受験やけ

村崎沙貴

 

 机に突っ伏す。

 エアコンのない部屋。モワモワと纏わりついて重みをかけてくる空気を吸い込むと、喉がチリチリとした不快感を訴える。

 頭が重い。余計なものをごたごた詰め込まれたみたい。ぼう、っとした感覚を振り払おうとすると、内側から殴られるような、擦れて抉り取られるような痛みが出る。

 広げた問題集は、かろうじて一問一答の部分が埋まった状態で放置されている。これ以上わからない、訳じゃない。ただただ気が乗らなくて、片手間で解けるより難易度の高い問題に取り組むのが面倒なだけだった。

 嫌々、シャーペンを握る。切り替えて、紙の上の文字を読もうとすると。

 遠くから、かすかに聴こえる家族の喋り声が耳につく。

 目が滑る。

 息を吐く。

 イヤホンを取り出す。

 しばらくリスニング。

 ……全く、集中できない。

 思考は、英文ではない別のもので占められている。

 うるさい。うるさい。

 ……もう、


 ――どうでもいい。

 そんな言葉が頭の中を、ただ意味もわからないままに巡るようになったのは、いつからだろう。



「姉ちゃん、スマホ触ってないで勉強しい」

 弟がにやけている。私を見下せるのが愉しくて仕方ないのだと、表情が物語っていた。

「そうよ。あんた、このまんまじゃ落ちるけんね」

「……」

 うるさい。私、もうB判定取ってるんだよ。いや、だからといって油断しちゃいけないことくらい、わかってるけど。


「受験生なんやけ、」

 家族からのこの言葉が、酷く嫌いだった。

 わかってる。わかってるよ。私のことは、私自身が誰よりもわかってるのに。

 全然わかってないでしょ、世の中は貴方が思ってるほど楽じゃないんだよ。そう言わんばかりに説教される。

 なんだか、私という存在が心の底から舐められている感じがして。

 一度そう捉えると、もう止まらなかった。

 ちょっとした言葉を邪推するようになった。何か言われても、返事するのが億劫になった。視線だけで、身構えるようになった。笑い声だけで、心臓が縮むようになった。

 うるさい。うるさいよ。

 みんなの言ってることは間違ってる。論理的には正しいように見えても、とにかく違うんだ。


 ――珍しいやん。真面目に勉強しよるとか。

 面白がる声が、意識の中でこだまする。

 せっかく考えていた内容が、追い出される。

 手が震える。腹の内が掻き回されるような、煮え滾る怒りにも似た気持ち悪さ。吐き気がこみ上げてくる。

 いっそのこと、全部をほじくり出して捨てて、空っぽになれたら良いのに。

 縋るような、悲観的な考え。気力を奪う害悪とも言えるそれが、一時的かつ唯一の鎮火剤だった。


「ごめんね。私、今年受験やけ」

 会うのは、八月アタマので最後ね。それ以降は、三月の、全部終わった後までおあずけ。

 自分から、告げた。

 そっかあ、と、友達は納得してくれた。

 頑張って。ちょっと寂しいけど、待ってるね。

 そう言って笑顔を見せてくれたんだから。都合良く頼ってはいけない。

 待たせるなら、私の方も我慢しなきゃ。


 味方は、いる。でも、頼れない。頼っちゃいけない。


 ……気が散る。


 …………受かったところで。


 みんな、喜んでくれるだろう。でも。


 〘受験は団体戦です〙


 私ではない、誰かの手柄になるのなら……


 ――わたしはこんなに、みんなのためにがんばってるのに。

 母の声が蘇る。

 私が受かったところで。

 それを支えたみんなのおかげだ、って言われるかもしれない。そうやって、感謝を要求されようものならば、私はいよいよ耐えられる自信がない。

 ――そろそろ、心入れ替えて頑張り。

 父の声が蘇る。

 入れ替える、って。

 まるで、今の私が正しくない心を持ってるみたい。

 私の心は私の心。唯一無二なのに。

 捨てて、新しいものにしなきゃいけないの? 受験のために?

 冗談じゃない。


 気持ち悪い。

 操り人形が、糸を通して泥水に汚されていくみたい。

 糸を切っても、逃げ出す一歩を踏み出すに至らないままへたり込んで終わりだと、想像がつくから。

 縛られて、抗えば、必要なものすら全て断ち切られてしまう。私は逃げられない。

 悪意ともつかない何かが染み込んでくる。内側から、腐っていく。


 いっそのこと、誰の目にも明らかなくらい、ぐちゃぐちゃに壊してよ。

 

 そうすれば、躊躇わずに助けを求められるのに。


 嫌い。

 世間から見たら『真面目な良い人』にしか見えない自分勝手達が。

 嫌い。

 善意の皮を被った『忠告』という名の下での軽蔑が。

 

 世の中、まともに見えるまともじゃないものに満ち溢れていて。


 その象徴とも言える気質を持つ『凡人』達に囲まれて、私は生きている。


 ああ、もう。


 

 ――どうでもいい。何もかもが、どうでもいい。


 ……あれ。

 心が最高潮に沸き立って、大きな憤慨を爆発させた後。感情の燃料切れを起こしたかのように、私はふと冷静になる。


 何を、やってるんだろう。

 どうでもいい、どうでもいいんでしょ。

 なら、どうでもいいんじゃないの、周りのことなんて。


「受験やけ」

 そうやって友達との交流を絶つ時、私は何を考えていたっけ。どんな覚悟をした?

 ……そうだ。


 私は、受かりたい。

 受かっても、じゃない。それは、受かってから考えることだ。


 私には、目標がある。揺るがない、志望校がある。こんなにも贅沢で、受験生として理想的なことなんてないじゃないか。



 どうせなら。後先なんて考えず、がむしゃらにぶつかっていけばいい。それ以外のことは、今はまだ、どうでもいいんだ。



 起き上がって、シャーペンを握り込む。

 紙の上の字を追って。

 途切れ途切れでも、解答を綴ってゆく。


 集中するのは苦手じゃない。だって、考えに沈んでいる間は暑苦しい蝉の声なんて微塵も気にしなかった。

 勉強するのも苦にならない。だって、今こんなにもワクワクしてる。


 間違ったって良い。そんなことで崩れるプライドこそ、どうでもいいものだ。

 さっきみたいに迷走したら、悩みを捨て去ってしまおう。


 どうでもいい。


 改めてそう唱える。

 気持ちは晴れやかだった。

 

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受験やけ 村崎沙貴 @murasakisaki

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