第42話 稿料の誘惑
「ふーむ」と、無草は唸って考え込んだ。
環境問題についてなら、新聞の投稿で何度か扱ったことがある。でも、それは新聞やテレビが扱った内容をネタにしたものだから、データといったところでごくありふれたものだ。それに、賛成、反対双方の立場から書くには書いたが、内容はどれも世間一般にある見方をまとめたものに過ぎない。だから、専門家が集まる会合で話す内容としてはお粗末に過ぎるだろう。
専門家たちは会議を重ねて議論を深めている。だから、会議までにまず最新の情報を手に入れて、専門家たちの議論に追い付かなければならない。だが、そんな時間的余裕はあるのだろうか。第一、情報にはどんなものがあって、それはどうすれば手に入れられるのだろう。
無草が何を考え込んでいるのかを察したのか、鷹高田が声を掛けた。
「環境問題につきましては、これまで様々な議論がなされてきました。それで今回の会議のため環境省が用意していた資料については、後権田さんの事務所が送ってきてくれることになっています。その中には、各国の専門家たちが行っている研究の、最新の動向についても含まれているそうです。これはかなりのボリュームがあると聞いています」
「そうですか」と無草は答えた。情報が手に入るのは有り難い。内容を膨らませることができるだろう。ただ、かなりのボリュームという点は気になる。どれくらいあるのだろう。それに、専門家たちの最新の研究という話だが、素人が読んで理解できるものなのだろうか、と心配になった。数式が出て来ると厄介だ。
無草が難しい顔で考え込んでいるのを見て、鷹高田は申し訳なさそうに続けた。
「後権田さんからはもう一つ希望が届いております。と申しますのも、会議前に準備しなければならないこともあるので、恐縮ですが早めに書き上げて頂きたいということなのです」
無草は顔を上げて鷹高田の方に目をやり、「ふーむ」と唸ると再び考え込んだ。
「その準備なのですが、一つには後権田さん自身が原稿を読み込んで演説の練習をするということがあります。その他には、会議には海外からの参加者もありますので、原稿を英語に翻訳しておくという作業が含まれるのです。これには結構時間が掛かるのではないかと後権田さん側は懸念なさっています」
「なるほど」と無草は応じた。そして、また一段と厄介になったなと思った。理解できるかどうかはっきりしない大量の資料を読み込んで、専門家レベルの原稿をまとめる。それだけでも上手くいくかどうか怪しいのに、その上時間がないときた。この話、請けて大丈夫だろうか。
無草の様子を窺っていた鷹高田が声を掛けた。
「先生。先生にはこのところ新聞への投稿の執筆ばかりをお願いして参りました。もっと良い依頼をお願いしたいと、色々と動いてはいるのですが如何ともしようがありません。大変申し訳なく存じます。今回の依頼はこれまでのものとは毛色が異なります。ですが、これが新しい仕事への切っ掛けになればと思います。それに、稿料の方もかなりのものをお約束できます。新聞投稿の件ではご無理をお願いしておりましたが、今回、短期間に資料をお読み頂かなければならないこともありまして、精一杯の努力をさせて頂きます。後権田さんの方にもその旨お伝え致しておりまして、了解して頂いております」
確かにそうだな、と無草は考えた。新聞への投稿の『稿料』は小遣いに毛が生えた程度のもので、暮らしていくには全く足りないものだった。その一方で、南並の新曲の売れ行きは良いようで、定期的に稿料が入って来ていた。だが、こっちの方はずっと続くというものではないだろう。別に借金がある訳ではないからすぐにどうこうということはないが、ずっとこのままでという訳には行くまい。どうも選択肢はないらしい。
腹を括った無草が言った。
「その翻訳のことだけどね、原稿を書くのと並行して、私がするというのはどうですか。全体としてみれば時間の短縮につながるんじゃないかな。そうすると、その分原稿をまとめるのにかける時間を増やせるように思うんだ」
「確かにそうですね」と、鷹高田が明るい顔をして言った。「後権田さんの方に話してみます。以前お手伝い頂いた翻訳の作品をお見せすれば、先生が英語に堪能でいらっしゃることはご理解頂けるでしょうから」
こうして話は決まった。
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