第九章 ジャン・ピールの絵

第47話 パリ国際環境会議

 パリでの会議は、案外あっさりと終わった。

 会議場内にある千席ほどの座席はほとんど埋まっていて、場内は熱気に満ちていた。だが、無草は会議場全体が見渡せる通訳ブースの中にいて、ヘッドホンを付けていたので周りは静寂そのものだった。

 後権田が演壇に立つと、無草はマイクが拾う音にだけ注意を向けた。そして、後権田が話し始めると、少し遅れて英語の原稿を読み始めた。後権田が多少躓こうが、一言二言飛ばそうがお構いなしに、淡々と原稿を読んだ。それは、後権田が望んだことだった。自分が書いた日本語の原稿に合わせて、自分が書いた英語の原稿を読むだけなので、た易かった。


 演説が終わると会議場は大きな拍手に包まれた。演壇を降りた後権田は、日本代表の席に戻ると仲間に囲まれてご機嫌だった。

 無草がブースを出て後権田に会いに行くと、後権田は満面の笑みで無草を迎えた。そして、両手で無草の手を包み、「感謝の言葉もないよ」と礼を言った。

「とんでもない。何よりです」と無草は答えた。

 その後、各国代表やら、NGOやらの演説が続いた。そうして、会議は成功裡に終わった。


 レセプションは場所を変え、オペラ座近くのホテルで行われた。

 そこで、会議に出席した一行は、妻や後権田夫人と合流した。二人は会議の間、視察と言う名目でパリ市内を観光してきていた。

 二人は馬が合うようで、旅の間中ずっと一緒にいた。その内、二人は大学の同窓であることが分った。歳は数年違ったけれど、共に知っている教授がいて、その話で盛り上がっていた。


 レセプションが始まると、後権田の周りには役人やら記者やらが大勢集まって来た。彼らは盛んに後権田に向かって質問を浴びせた。

 無草は早口の英語、特にアメリカ人の語尾がはっきりしない英語で質問されると聞き取る自信がないので、その通訳はお役人に任せた。後権田がその質問に答えると、少し間をおいて、無草が答えた。無草は、後権田がどういうふうに答えた場合にもそれを翻訳したかのように装いながら、実のところ、演説の中から適当なフレーズを選んでは勝手に返事をしていた。それでも、相手はそれで納得していたようだった。

 結局、後権田の思い描いていた通りの展開になり、上手くいった。

 妻と後権田夫人は、しばらく離れたところからその様子を見守り、二人で仲良く話をしていた。真珠のネックレスを身に付ける機会を得て、妻はご機嫌だった。


 翌日、後権田夫妻は別の仕事があるというので、お役人たちを引き連れてスペインへ向かった。

 無草と妻、それに鷹高田は、朝、皆が出発するのをホテルの玄関で見送った。無草たち三人は飛行機の都合で、翌日の夕方出発する便で帰国することになっていた。だから、その日一日と、次の日の午後遅くまではのんびりできることになった。

 長い時間ではないが、役得だ。まあ、パリを堪能させてもらおうと、無草は思った。


 気掛かりは十四時間のフライトのことだった。だが、こっちに来るとき何とかなったので、同じ方法を使えば耐えられるだろうと、以前よりは気が楽だった。

 飛行機の座席は、大臣夫妻は当然ファーストクラスだったが、無草夫婦と鷹高田にはビジネスクラスが当てがわれていた。だから、搭乗する前に専用のラウンジを使うことができた。そこで無草は早めにラウンジに着いて、しこたま飲んだ。乗り込む前にはもう完全に出来上がっていた。飛行機に乗り込み席に着くと、直ぐに寝込んだ。


 着陸のときのことは覚えてなくて、途中で一度目覚めたのはヒマラヤの北側辺りを飛んでいるときだった。幸い気流は安定していて、飛行は穏やかだった。すぐに出された機内食をつまみに、もう一度飲んだ。そうして、また寝た。

 次に妻に揺り起こされたのは、飛行機がドゴール空港に到着する直前だった。目が覚めると窓から滑走路が見えて、翼が左右に揺れていた。無草は一瞬背筋が寒くなるのを感じた。体全体が硬直して小刻みに震え始めた。これは拙いと思ったが、飛行機はすぐに着地した。機体の揺れがタイヤを通しての振動に変わった途端、体の力が抜け、気持ちが落ち着いた。

 何とかなった、と無草はほっとした。


 これは、鷹高田が無草を説得するために考え出した案だった。何でも昔、飛行機が落ちそうになる映画を見たことがあって、乗客皆が怖がる中で、唯一人酔っぱらった客だけは落ち着いていたことを参考にした、と言っていた。

 帰りの便では、起こすのは着地してからにしてくれと、妻に頼むことにした。

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