第49話 絵の『稿料』
しばらく見つめていた無草は、やっぱり鼻が変だなと思った。女の鼻はもう少し高く、先に向かって反っている。それを勢いのある線で表さないといけない。今のままだと、線が細くなったところが鷲鼻のように見えて、彼女の魅力である気品が伝わってこない。カップルが不満なのは頷ける。
無草は絵に顔を近づけた。ここだよなと見ているうち、無草は右手に持っていた筆だけを左手に移し、自分でも意識しないまま鉛筆で鼻筋を描いていた。大切なのは勢いだと、そのことだけを気に掛けていた。その後少し身を引いて、鼻全体を見、うむ、これだと納得した。
そうすると今度は頬の辺りが気になってきた。これも線がぶれているせいで、痩けて不健康に見えた。無草は、今ある線の少し外側を狙って、ためらいのない曲線を引いた。細い顔立ちに僅かに膨らみのある感じが出せた。うむ、こうだなと思った。
それからもう少し絵から離れて見て、眼に輝きが加わると魅力が増すだろうなと考えた。そうして、右目の下に線を加え、眼を少し大きくした。白眼の部分が大きくなった。うむと、無草は納得した。
そのとき、「オオッ」という男の声と、「アッ」という画家の声が聞こえた。
しまった、と無草は思った。ついつい、人の絵に勝手に手を入れてしまった。無草は凍り付いた。
お前が鉛筆を渡すからだろう、と開き直ってみるかという考えが一瞬頭に浮かんだ。しかし、やはりここは素直に謝るべきだと考え直した。だけど、『ご免』はフランス語では何と言えばいいのか分らなかった。
するとそのとき、「ブラボー」と男が言った。
無草が男の方に目をやると、男は手を叩いていた。その横の女も微笑んでいた。あっけに取られた無草が周りを見渡すと、画家が目に留まった。無草はどきっとした。画家は不機嫌そうだったが、怒るというのとは少し違った。画家は、仰向けにした両手を腹の辺りで押し出すように動かしていた。もっとやれと促しているように無草には思われた。
戸惑いながら無草はもう一度絵に向かい、今度は左目の下側に線を加えた。色紙の中の女は両目がぱっちりとした。これで美人度が十パーセントぐらいアップしたな、と無草は満足だった。
「ブラボー」に続けて何か言ったと思うと、男が絵に近寄って来た。男は、まだ乾いていない水彩に気を遣いながら色紙を手に取った。そうして、それを女に渡した。女は、注意しながらも嬉しそうに受け取った。
男は画家に近寄ると、財布から札を何枚か取り出して渡した。それから、無草の方を向くと拳を上げて笑い、女を連れて去って行った。無草は小さく頭を下げた。
無草は画家の方を向いた。やっぱり「ソーリー」が適当かなと思っていると、画家は男から受け取った札の一枚を無草に差し出した。
無草は困惑した。商売が上手く行った礼のつもりだろうが、非はむしろ自分の方にある。だから金を受け取る訳には行かないと言いたかったが、そんな複雑なことをフランス語にできる訳もなかった。
すると、画家は札を無理矢理無草に押し付けた。「サンキュー」と言うのも変だと思ったので、無草は黙って札を受け取った。後で土産物を買う足しぐらいにはなるのかな、と思った。
無草は、散歩を続けようと、会釈して立ち去り始めた。
すると、画家は「ノン」と言い、無草を引き止めた。
画家はジャン・ピエール何とかと、名乗った。無草は秋野原と名乗った。だが、画家は「アキノ」までしか言うことができなかった。
ジャン・ピエールは自分がいつも絵を描くときに座っている椅子の脇を指差し、そこに留まるよう無草を促した。
周りを見ると若い女が三人立っていた。その内の一人が肖像を描いて欲しがっているようだった。
ジャン・ピエールはその子を自分の前の椅子に座らせると、何枚かの色紙を出して彼女に見せた。色紙には、一枚ごとに違った背景の建物が描いてあった。
なるほど、と無草は思った。こうすれば早く描ける訳だ。建物の線が力強かったことにも納得がいった。描き慣れたものを慌てることなく描くのだから、思うままに線を引くことができるのだろう。
女の子はエッフェル塔が描いてある色紙を選んだ。ジャン・ピエールはその色紙に女の子の肖像を描き始めた。
無草はその様子をじっと見守った。下書きなど一切せずに一気に鉛筆を動かして行く。さすがプロだと無草は思った。
ただ、線を引いている途中、時々手の動きが勢いを失い、迷いを見せた。
ボブヘアーの輪郭が、線の揺らぎと太さのぶれのせいで実際よりもぺしゃんこになり、その分顔が膨らんで見えた。それに、唇の下側の線が所々下にぶれて、口全体がぼてっとした感じになった。女の子には可愛そうな結果と言えた。
すると、ジャン・ピエールが立ち上がった。鉛筆を無草に差し出し、椅子に座るよう促した。
無草はそれに従い、絵と女の子を見た。やはり、肖像の方は、実際に比べて顔が膨らんで見えた。肩よりも上だけが見える体とのバランスが悪かった。
無草は、まず、髪の輪郭の線の上から、丸みを帯びた力強い線を引いた。髪全体が膨らんだ。それから唇の下側の線を消しゴムで消して、すっきりとした線に引き直した。髪型と唇の二つで顔全体が引き締まった感じになった。それから上唇の両端を少しばかり上に引き伸ばして、アヒル口に近づけた。こうして、表情が可愛らしくなった。
今度はサービスのつもりで瞳をつぶらにした。きらきら感がぐっと増した。
うむ、良くなったと、無草は納得し、立ち上がった。そして、鉛筆をジャン・ピエールに返した。ジャン・ピエールも満足したようだった。
その後、ジャン・ピエールは水彩のパレットと筆を持って、色を付け始めた。
ジャン・ピエールは、その際立った色彩感覚を十分に発揮した。
実際は茶色の髪をやや薄めに塗り、鮮やかなピンクのハイライトを付けた。唇もピンクにすると彼女の顔が明るくなった。
今度は、実際にはグレーの丸首シャツを、ほんの少しだけ緑がかった青で塗った。これで顔立ちがはっきりした。
その青のシャツは腕に近づくほど緑がかっていって、その奥にあるエッフェル塔は深い緑で塗られていた。全体として、青から緑の背景を背に女の子の顔が際立って見えた。
ジャン・ピエールは満面の笑みを浮かべ、女の子に肖像画を見せた。
女の子たちは集まって絵を覗き込むと歓声を上げた。そして、ジャン・ピエールを褒め讃えると、金を払って帰って行った。
ジャン・ピエールは、再び札を一枚無草に差し出した。
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