第46話 買収された妻
「そう言われてもね」と無草が言った。「お役人に頼めばいいのではないかな」
「はあ、それですが。あの演説以来、環境省のお役人たちとは、以前に比べれば上手くいっているようです。ただ、後権田さんのお役人たちへの信頼はまだそれほどではないのです。それともう一つ、お役人が入って来ると、やはり、堅くなるといいますか、先程も申し上げましたように、ついついお役所言葉が出てきてしまいます。前回の演説が好評だったのは、ひとえに先生が普通のお言葉で原稿をお書き下さった結果だと、後権田さんはお考えです。ですから、パリのレセプションでも是非先生のお力をお借りして、フォローをお願いしたいとおっしゃっておいでなのです」
「ふーむ」と無草が唸った。
「もう一つ、演説の際の同時通訳もお願いしたいということです」
「同時通訳?」
「はい。専門家に頼むという方法もございますが、後権田さんとしては、後権田さんの演説の進み具合からは多少離れても、先生がお書きになった英語の原稿を、先生のテンポでお読み頂く方がより意図が伝わるに違いない、とお考えです」
「なるほどね」と無草は言い、しばらく考えてから答えた。「まず、そんなふうに言って頂いたことに感謝しましょう。パリでなければ是非ともお力になりたいと、お伝え下さい。でも、飛行機の件は、単に『嫌いだ』という問題ではなく、もはや肉体的な『拒否反応』なんです。PTSDと言っていいのかも知れません。ですから、残念ながら無理だとお伝え願います」
二人とも腕を組んで沈黙した。
そこへ「遅くなりました」と言って、妻が入って来た。
玄関でのやり取りからして、妻が菓子で釣られていることは十分に考えられる。それで鷹高田の狙い通りに、仕事を請けろと言うかも知れない。気を付けよう。だが、今回ばかりは譲る訳にはいかないと、心に固く決めた。
そうして、妻が持つ盆に目をやった。盆には、てっきり鷹高田が持って来た菓子が載っているものと思った。だが、盆に載っていたのは、ここ数日、家の仏壇の前に供えてあったバウンドケーキだった。
単に菓子がかぶった、というだけのことなのかも知れない。だが、そんなことは可能性としては低いだろう。鷹高田が手ぶらで来たのだとすると、妻と鷹高田との玄関でのやり取りは何だったのだろう、と無草は考えた。すると、妻は二人の前に茶と菓子を置いてから無草の脇に座った。そうして、盆と一緒に持っていた紙を開いて話し始めた。
「面倒なことは何もないんですって」
何のことを言っているのか、無草にはとんと理解できなかった。そして、きょとんとしながら妻の顔を見た。妻は続けた。
「ここに書けば、後は旅行社の方がやって下さるそうですよ。」
無草は、妻が手にしている書類を覗き込んだ。それは旅券の申請書だった。
妻は完全に鷹高田の側に着いて、俺をパリへ行かせようとしている、と無草は理解した。妻は鷹高田に完全に操られているのだ。恐らく土産に化粧品か何かを買って来ると約束されて、鷹高田に買収されたに違いない。鷹高田は、妻を使って俺を牛耳るつもりだ。だけど、そうはさせないぞ。
すると、妻はさらに続けた。
「私たちがしなくちゃいけないのは、パスポートを取りに行くことだけですって」
「えっ!」と無草は思わず口に出した。『私たち』と言ったぞ。それじゃ何か、妻も一緒に行くということか。
目を丸くした無草は鷹高田の顔を見た。鷹高田は、無草の目付きにいささか気圧されて答えた。
「レセプションには、多くの方がご夫婦で出席なさいます。ですから奥様にもお出で願いたいと、後権田さんがおっしゃいまして……」
無草は改めて妻の顔を見た。妻はうっとりとした目付きでいた。心はもうパリにあるようだった。
すっかりその気だ。こうなった妻を止める手立てはない。からめ手は完全に破られていたのだ、と無草は思った。もはや観念する以外の道は残されていなかった。
だけど、本当にどうしたらいいのだろう。そう考えると鳥肌が立った。
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