第43話 積まれた資料

 翌日、夕方近くになって、資料が届いた。送り主は環境省の大臣官房で、全部で段ボール箱が六箱あった。鷹高田からの連絡を受けて、後権田がすぐに送らせたのだな、と無草は理解した。


 宅配業者が、重たそうに箱を抱えて車と玄関の間を行き来する様子を、妻は唖然としながら玄関の脇に立って見ていた。無草は廊下にいて、上がり框に並べられる箱を見ていた。部屋まで運ぶのは俺の仕事だろうなと、重い気持ちになった。

 宅配業者が帰り、全ての段ボール箱を独りで部屋に運び入れると、息が上がった。部屋は段ボール箱に占領されたかのようになり、足の踏み場を見つけるのに困るほどだった。


 無草は、足元の段ボール箱を少しずらして隙間を作り、そこに座って一つの箱を開けてみた。会議の資料が、本の形になっていたり、透明な表紙を付けて簡単に製本されていたり、あるいは、ただホチキスで留められただけの状態で詰め込まれていた。

 無草は、この箱全部がこんなふうなのだろうかと、暗澹たる気持ちになった。


 それから、段ボール箱を動かして隙間を作ってはそこに体をずらす、ということを繰り返して、すべての箱を順に開けていった。会議の資料がぎっしり詰まっていたのは最初のを含めて二箱だけで、残りの箱には数字とグラフばかりのデータの束が入っていた。

 無草は、読む分量が減ったなと、少しばかり安堵した。そして、なんでこんな数字ばかりのものまで送ってくるのかと、疑問に思った。だが、少し考えて、大臣に命じられた役人が、しかも、それが気に入らない大臣からのものであれば、どんなふうに応じるかを考えることで納得がいった。きっと、遺漏があって非難されるよりはと考えて相手の手間のことなど気にもせず、何でもかんでも箱に詰め込んだに違いない。


 無草は、データが入っただけの要らない段ボール箱には蓋をし直し、それらを積み上げて座る場所を作った。それから、資料が入った箱二つを並べて、中から資料を取り出した。そして横に並べて、順に目を通し始めた。

 あまりに専門的な内容が書いてある所と、数式がずらずらっと並んでいる所は、不必要だと思って読み飛ばした。読んだところでどうせ分かりっこないし、数式に至っては読むことさえできない。

 だが、無草に理解できるところをざっと読んだだけでも、これまで自分が新聞やテレビから得ていた知識に比べて、専門家たちの議論は遥か先に進んでいることが分かった。彼らのこの問題に対する懸念がひしひしと伝わって来た。


 そのとき、鷹高田から電話があった。

「書類は届きましたでしょうか」と、鷹高田は尋ねてきた。

「ああ。届いたよ」と無草が答えた。「段ボールで六箱もあって驚いたよ」

「そんなにございましたか」と、驚いたように鷹高田が応じた。

 無草は、分量を強調しておいた方が、締め切りが怪しくなった場合の言い訳に役立つだろうと考えて、そのうち四箱は数字の羅列に過ぎないということは伏せておいた。嘘は吐いていないからなと、無草は思った。

 鷹高田は、面倒を掛けて申し訳ないが宜しく頼むと言うと、電話を切った。


 それから三日間、無草はただひたすら資料を読み込んだ。

 読み進めているうち、繰り返される現状分析やそれに基づく主張から、無草の中で、後権田の演説に含めるべき内容がぼんやりと固まってきた。

 資料の中には、環境省のこれまでの主張をまとめたものもあった。後権田は、大臣という立場上これから外れた内容を話す訳にはいかないだろう。問題は、当たり前と言えば当たり前のことだが、専門家たちが求めていることと環境省の主張との間に、結構大きなギャップがあるということだ。

 それなら理想は高く掲げておいて、現実的な目標を説くというのが妥当なところなのだろうな、と無草は思った。


 そんなふうに書く方向性が決まると、後は何ということはなかった。演説の時間は二十分と言われていたから、分量としては大したものではない。無草の筆は軽やかに動いた。ときおり、環境問題で使われる特別な用語の意味を確かめるため、資料をめくるのに筆を止めるくらいだった。偉そうなことを話していて、肝心の言葉を間違えて使っていては、笑い者になってしまう。

 書き終わり、全体を通して表現が統一されているかということや、実際に読んだ際の息継ぎのし易さのことなどを確認していると、鷹高田が電話を寄こしてきた。進み具合の確認だった。


 約束の日までにはまだ時間があった。だが、鷹高田にしてみれば、期日直前になって『間に合わない』と言われても困るだろう。そのための連絡だろうなと、無草は思った。でも待てよと、考えた。心配になった後権田の方がせっついてきたせいだ、と考える方が納得がいく。

 そんなことを思いながら、「大方でき上がっているから、明日にでも取りに来るといいよ」と、無草は返事をした。

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