第45話 訪欧の依頼

 十日ほどして鷹高田がやって来た。

 玄関で随分長い間妻と話し込んでいて、妻の甲高い声が聞こえてきた。

 後権田の件で何か礼でも持って来たのだなと、無草は思った。

 鷹高田は部屋に入って来るなり大袈裟に礼を述べ始めた。

「先生。この度は誠に有難うございました。後権田さん大喜びです。一昨日、秘書の方がわざわざ社までお出で下さいまして、そう話しておられました」

「ほお、そうですか」と無草は答えた。


「あの会議以降、後権田さんとお役人側の関係が改善してきたそうです。後権田さん自身がおっしゃるには、『随分と居心地が良くなった』とか。でも、後権田さんが喜んでおられるのは、もう一つの影響の方なのです。」

「もう一つですか。それは?」

「はい。後権田さんが会議を上手く乗り越えられ、お役人たちを使い熟すようになられたことで、与党内での後権田さんに対する評価がぐんと上がってきたことです。同僚議員の皆さんも、環境問題ではアルファベット三文字か四文字の略語をよくお使いになります。でも、ご本人たちもその意味や、それぞれの関係については結構いい加減に捉えておいでだったようです。あの演説以降、原稿をご覧になった先生方から、『やっと意味が分かったよ』という声が後権田さんに寄せられているようです」

「なるほどね」


「それに、英語版の方も海外のNGOを中心に好評のようです。お役所の作る文章は独特の言葉遣いがあって、分かりにくいことがあります。日本語の場合ですとやたら『~等』が出てきたり、『当該』、『係る』など分かりにくい言葉があったりです。英語の場合でも似たようなことがあったようなのですが、今回先生がお書きになった原稿の英語版は簡単な単語を使って分かり易く、その上正確だという評判です」

「そう言ってもらえるのは光栄だね」と、無草は素直に喜んだ。

「実を申しますと、あの翻訳は、事前に外務省が目を通していたようです。中に二、三か所、古い言い回しで、最近では使われない表現があったとかで、そこだけは直しが入ったそうです」

「そうですか」と、無草は答えた。「私の英語はせいぜいディケンズまでだからね。そんなこともあるでしょう」


「それで、今日はそのことを伝えに来てくれたのですか?」と無草が訊いた。

「はい、そのことですが」と鷹高田は言った。しかし、そこで言い淀んだ。

 そして、「実は」と言いながら、背筋を伸ばして用件を話し始めた。「先ほども申し上げましたように、後権田さんの秘書が私どもの方へお見えになりました。そしてその際、先生に是非ともお願いしたいと、新しい依頼を持って来られました」

「ほお」と無草は答えて、考えた。俺をスピーチライターとして雇いたいとでも言うのかな。まあ、安定して稿料が入って来るのなら、それも良い。俺にとっては好都合だ。ただ、用件を切り出す前に、鷹高田が口籠ったことが気になった。

「それで、どういう話ですか」と、無草は先を促した。


「はい」と、鷹高田が話し始めた。「前回の演説が大変好評だったことが政権内で高く評価されています。そこで急なことですが、来月パリで行われる環境国際会議に、後権田さんが政府代表として派遣されることになりました。その席で、今回の演説をもう一度行う段取りだそうです。それで、先生にそのお手伝いをお願いしたいということでございます」

「それは、良かった。後権田さんもお喜びでしょう。で、私に何をしろとおっしゃっているのですか?」


「はあ」と言って、再び鷹高田は躊躇した。「実は、先生にもパリへ行って頂きたいのです」

「パリへ行けだって」と無草は驚いた。そして、むっと来た。

 この間三重に行ったとき、飛行機が駄目なことは散々話しただろう。苦手とかいう生易しいレベルではない。体が受け付けないのだ。国内を移動するだけでも体が拒否反応を示すのに、半日近くはかかるパリまでのフライトに耐えられるはずがないだろう。そう思いながら、気持ちを抑え込んで言った。

「これからの時期、パリはきっと素敵だろうね。しかし、残念ながら無理だよ。これから出発して、会議の日までに、パリまで行ける客船が見つかるとは思えないからね」


 鷹高田は、無草の強い拒否を理解したようだった。しばらく俯いて考え込み、顔を上げてから話し始めた。

「先生。先生が飛行機を苦手だと、新幹線の中でおっしゃったことを忘れた訳ではありません。先生が北海道へ行く際に飛行機で経験なさったこと、そして、そのときのお気持ちは十分に理解しているつもりでございます。ですが、そこを何とか、後権田さんのご意向だけでもお聞き頂けませんでしょうか」と鷹高田は頭を下げた。

「この前の会議は先生のお陰で上手く乗り越えることができました。ただ、あの会議のとき、後権田さんが困惑なさったことが一つだけあったそうです」

 無草はむっとした表情をしながらも、黙って聞いていた。その様子を確認して鷹高田が続けた。


「それは会議の後のレセプションの席でのことなのです。後権田さんの演説が好評だったものですから、NGOの関係者やら報道陣やらが後権田さんの元へ大勢押しかけて来たそうです。彼らは、随分と色々な質問を投げ掛けてきたそうです。後権田さんは演説の内容を繰り返したり、『演説で話した通りだよ』と言ったりして、何とかその場をしのいだそうです。でもそのとき、用語の意味などについてご自身も混乱してしまい、かなり慌てられたそうなのです」

 無草は相変わらず仏頂面で聞いていた。


「今回パリに派遣されるようになったことは、後権田さんも大変お喜びです。ただ、このパリの会議でも会議後にはレセプションが予定されております。今度の場合、各国の閣僚も出席する盛大なものになるということです。後権田さんは、その際、同じようなことが起きて、しかも今度は恐らく英語で迫られるでしょうから、その場合のことを心配しておられるのです。『日本の代表として恥を掻く訳にはいかない』とおっしゃっています」

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