第48話 似顔絵画家
ホテルの玄関で後権田一行を見送った後、妻は土産に化粧品を見たいと言った。化粧品売り場などに自分がいるのは場違いだ。無草はそう考えて、午前中は分かれて行動し、午後に二人でシャンゼリゼ辺りをぶらぶらすることにした。妻はそこでも鞄を買いたいと言った。それに、「できたらアクセサリーも見たい」と続けた。このアクセサリーについての話しぶりは、鞄のことを話したときよりはいくらか控えめだった。
妻は今回の稿料を全て鞄とアクセサリーに替えるつもりなのだろうか、と無草は懸念した。
無草は独りで外に出た。鷹高田は適当に楽しむだろう、と思った。
ホテルの近くにセーヌ川が流れていることは知っていたので、方向だけ見定めて、そちらに向かった。セーヌ川に達すると、堤防の歩道に沿って歩いた。
しばらく進むと、歩道が広がって公園のようになっている場所に出た。端の所からは堤防から一段下がった川べりに降りる階段もあった。大勢の人が出て、思い思いに過ごしていた。ジュースやクレープを売る店が出ていて、周りには人だかりがあった。絵を描いている者もいた。
無草はその中に、似顔絵を描いて売っている画家を見つけた。
その画家はまだ若く、スラリとした長身の男だった。窪んだ眼窩と膨らみのない頬のせいで、いくらか神経質そうに見える。冷ややかな二枚目と言えた。
その画家の背後にはいくつかのイーゼルが立てられていて、画家自身が描いたらしい絵が並べられていた。
画家の前にはどちらも四十ぐらいだろうか、一組のカップルがいた。観光客らしく、パリに来た記念に女の絵を描いてもらっているようだった。
女は金髪で鼻筋が通り、薄い青い眼をしていた。それに合わせたのか薄い青のシャツを着て椅子に腰掛け、体を斜めにしてポーズを取っていた。
無草は画家の背後に掛けられた絵に目をやった。
鉛筆でくっきり描かれたスケッチに、水彩で濃い目の色付けがなされていた。多くは肖像画だったが、人物の背景にエッフェル塔、ノートルダム寺院などが描き込まれていて、パリ観光の記念には持って来いの絵だった。
掛けられた絵はどれも、建物は落ち着いた感じの色合いで、肖像は髪や眼、それに衣服の部分が大胆な明るい色で彩色されていて、その点が魅力になっていた。それに、建物と肖像の配置と大きさのバランスが特徴と言えた。
その色使いに魅了された無草は、イーゼルに掛けられた絵を順に見ていった。しばらく絵を眺めていた無草だったが、そのうちに腕組みをして「ふーむ」と唸った。
どの絵もそうだったが、背景の建物は、力強く、勢いのある線で描かれているのに対し、肝心の肖像の方は線にためらいが感じられた。特に曲線部分には揺らぎがあって、太さがぶれていた。
それから無草は、邪魔にならないよう気を遣いながら画家の背後に回り、椅子に座る女の絵を画家の肩越しに覗き込んだ。
セピアに塗られた凱旋門を背景にして、金髪を揺らす女の眼は鮮やかな青になっていた。髪にも同じ青いハイライトが入って、それが細い顔立ちを華やかなものにしていた。シャツは鮮やかなピンクに塗られて、色白の肌を際立たせていた。
無草はやはり、「ふーむ」と唸った。
女の魅力は高い鼻筋にあったが、その線が今一つ弱く感じられた。それに、頬の辺りの輪郭も違うように思えた。女は細い顔立ちだったが、痩せこけているというのとは違う。これではげっそりしているように見えてしまう。
これでは肖像とは言えない。背景の強さに比べて顔が弱すぎる。これはむしろ、女が写りこんだ凱旋門の風景画だ。
そんなふうに思っていると、画家は色紙から筆を離し、少し体を引いて絵を見つめた。そして小さく頷くと顔を上げて、笑みででき上がったことを表した。それから立ち上がり、カップルを手招きして絵を見るよう促した。
男が手を差し出して女を立たせた。二人は手をつないだまま、にこやかに話しながら絵に近づいていった。
ところが、絵を見た途端二人の表情は凍り付いた。まず、男が「アッ」と声を上げ、続いて、女が小さな悲鳴を上げながら口を手で覆った。それから、二人は見つめ合って肩を落とした。
画家は、最初こそ自慢気に胸を張っていたが、カップルの様子を見て顔を曇らせた。そして、手にした筆と鉛筆で自分の絵を指差しながら、早口に話し始めた。必死さが伝わって来た。
やがて、カップルが背を向けて帰り始めた。画家は手を差し伸べた。「待て」と言っているようだった。それでもカップルは振り向かなかった。
画家は辺りを見渡し、無草を見付けると二、三歩近づいて、右手に持っていた鉛筆と筆、左手に持っていたパレットを押し付けた。無草は画家の表情におののいたが、勢いに押されて受け取った。
画家は無草のことなど眼中になく、そのままカップルの方へ向かった。カップルの前に出ると絵を指差して話し始めた。仰向けに開いた左手を右手で叩く様子から、金を払えと言っているように見えた。
カップルの男は絵を指差して何か言うと、その手を左右に振った。受け取りと支払いを拒否しているようだった。
言い合いが始まった。両者の声は次第に熱気を帯びてきた。周りが二人に注目を向けた。
無草は、そんな二人のことは無視して、女の絵に目を凝らした。
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