第十章 新たな依頼
第53話 『只のゴースト』
『秋野原倒れる』の一報は、月曜定例の営業会議の席に届いた。
会議室には営業部全員が集まっていた。
四角い形に並べられたテーブルのひな壇には、専務、部長、副部長の三人が座っている。
彼らを前に、出版案件ごとに営業担当が進捗状況を報告していた。専務たちはそれを聞いて、稀には納得するものの、ほとんどの場合には厳しい詰問と叱責を浴びせていた。担当たちは、自分が担当する案件の番が回って来るのを緊張しながら待っていた。
一人の担当が専務たちに吊し上げられ、しどろもどろになりながら返事をしていると、会議室のドアが開いて事務員が入って来た。事務員は副部長にメモを渡した。
副部長はそれを専務、部長の二人に見せた後、鷹高田が座っている方を指差して事務員に返した。
鷹高田とその周りの数人は何事かと思った。副部長が誰を指したのかはっきりとしなかったからだ。そのとき、鷹高田と副部長の目が合った。そして、副部長は顎をしゃくった。それで、鷹高田は何か自分に関係することがあったな、と確信した。
事務員が鷹高田の所にやって来てメモを手渡した。
『秋野原無草が倒れ、緊急搬送された』
メモにはそう書いてあり、その下に搬送された病院の名前が記されていた。
鷹高田は副部長の方を見た。副部長は、今度は顎を大きく右の方へしゃくった。行って調べて来い、と言っている。鷹高田はそう理解した。
鷹高田が関係する案件の順番は、もう全て過ぎていた。鷹高田はテーブルに置いた自分の資料をまとめ、ボールペンを胸ポケットに挿した。
そのとき、鷹高田の右側に座る男がメモを覗き込んだ。そして、そのもう一つ右側の男が「何?」と聞いた。
最初の男が「秋野原が倒れたらしい」と答えると、二番目の男は「誰だ?」と聞いた。それに対して、最初の男は、「只のゴーストだよ」と説明した。
鷹高田の心中に怒りが込み上げてきた。そして、最初の男を睨み付けた。男はたじろいだ。
鷹高田は資料を手にして立ち上がると出口に向かった。途中、三人の幹部に向けて小さく頭を下げた。
それから、営業部にある自分の机に向かった。
机に戻って資料を引き出しにしまうと、秋野原の自宅に電話を入れてみた。案の定、誰も出なかった。奥さんも病院にいるとすれば、それも当然だなと理解した。そして、車の鍵を取り出すと駐車場へ向かった。
その間、鷹高田の怒りは収まらなかった。
『只のゴースト』とはどういう言い草だ。何か問題が起きると、その度に俺の所に来ては、秋野原さんに繋いでほしい、と頼んで来るくせに。
鷹高田は車を出した。
途中、思いが巡った。
だけど、俺はあいつらとは違うと、自信を持って言えるだろうか。
秋野原の所に行くのはこちらが困ったときだけ、しかも、持って行く話はどれもが厄介で、ろくでもないものばかりだ。秋野原が自分の名前で作品を出したいことは十分に知っていながら、そういう話は持って行かなかった。秋野原の実力は十分に分かっていて、チャンスがなかったという訳ではないのにだ。いや、むしろ、それを避けていた。それは秋野原をこちらの都合の良いように使い続けたかったからだ。
『只のゴースト』、秋野原をそんなふうに扱っていたのは、むしろ俺の方ではないのか。深い自責の思いが鷹高田を包み込んだ。
病院の受付で、無草の病室は三百六号室だと聞いた。
病室は四人部屋だった。
鷹高田がゆっくりとドアを開けると、入ってすぐ左手のベッドだけはカーテンで閉ざされていたが、残りの三つのベッドは見渡せた。無草は窓際のベッドに寝かされていた。奥さんが入り口の方に背を向けて、ベッドの脇に座っていた。
鷹高田はそっと奥へ進んだ。カーテンで仕切られたベッドからは、何やら忙しない音が聞こえて来た。看護師が機器を操作しているようだった。
鷹高田が無草のベッドに近づくと、奥さんはそれに気付いて体を鷹高田の方に向けた。
「先生の具合はいかがですか」と容態を尋ねた。
「お忙しいのに済みません」と、奥さんは言って説明した。「お騒がせしましたけど、お陰様で落ち着きました。明日検査をするので、それではっきりするとお医者様はおっしゃっています」
「そうですか」と答えて、鷹高田は無草を見た。頬が痩けて顔色はくすんでいた。薄い日が差して陰影がはっきりとし、不気味な感じがした。
奥さんの話では、薬が効いているので今日は寝たままだろうということだった。
そうであれば、自分がここに居ても邪魔になるだけだ。そう考えた鷹高田は、手伝えることがあったら言って欲しいということと、また来るということの二つを告げると、一旦帰ることにした。
病室を出てエレベーターに向かう途中、ナースセンターの前を通るとき、丁度ナースセンターから出て来る若い看護師と擦れ違った。彼女に向けて、ナースセンターの中から年長の看護師が声を掛けた。
「今日三百六号に入った患者さん、急変の危険性があるから気を付けるようにって、先生おっしゃっていたわよ。よく注意していてね」
「はい」と答えて看護師は立ち去った。
そのとき、ナースセンターから別の声が聞こえて来た。
「三百六号って、作家さんっていう方ですか?」
「そうよ。有名な先生らしいのに可哀相ね」と、最初の看護師の声が返事をした。
「えっ」と、鷹高田は驚いて足を止めた。ちょうどナースセンターの入口を通り過ぎたところで、看護師たちからは死角になっていた。
「家族には今のところ、検査結果を見てからって説明しているけれど、先生の勘だと、生き死にが五分五分で、助かったとしても機能障害が残るだろうって。筆は持てないだろうし、それなら良い方で、悪ければ何も理解できなくなるって」
それに答えて、「ああ」とか「気の毒ね」という声が聞こえて来た。
鷹高田は愕然とした。足を前へ出すのがやっとだった。
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