第52話 ジャン・ピエールの来日

 全ての絵に手を入れ終えると昼過ぎになっていた。

 鷹高田がジャン・ピエールと話し終えるのを待って、無草と鷹高田はアトリエを出た。


 飛行機の出発までにはまだ時間があったので、二人はモンマルトルの丘へ行くことにした。ジャン・ピエールが道を教えてくれた。丘まではすぐだった。ケーブルカーがあったので、それに乗って丘に登るとパリ全体が見渡せた。これまでほとんどの時間建物の中にいて、歩きながらか、あるいは車窓から建物の外観を見るばかりだったので、無草は改めてパリに来たことを実感した。爽快な気分になった。

 二人は売店でサンドイッチを買い、ベンチに座って昼飯にした。これが無草にとって、今回のパリ旅行で唯一の観光になった。


 ホテルに帰ると、妻はもういた。

「ちょうど帰って来たところよ」と答えた。「お土産買って来たからね」とビニール袋を掲げて見せた。

 無草夫婦と鷹高田は、それぞれの荷物を持ってロビーで落ち合うと、タクシーで空港へ向かった。

 飛行機の時間には十分間に合った。妻はご近所や知り合いに、鷹高田は社の連中に土産を買いたいと言った。そこで二人を免税店へ買い物に行かせ、無草は独りラウンジへ向かって飲み始めた。


 無草のパリでの記憶はそこまでだった。気付くともう成田に着いていた。妻に起こされると、客たちが席から立ち上がり、頭上のロッカーから荷物を取り出していた。

 入国審査をパスして空港を後にし、リムジンバスで新宿に出たが、無草はその間も寝ていた。そこで目覚めると、鷹高田と別れて家に戻った。

 その晩は、当然のことながら眠ることができず、それからしばらくの間は昼と夜が入れ替わった。夜は長くて悶々とした。


 帰って一週間ぐらいは、荷物の後片付けや何やらであっという間に一日が終わった。妻は、近所や知り合いへの土産物配りに精を出した。小さな紅茶の缶のために、自慢たっぷりの土産話を長々と聞かされるご近所さんやご友人たちのことが、無草は可哀相に思えた。


 一月半ほどが過ぎた。昼過ぎに無草が机に向かっていると、妻が大きな声を上げた。「早く来て」と、ほとんど叫び声だった。

 何事かと思って慌てて居間に向かった。すると、妻はテーブルの前に座り、紅茶の入ったカップを両手で持ってテレビを見ていた。

 何かとんでもないことが起きたのかと心配して慌てて来たのに、無草は妻のそんな呑気な様子を見て、気が抜けると同時に怒りが込み上げて来た。

 妻はそんな無草にはお構いなしに、「早く、早く、今、鷹高田さんがテレビに映ったの」と言った。


「えっ」と、無草は驚いてテレビに目を向けた。だが、番組はコマーシャルに変わっていた。

「本当か?」と無草が聞くと、妻は、「多分間違いない」と答えた。

 妻が、無草にも紅茶を淹れてくれたので、無草は自分の椅子に座った。

 無草が、きっと見間違えたのだろうと思っていると、コマーシャルが終わって、元のワイドショーに戻った。


 画面中央に司会者とアシスタントが立っていた。

「引き続き、芸術の話題です」と司会者が話し始めた。「この程来日したフランス人画家のご紹介です。この秋、パリの画壇に彗星の如く現れた若手画家です。絵だけではなくご本人も魅力的な方です」

 ここでソファに座る画家の姿がクローズアップされた。妻が声をあげた。

「この人よ。この人が出て来たとき、セットの後ろの方に鷹高田さんがいたのよ」

 クローズアップされた画家はジャン・ピエールだった。

「ご紹介します」と言って、司会者はジャン・ピエールの名を告げた。それから、アシスタントと一緒に場所を移り、ジャン・ピエールの前に座った。二人は、通訳を介してジャン・ピエールと挨拶を交わすと、再び話し出した。

「先週の入札では、彼の油絵が、若手としては異例となります約二億円で落札されたそうです。それでは、その絵をご覧頂きましょう」


 そうして、画面は絵を映し出した。無草は唖然とした。俺が手を入れた絵だ。

「これが二億円もするの。すごい」と、妻が驚いて言った。無草は「うん、すごいな」と応じた。そして、あの日、十五、六枚は絵に手を入れたことを思い出した。それから、二億円の十五倍を計算して、呆気にとられた。

 

 それから一月ほど経った午後、買い物に出ていた妻が帰って来た。玄関を開けるなり妻は大声を出した。

「あなた、大変。早くこっちへ来て。これを見て」

 机の前でうとうととしていた無草は、驚いてすぐさま玄関に向かった。妻は上がり框に腰を掛け、荷物を脇に置くとハンドバッグから銀行の通帳を出して手にしていた。妻は、買い物のついでに稿料の振り込みを確認してきたようだった。

 無草は妻の隣にしゃがみ込むと、通帳を受け取って開いた。今度は、入金記録を見た無草が素っ頓狂な声を上げた。自分の目を疑い、目を凝らしてもう一度通帳を見た。いつもよりもゼロが二つ多かった。


 二人して荷物を台所に運ぶと、ダイニングテーブルを挟んで座った。無草がテーブルに通帳を広げると、改めて数字を見た。二人とも黙ったままでいた。

 無草は顔を上げて妻を見た。何か言おうかと思ったが、何と言えばいいか何ら考えが浮かばなかった。そして、思った。いかに彼女でも、さすがにこれ全部を使ってしまおうとは考えないだろうな。

 すると、妻も顔を上げ、目が合った。そのとき無草は、妻の眼がきらりと輝くのを見た。

 いや、あながちそうとは言い切れない。

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