第44話 環境会議
翌日、昼前に鷹高田がやって来た。無草は、鷹高田が後権田から急かせられていることを確信した。
鷹高田は部屋に入ると、挨拶もそこそこに原稿に目を通し始めた。
無草は、原稿を渡すと鷹高田に背を向けて、朝から始めていた原稿の英訳に没頭した。
原稿を書き進めているときから、英訳することを念頭に、日本語と英語で表現方法が全く異なる構文は避けるよう心掛けながら文章を作り上げていた。だから、英訳はスムーズに進んだ。普段使わない単語の綴りにだけは気を配った。
無草が恐れたのは、時間に余裕があることを理由に、英訳の作業が別の専門家に委ねられることだった。自分がお膳立てをしておいた美味しい仕事を取り上げられて、その分稿料が減らされるようなことは真っ平だ。
原稿を読み終えると、鷹高田は、
「では、この原稿、早速後権田さんに届けて参ります。英訳の方を引き続きお願いします。また、伺います」と言うと、そそくさと帰って行った。
後権田の心配は、無草にもよく分かった。『自分でやる』と大見えを切っておいて、演説がろくでもないものだったり、ましてや、自分の側ではどうにもできず、最後になって役人に手伝ってもらうことになったりしたら、大臣の面目などなくなってしまう。そうなれば、残りの任期中、役人の操り人形になってしまうだろう。だから、早めに原稿を手にして目を通し、手直しをするとともに読む練習をしておきたいのだろう。
それに、環境省の役人たちも事前に目を通したがるに違いない。大臣がとんでもないことを話したりしたら、そのとばっちりを食うのは自分たちだ。これまでの環境省の見解との整合性を確認しておきたい、とか何とか言って原稿を手に入れようとしてくるだろう。
まあ、後権田にしても意地を張った成り行きでこうなっただけなのだから、自分の方で原稿を準備したとなれば、それが事前に見られたとしても別に異存はあるまい。むしろ、事前にチェックさせておけば、何かあった場合『お前らも見ただろう』と言い逃れの理由にできるというものだ。
原稿が役人たちの意に添わず、役人たちが何か注文を付けてきた場合には、赤を入れられた原稿がすぐにも俺の方に帰って来るだろう。
まあ、そのときは仰せのままにすればいいと考えながら、無草は英訳に取り組んだ。
次の日も作業を続けていたが、鷹高田から連絡は来なかった。
その後、英訳が終わって連絡すると、鷹高田が英文の原稿を取りに来た。そのとき鷹高田は、後権田からの連絡はまだないと話した。
翌日、英語版の原稿を後権田事務所に届けに行った鷹高田から連絡があった。後権田は原稿を気に入って手直しの要望もないようだ、と話した。
「原稿の写しは環境省にも渡っているそうです」と、鷹高田は続けた。「環境省側の反応ははっきりしませんが、これまでのところ、特に何かを言ってきたということはないそうです」
「それなら結構」と無草は答えた。
これまでの環境省の言い分は入れておいたし、それを超える内容について『理想は高く』語ってはいるが『何かをする』とは言っていないから、役人の側としては特に問題はないのかも知れないなと、無草は思った。まあ、上手くいけば良し、駄目なら大臣の責任と、高見の見物を決め込んでいるのだろうな。
鷹高田との電話の後、もういいだろうと考えて、無草は資料を後権田事務所に送り返すことにした。読み込んだ資料は前よりも膨らんでいて、段ボールに詰め込むのは一苦労だった。山のように盛り上がった蓋の上に座り込んで、端の方から順にガムテープを貼って押さえ込んでいった。それでも元の直方体には戻らず、丸みを帯びた形になった。それから玄関に運んだが六箱も運ぶと腰にきた。昨日、原稿と一緒に鷹高田に持って行かせるべきだったなと、無草は思った。六箱ともなると、運賃も馬鹿にならない。
二週間ほどして、会議の日が来た。無草は夕方以降ニュース番組のはしごをして、ずっとテレビを見ていた。だが、会議のことを扱うテレビ局はなかった。夜遅くになって、一局だけが会議の行われたことを報じた。映像の背景に後権田の姿が映っていた。
次の日、朝一番で新聞に目を通すと、やはり後権田が写った写真と共に『国際的な会議が開かれた』と、開催の事実を伝えるだけの記事が載っていた。
役人たちが心配していたような、とんでもないことは起きなかったようだな、まあ、可もなく不可もなくということで、良しとしよう、と無草は思った。
その後、昼近くになって駅まで出かけ、売店で主な日刊紙を仕入れて来た。どこの新聞社も同じような感じで会議開催の件を伝えているだけだった。しかし、一紙だけが後権田についても書いていた。
内容は、環境大臣が会議冒頭に演説を行ったという事実を伝えると共に、『主張に新味はなかったものの、環境問題の最近の動きについての理解を示した』と、評価するものだった。全体の感じとしては、これまで色々と騒ぎを起こして来た後権田が、何とか役目を果たしたと語っていた。
その日以降も無草が新聞に注意を払っていると、後権田の名前をちょくちょく見かけるようになった。どうも、以前に比べるとより好意的に扱われることが増えたように感じられた。後権田の党内での評価が高まっているという記事も見かけた。
後権田には結構な結果になったようだなと、無草は思った。そして、俺についてはどうなんだろうなと、稿料がどれくらいになるのか気になった。
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