第54話 新たな依頼
何かしなければと、エレベーターの中で鷹高田は思った。それは無草のためだけではない、いや、むしろ俺自身のためにしなければならない。そうでなければ、この先ずっと自分で自分を責め、苦しむことになる。
病院を出たところで社に連絡を入れた。自分が見た無草の様子と、奥さんが話した内容、そして、しばらくは戻れないと伝えた。
それから、鷹高田は知り合いの印刷所へ向かった。そこの所長には、仕事の上での貸しがあった。
間に合わないかも知れない。でも、秋野原に、何とか彼の名前が記された本を手にさせてやりたい。できれば息を引き取る前、あるいは、ほんの一瞬でも意識が戻ったときに。
運良く命が助かって、たとえ、もう何も理解できなかったとしても構わない。あるいは、体の自由が利かなくなっていてもいい。その場合には、その後の人生の慰めにはなるだろう。
印刷所に着くと所長に掛け合って、中身は白紙で構わないから、表紙と背表紙、そして最初のページにだけ名前が記された本を作ってくれと頼んだ。もちろん、所長は嫌がった。だが、過去の弱みを突かれ、それがすべてチャラになると言われると、所長は渋々ながら三十部だけ作ることに同意した。
装丁は、コストを抑えて印刷する場合のために用意してある、出来合いのものを使った。書名と著書名だけを変えればいい。カバーも同じようにした。帯も何とかしてもらうよう頼み込んだ。
本のことに目処を付けると、次に鷹高田は知り合いの本屋へ向かった。店長を呼び出すと、平積みのスペースを空けてくれるよう頼んだ。当然のことだが、店長は拒んだ。そこで、店が開く前だけで構わないからと言い、そして仮にだが、ハリーポッターのようなベストセラーを自分の社が出すことになったら、優先して何百部かを持ち込むと約束した。そうして、やっとのことで了解を取り付けた。
そんな大胆な約束をして大丈夫かとも思ったが、自分の社がそのような幸運に恵まれることなどありそうもないし、もしそんなことが起きでもしたら、そのときは何とか考えればいいと思った。その頃まで、この店が営業をしていて、店長が同じである可能性は高くはない。
本は二日後に出来上がった。次の日の朝一番、鷹高田はその本を持ってまず本屋へ出向いた。本を店長に託すと、そのまま無草の家へ向かった。無草は家に戻っていた。無草は、やはり眠っていた。
命を取り止めたのはよかった。だが、もうこのままの可能性もあるのかと思うと、鷹高田は寂しくなった。
鷹高田は奥さんに、「気晴らしになって良いかもしれません」と言って、無草を連れ出した。車椅子を乗せることのできる自動車を用意し、介護の手伝いを連れていた。
車椅子に乗せている間、無草は声にもならない音を発していた。
奥さんは「薬を飲んでいるから」と話した。「途中で気付けばいいんだけど」
希望を持っているのだな、と鷹高田は哀れに思った。
奥さんは続けて、「只の熱中症だそうだから、薬が切れたらすぐ目を覚ますわ」と言った。しかし、車椅子ごと自動車に載せている鷹高田の耳に、その言葉は届かなかった。
本屋に着くと、店先で店長が待っていた。鷹高田は無草を乗せた車椅子を押して、無草の本が並ぶコーナーへ向かった。秋野原無草著の本が三十冊、二列に積まれていた。
鷹高田はそのうちの一冊を手に取って、無草に持たせようとした。
そのとき、隣に積まれた本の脇から出ている、針金に吊るされた案内の紙が、鷹高田の目を捉えた。そこには『追悼
「えっ」と、鷹高田は驚いた。何とか無草に本を持たせると、改めて案内の紙を見た。追悼の文字の横に、『井伊糸川先生が七月十五日急逝されました。先生のご冥福をお祈りします』と書かれていた。
井伊糸川卓夫は歴史小説で有名な作家だった。
七月十五日といえば昨日じゃないか、と鷹高田は思った。ということは、あのとき、三百六号室の入口近く、カーテンの向こうにいたのは井伊糸川で、看護師たちが話していたのは井伊糸川のことだったというのか。
そう考えてみると、確かに、秋野原は有名作家とは言えない。それ以上に秋野原が作家だと知っている者はほとんどいない。
無草は夢の中にいた。パーティの会場で演壇に連れ出されるところだった。マイクを差し出され、それを受け取った。何かの話をするつもりでいた。ところが、それがいつの間にか歌を歌うことになっていた。そうして、受け取ったマイクに目をやると、それは本に変わっていた。その色を見て、自分が書いた本だと分かった。
本の題名はよく読み取れなかった。いつ書いた、どの作品だろうと思って目を凝らしているところで現実が戻ってきた。
本の題名は『未だ無題』と書いてあった。
『未だ無題』だって! 俺はそんなのは書いていない。
そこで無草は完全に目が覚めた。本の重みが伝わってきた。
表紙には確かに秋野原無草の名があった。表紙をめくると、題名と著者名は書いてあったが、その先をめくると全てが白紙だった。
やがて、自分が車椅子に座っていることに気付いた。どうしたことだろうと思って辺りを見渡すと、脇に鷹高田が立っていた。そこで大体のことを悟った。
本を閉じると、鷹高田の方に顔を向けおもむろに話し始めた。
「まず、感謝しておきましょう。これは激励であると同時に、新しいご依頼だと理解します」
そう言うと無草は車椅子から立ち上がり、本を脇に持って歩き始めた。空いた手で拳を作りながら大きな声を上げた。
「よーし、書いて、書いて、書きまくるぞ」
そう言いながら、無草は本屋を出て行った。
無草の様子を唖然として見守っていた鷹高田は、我に返ると無草の後に続いた。
「よーし、売って、売って、売りまくるぞ」
(終わり)
作家 秋野原無草の執筆記 堀久男 @faria
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