第50話 妻の言い訳
そのとき背後から「先生、こちらでしたか」と声が聞こえた。鷹高田だった。
「やあ、君も散歩ですか」と無草は返事をした。
鷹高田は寄って来た。「ほお、似顔絵を描いてもらうのですか」と聞いた。そして、ピエールが札を差し出しているのを目にすると、怪訝そうな顔をした。確かに、札の遣り取りが逆だ。
「うん。これには少しばかり事情があってね」と無草は応じた。「今、ちょっと絵を描くのを手伝ったんだよ。そうしたら礼としてくれるらしいんだけど、こっちはそんなつもりじゃないからね、別に金など要らないんだ」
「えっ!」と鷹高田は小さい声を上げた。そして、顔を強張らせて言った。
「先生。それはお考え違いです。お手伝いなさったのなら、礼は受け取らないといけません」
すると、今度はジャン・ピエールに詰め寄り、文句を言い始めた。
マネージャーという言葉が聞こえた。自分は無草のマネージャーだと言いたいのだろうか。その他、オリジナリティだのクリエイティブだのいう言葉が聞こえてきた。
ジャン・ピエールのほうも負けじと、フランス語で何やらまくし立て始めた。
二人の勢いは凄まじく、いつどちらが手を出してもおかしくないように見えた。だが、そのうち二人とも言い合いするのに疲れたのか、トーンが落ち着いてきた。
鷹高田の方は怪しい英語を、ジャン・ピエールの方はフランス語混じりの英語を使い、これで互いに話が通じ合っているのだろうかと疑問に思ったが、最後は何とか折り合いが付いたようだった。
すると、鷹高田は無草の方に近づいて来て言った。
「先生、彼とは話が付きました。もう、あの男には、先生に不利な立場でお手伝いさせるような真似は致させません。先生はどうぞこのままお手伝いをお続け下さい」
無草は唖然とした。俺は別に好きで手伝っていた訳ではない、と思って言った。
「午後からは、妻とシャンゼリゼへ行くことになっているんだ。もうそろそろホテルに戻ろうと思っていたところだよ。何でも、欲しいものがあるらしい」
「そうですか、承知しました。奥様の方は私がお付き合い申し上げます。先生はどうぞ、このままお続け願います」
そう言うと、鷹高田は足早にホテルの方へ歩き出した。そのとき、背中を向けながら、「これはお預かりしておきます」と言って、ジャン・ピエールから奪ったも同然の札を高く掲げた。
妙なことになったな、と無草は思った。まあ、絵を見て、そして描くのは、結構面白い。妻の買い物に付き合って、見たくもない物を見せられるよりはましかも知れない。ジャン・ピエールを手伝うのも悪くはない。
周りには人が何人か集まってきていた。ジャン・ピエールは営業用の顔になって、これまでの絵を見せながら客を誘った。一人の男がジャン・ピエールに近づき、値段のことなのか、肖像への注文なのか、小声で話し始めた。しばらくして納得したようで、ジャン・ピエールに促されて客用の椅子に座った。
今度もジャン・ピエールがスケッチをし、無草が手を入れ、その後でジャン・ピエールが色を付けた。無草は男を少しばかり意思を強そうにし、風格が漂う人物に描いた。
男は満足し、金を払うとにこやかに立ち去った。
その後も客は続き、十人ばかりの肖像を描いた。ジャン・ピエールはご満悦だった。滅多にない数の客を熟したようだった。
すると、そこへ鷹高田が戻って来た。暗くなり始めてきたこともあって、無草はホテルへ戻ることにした。鷹高田は、ジャン・ピエールと話があると言ってその場に残った。
ホテルに戻り部屋に入ると、妻が上機嫌で待っていた。無草は、部屋のテーブルを見てその理由を理解した。
テーブルには三十センチぐらいの紙袋が二つ、そしてそれよりも小ぶりのものが二つ、合わせて四つの紙袋が置いてあった。今朝の話じゃあ、鞄とアクセサリー一つずつだと言っていたじゃないかと、無草は紙袋を睨んで驚いた。
無草の目の動きに気づいた妻は、言い訳がましく言った。
「この鞄ね、どっちも良い色なのよ。それで、一つに決められなかったの」
「そうか」と無草は答えた。無草は小さい方の紙袋に目を移した。すると、妻は再び言った。
「鷹高田さんがね、どっちも良く似合うって言ってくれたから。それに、今度の稿料はなかなか良いんですってね」
無草は、今度も「そうか」と答えた。
紙袋には、どれにも名の通ったブランドのロゴが付いていた。
無草は、クレジットカードの引き落としは大丈夫だろうかと心配になった。しかし、妻はこれまで二十五年近く家計を遣り繰りしてきたのだから、何とかなる見込みはあるのだろうと思った。まあ、多少の臍繰りぐらいはあるのかも知れないな。
それから、二人は食事に出掛けた。
部屋を出ると、鷹高田の部屋へ向かった。パリ最後の夜なので一緒にどうかと誘うことにしたのだが、ドアをノックしても返事はなかった。仕方なくロビーに降りると、フロントに鷹高田がいた。
そこで誘ってみると、鷹高田は、「まだ、用がありまして」と言い、足早にホテルを出て行った。
「若いから色々とあるんじゃないの」と妻が言うので、そうかも知れないなと考え、二人だけで出掛けることにした。
無草と妻はとくに行く当てもなくホテルを出たが、しばらく行ったところで小さなビストロを見つけた。妻の方を見るとこくりと頷くので、そこに入った。
店は、南仏かスペインを思わせる雰囲気に造られていた。十五ぐらいのテーブルがあって、その七、八割が埋まっていた。
無草たちは店の真ん中辺りの席に案内された。だが、二人とも何を注文していいのか分らなかった。メニューを見ても、ちんぷんかんぷんで無駄だった。尋ねたとしてもその返事が理解できないだろうから、近くのテーブルに出されている料理を指差しながら、適当に注文した。酒はハウスワインがあるということが何とか分かったので、それにした。
料理は旨かった。酒もなかなかだった。そして、妻はご機嫌だった。
妻は、今日一日思うがままに買い物をし、高級レストランとまではいかないが、こざっぱりとした店で食事をしたのだ。人生の中でもほとんど最良の日だったに違いない。妻の笑顔を見ながら無草はそう考えた。
勘定を済ませるとき、多少ぼられたような気もした。だが、旨かったし、雰囲気も良かった。まあ、店の選択は正解だったなと思った。
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