第51話 モンマルトルのアトリエ

 次の日、まだ顔を洗っているとき、ドアをノックする音が聞こえた。「先生、先生」と鷹高田だった。

 妻はまだ姿を見られたくないと言うので、無草は適当に服を羽織って一人ドアの外へ出た。


 無草は驚いた。鷹高田の眼は充血していて、目の下には隈もできていたからだ。

 鷹高田は、「一緒に来て下さい」と言った。

「どこへ?」と無草が言うと、鷹高田は「ジャン・ピエールの所です。手伝って欲しいと言っています」と答えた。


「えっ?」と、無草は思わず口に出した。そして、しばらく思いを巡らせた。

 そう言えば絵を描き終わった後、鷹高田はジャン・ピエールと話をしていたな。それで名前を知っているのだな。俺は教えていない。

 それに、昨日の晩は用があると言って出掛けた。そして今朝は寝不足のようだ。じゃあ、二人で何かしていたということになるな。

「何枚か絵を描いたので、先生に見て頂きたいようです」

 昨日の続きをしろと言うのか、と無草は思った。確かに、ジャン・ピエールには負い目がある。でも、借りは昨日十分に返したつもりだったがな。

「うん。そうできればいいんだけどね。今日は妻がベルサイユに行きたいと言っているんだよ。せっかくここまで来たからね。もちろん、飛行機には間に合うように帰って来ますよ」


 すると、鷹高田が答えた。

「それでしたら、ご安心ください。フロントにガイド付き半日観光のパンフレットが置いてありましたから、探せばベルサイユ行きもあるはずです。奥様にはそれにご参加いただきましょう」

 そして、それから駄目押しをした。

「ジャン・ピエールは昨日の晩から準備を進めてきて、先生をお待ちです。それに、今日は昨日以上の稿料をご用意できるかと存じます。昨日、奥様がお買い物なさったこともありますし……」


 痛い所を突かれてしまった。俺にはベルサイユを諦めろということか。俺はまだほとんど観光などしていないんだがなと、無草は不満に思った。だが、最後は稿料に釣られて鷹高田に従うことにした。

 妻にそのことを話すと、「じゃあ、何かお土産買ってきてあげるわね」と笑みを浮かべて言った。愛情が溢れると言うべきか、あるいは愛に欠けると言うべきか、判断に悩んだ。


 無草は急いで着替えると、鷹高田とタクシーに乗りこんだ。前方に、モンマルトルの丘の寺院が見え隠れした。

 確か、あっちは芸術家が多いことで有名だったな、と無草は思った。

 タクシーは狭い路地に入って止まった。それから、さらに狭い通りを歩いて行った所に目的の建物があった。薄暗い階段を三階まで上り、廊下を進んだ一番先の部屋がアトリエだった。


 そのアトリエは、日本風に言えば二十畳くらいの部屋だった。

 イーゼルが十五、六台ばかり、所狭しと並んでいて、どのイーゼルにも油絵が掛けられていた。画題は昨日と同じで、パリの風景と肖像、どれも若い女だった。一目でジャン・ピエールが描いたと分かる色使いがされていた。

 ジャン・ピエールは椅子でぐったりとしていた。

 他に、肖像のモデルになったらしいパリジェンヌが二人いて、どちらもソファで丸くなっていた。


 物音に気付いたジャン・ピエールが立ち上がった。だが、立っているのがやっとという体だった。

 ジャン・ピエールは、ゆっくりと無草に近づいた。何か小声で話したが、聞き取れなかった。それから、無草を一台のイーゼルの前へ導いた。その脇にはテーブルが置いてあって、パレットと絵具、それに筆が何本も突っ込まれた缶が並べられていた。

 ジャン・ピエールはイーゼルとテーブルの辺りをぐるりと指差した。これで描けと言うのか、と無草は理解した。


 無草はカンバスの前に立ってじっくりと絵を見た。

 昨日の水彩画と同じだった。

 構図も色彩も独創的で、新鮮な魅力を持っていた。特に色彩は鮮やかで、奇妙な調和が無草を惹き付けた。ただ、肖像の輪郭に勢いが感じられなかった。そして、それがモデルの表情から生気を奪っているように思われた。

 無草は、ソファで寝込んでいる二人の女を見た。さすがにモデルだけあって、どちらも整った顔立ちをしていた。無草は肖像画のモデルと思われる女の顔を覗き込んだ。絵とは顔の向きが多少違っていたが、その高い鼻と大きめの口が溌剌とした魅力を感じさせた。しかし、改めて絵を見ると、絵からはそれが伝わって来なかった。


 ふむ、どうしたものかと無草は考え、小筆を選ぶと、パレットに載っていた肌に近い色から濃いめのを筆に付けた。油絵など描いたことがないし、絵筆を持つのは中学以来ではないかと思われるので、まず、パレットに線を描いてみた。なるほど、こんな感じかと分かると、鼻筋を描いた。線に勢いを出すことにだけ気を配った。

 唇は紫で塗ってあったので、濃い目の赤紫でくっきりとさせた。

 それからおまけに、水色の眼の縁を群青を使っていくらか大きくした。これでモデルの魅力が増した。


 描き終えるとカンバスから身を離し、ジャン・ピエールの顔を伺ってどうかと訊いた。

 ジャン・ピエールはうんと頷いた。鷹高田も納得したようだった。

 その後、無草は他の肖像にも順に手を加えていった。

 ジャン・ピエールは椅子に座り込み、途中からは寝込んでいた。鷹高田は、モデルたちが眠るソファの隅っこに腰を降ろしてうつらうつらしていた。

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