勿忘草の橋

@ninomaehajime

勿忘草の橋

 亡くなった人間に会えるという橋がある。

 その橋は深山幽谷しんざんゆうこくの谷間に架かっており、半ばほどで途切れている。本来ならば谷底に落ちるはずの架け橋に草の蔓がおびただしく絡みついて、空中で支えているのだ。地元の人間は勿忘草わすれなぐさの橋と呼んでいる。さそりの尾に似た咲き方をする黄色い小花が瑠璃るり色の花びらに取り巻かれ、その花々が濃緑色に彩りを添えているからだ。

 恋人が亡くなった。山菜を採りに行って、誤って急峻きゅうしゅんな傾斜を滑落したのだろう。必死に山中を捜し回り、無残な姿になった彼女を発見した。その亡骸は、左手の薬指が欠損していた。

 悲嘆に暮れた。彼女のいない日々は、急速に色褪せた。このまま恋人の顔や声を忘れていくことに恐怖した。人間の記憶は薄情だ。どれほど大事なものでさえ、雑多な出来事の底に沈めていく。

 だから橋を目指した。もう一度、彼女に会いたかった。勿忘草の橋は常世に通じてるという。渡り切ってしまえば二度と現世には戻れない。それでも構わなかった。彼女と同じ場所へ行けるのなら。

 山に立ち入り、草木を掻きわける。大きく育った山毛欅ぶなが頭上に聳え、ゼンマイの新芽が足元でとぐろを巻いていた。深く足を踏み入れるほど、靄が濃くなっていった。鋭い鋸歯きょしの草葉が肌を傷つけ、樹枝が衣服を裂いた。ただ恋人に会いたい一心で、山林の奥へと身を進めた。

 断崖の上に出た。空は雲とも霧ともつかぬ白濁に隠され、峡谷の底はもやに隠されている。その向こうには、やはり濃い緑に覆われた岸が望める。その境に、空中で途切れた橋があった。縄が千切れ、崩落するはずの架け橋が緑の茨に囚われ、至るところに勿忘草の瑠璃色が添えられている。ああ、ここだ。

 夢遊病に近い足取りで、その袂へ向かう。此岸から伸びた植物の鎖が絡みつき、不自然な形で橋を支えている。どうやってこうした状況に至ったのか、全くもって見当がつかない。あたかも未練が架け橋を繋ぎ止めているかに思えた。

 半分に欠けた橋に足を乗せると、勿忘草の芳香に包まれた。頭が痺れる感覚がする。抜け落ちた橋桁の部分から深い谷底が垣間見えた。蔓で形成された手すりを伝うと、全体が揺れた。空中で途切れた場所に辿り着く前に落ちてしまうのではないかと不安がよぎった。

 この方法で、本当に死者と会えるのだろうか。今さらになって疑念が渦巻いた。揺れる橋と同調して、決心が鈍った。所詮は伝承に過ぎない。架け橋の途中で立ち往生した。その視線の遥か先にある彼岸に、人影を見た。

 亡くなった恋人の姿だった。見る影もなくなった亡骸とは異なり、生前の愛しい面影が遠目からでも視認できた。名前を叫ぶ。彼女が五本の指が揃った左手を差し伸べた。

 向こうの岸から夥しい蔓草が空を這ってきた。此岸で支えられた橋と繋がり、こちらとあちらを結ぶ。現世と常世との道ができた。この橋を渡り切れば、自分は二度と戻れないだろう。もうどうでも良いことだった。

 恋人の名を呼びながら、途切れた橋まで辿り着いた。これより先は、棘を生やした茨や蔓草で形成された常世の橋だった。その果てに、彼女が佇んでいる。あの懐かしい微笑みを浮かべて、自分を待っている。

 一歩足を踏み出そうとして、片足が動かなくなった。何かに足首を掴まれている。見下ろすと、驚愕に目を見開いた。勿忘草の花をあしらえた植物が人間の手を模して自分を引き留めている。引き剥がそうとしても、かたくなに緑色の指を放さない。

 何者だ、どうして邪魔をする。すぐ向こうに彼女がいるというのに。おそらくは血走っていたであろう目で睨みつけると、ある事実に気がついた。自分にしがみついていたのは左手で、薬指が欠損していた。

 体から一気に力が抜けた。勿忘草の香りに包まれながら、もう一つの伝承を思い出した。かつてこの山にはぬしがおり、山中で起こった全てを知り尽くしていたという。山の主が去った後も、この山は全てを記憶している。生も死さえも。

 君なのか。瞳を揺らして、勿忘草の手を見つめる。死してなお、自分に生きろというのか。

 震える両手を伸ばそうとして、はたと気づく。この手が彼女のものなら、向こう側で待つあの恋人は一体何だ。再び面を上げ、橋の果てを見た。眼前でこちら側を繋いでいた蔓草が解けた。

 途切れた彼岸に佇んでいたのは、恋人の形をした裂け目だった。暗がりから大小の眼球が覗き、その瞼を閉じた。

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