんのところに泊まって来る」と口裏を合わせる予定だったからだ。

 今ここに一人で居るというのは、あまりにも早すぎる解散である。

 第一志望校に受かった私は、家からだと通学に時間がかかりすぎるので、大学の近くに一人暮らししていた。そのため、確かに二人のデート先からは、琴音の家よりも私の住んでいるアパートの方が近い。

「侑太くんから、別れてほしい、って言われて……」

 玄関先で、震える声で私に言うや否や、その大きな目にみるみる涙が浮かんで零れ落ちる。

 その涙に夕日が反射して煌めくのを見て、息が止まった。

 白いノースリーブのワンピースが、眩しい。

 可哀想だと胸を痛めなければならないのに。

 鷲田への怒りに震えなければならないのに。

 その一瞬、私の胸に満ちたのは、言いようもない恍惚だった。

 朝はとても幸福そうに輝いていた表情が、絶望に打ちひしがれて、でもそれを表に出すまいと堪えて、でも堪えきれなくなって崩れて、長い睫毛で支えきれなくなった涙が頬を伝う様は、うっとりするほど美しかった。

 朝よりずっと輝いて見えて、ああ、気持ちの昂ぶりが、虹彩を開かせているんだな、と頭の奥で冷静に考えたりした。

 五億画素を駆使して、私はその姿を目に焼き付けた。

「ごめんね、急に、来ちゃって……」

 言葉を失くして固まる私に、琴音は申し訳なさそうに口角を上げて続ける。

「いつでも来ていいに決まってるでしょ! とりあえず入って。話、いくらでも聞くから」

 私は、ようやくハッとして、琴音を部屋に上げた。

 とりあえずワンルームの六畳間のローテーブルの前に座布団を出して座らせて、麦茶を出し、フェイスタオルを渡す。

「ええと、とりあえず、落ち着くまで泣いていいよ。メイク落としも使う?」

「ありが、とっ、貸し、て、っ」

 箱ティッシュから1枚ティッシュを取って目元を押さえ、声を殺して泣いていた琴音は、嗚咽交じりに答えた。

 メイク落としシートを渡せば、琴音は盛大に泣きながらメイクを落とした。

「で、なんでそんなことになったの?」

 二十分ほど経ったであろうか。一しきり泣いて、少し落ち着いた様子になったところで、私は琴音に聞いた。

「侑太くん、東京で、他に好きな人が出来たんだって……」

 か細い声で案の定、というような理由が返ってきて、私は今度こそ怒りに震えた。

「はあ!? ふざけんな鷲田! 琴音はベガじゃなかったわけ!? 一等星差し置いて好きになるなんて、一体どんな女よ!」

 私が悪態をつけば、琴音は携帯をいじって、鷲田のフェイスブックに上がっている飲み会帰りと思われる集合写真を見せてきた。

「ゼミの先輩って言ってたから、この人だと思う」

 琴音は、鷲田の隣にいる女の人を指さして言った。

 うちに来る道中で気になって調べたであろうと思われる行動に、琴音も別れを切り出されたことを受け止め切れていないのだと思う。

 見れば、黒髪のロングヘアなのは琴音と同じだけど、すらっと背が高く、スタイリッシュな感じの女の人だった。

 でも、だからって琴音より綺麗というわけでもない。

「琴音の方がずっと可愛いじゃん! ずっと遠距離で健気に付き合ってきた彼女を捨てて、こんなポッと出の女取るか、普通!?」

 私が憤れば、琴音は目を伏せた。

「東京では、一等星もほとんど見えないんだって。街の光が、明るすぎるから」

 琴音は、小さな声で言った。

「侑太くん、同じ距離だったら、一等星の方が街の灯りよりずっと明るいのに、ごめんって言ってた……距離って、残酷だね。」

 私の言葉を受けて、琴音は痛々しく笑った。

「一等星よりも街の光の方が近くて明るく見えるのなんて、そんな当たり前のこと、最初から分かってたはずでしょ! こんな酷い裏切りってないわ。あと、この期に及んで洒落た言い回ししようとしてるのも腹立つ。ロマンチックが重症化して死ねばいいのに」

 私の罵詈雑言に、琴音は吹き出した。

「なんか、嘉乃ちゃんが私より怒ってくれるから、面白くなっちゃった」

「琴音! 笑ってる場合じゃないでしょ、ちゃんと怒りなよ! っていうか、せっかく直接会ってたんだから、きちんとビンタしてきた!? こう、『最低! この浮気野郎!』パンパンパァン! って三発くらい」

 琴音が笑ってくれたのに少しほっとして、私は続けた。

「あはは、そんなことしてないよ。だって、二年生になってからずっと、連絡頻度も下がり続けてたし、そろそろ限界かなと思ってたから、ああ、やっぱりって感じ」

 琴音は諦めたように俯いて、静かに微笑んだ。

「何、その話。初耳なんだけど」

 薄々そんな気はしていたけれど、直接言われたのは初めてだったので、私は一応、突っ込んだ。

「だってそんなこと言ったら、嘉乃ちゃん、とっても心配するでしょ。侑太くんの所にカチコミかけかねないじゃん」

「今からだってカチコミかけてきてもいいんだよ」

「物騒なこと言わないで」

 私が拳を握って言えば、琴音は少し眉根を寄せて制した。

「だから、うん。いいの。浮気するような男と早々別れられたと思えば、傷は浅いから」

 琴音の強がった笑みに、胸が締め付けられた。

 それでもそんな琴音は可愛くて、愛しくて、お星様みたいに輝いて見えて、親友の悲しみに気持ちが高鳴る自分の最低さ打ちひしがれて、泣きたくなる。

「琴音……」

「なんで嘉乃ちゃんまで泣きそうなの?」

 実際に涙も浮かんできたらしい。

 琴音はもらい泣きだと勘違いして、優しく笑って私にもティッシュを渡してきた。

「だって、琴音が、綺麗だから」

「心がってこと? もう、褒めすぎだよ」

 本音を溢せば、琴音は笑いながら私に抱き着いて、私の頭をよしよしと撫でてくれた。

 その体温と柔らかさに、眩暈がするようだった。

「嘉乃ちゃん、今日は、飲み明かすのに付き合ってくれない?」

 琴音がおずおずと甘えるように言うので、私は力強く頷いた。

「いいよ、いくらでも付き合う! しこたまツマミとお酒を買い込んでさ、パジャマパーティーしようよ。部屋着は貸すから」

「失恋で飲んだくれるのもパジャマパーティーでいいの?」

 私が体を離して意気込んで言えば、琴音は笑って訊いてくる。

「物は言いようよ! 男なんてそれこそ星の数ほどいるんだから、あんなクソロマンチストの愚痴、全部吐き出して、綺麗さっぱり忘れよう!」

 私が言えば、琴音は苦笑気味に、でもおかしそうに笑った。

「そうだね。告白された時はいいと思ってたんだけど、実は私も、『僕のベガになってください』は、ちょっとアレだなと思ってたんだ」

 琴音の言葉に、私は思わず満面の笑みを浮かべた。

「そうだったの!? その意気でどんどん吐き出してけばいいよ! とりあえず、そこのコンビニまで買い出しに行こう」

「うん。あ、でもメイク落としちゃった」

 私が立ち上がれば、琴音もつられて立ち上がってから、思い出したように頬に手を当てる。

「大丈夫。琴音はすっぴんでも宇宙一可愛いから」

 私が本気で言うのを聞いて、琴音は笑った。

「まぁた嘉乃ちゃんは真顔でそんな大袈裟なこと言って! まあ、コンビニだし、いっか」

「いいよいいよ、行こ行こ!」

 私達は二人して、蒸し暑い夜の街に足を踏み出した。

 私の一等星は、街の灯りよりずっと、輝いている。 

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ベガとネオンとアルタイル 佐倉島こみかん @sanagi_iganas

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