第9話 別れと始まりの曲
日記を
私は涙を手で拭い、袋から「月の光」の楽譜を取り出す。楽譜にはたくさんの書き込みがあった。苦戦した和音、指使いなど、何度も練習したところに彼女のアドバイスが書かれていた。そして楽譜に挟んであったメモに、「月の光」の解釈が書いてあった。
「始まりの曲」=「月の光」
ドビュッシーにとって自分の音を表現することができた最初の曲。
相反するものが一緒になっている、曖昧な世界観。
最後には静けさに戻るが、最初と最後の静けさは同じじゃない。一歩進んで、また新たな問題に直面した時、それは最初と同じとは言わない。少しずつ進んでいる。この曲もそれと同じで、だから始まりの曲だと私は思う。
真新しい色の紙、丁寧に書かれた字。それは恐らく彼女が使っていたものでなく、新しく書いてくれたものだった。
最後のページに手紙がはさまれていることに気づいた。
文字はところどころ掠れていて、何度も消しゴムで消した跡が見られた。
透夏ちゃんへ
私は幸せでした。出会ってから、あなたに自由という名の贈り物をもらいました。
私はあなたが自由になることを望んでいます。
でもね。
それは期待ではなくて、一人の人間の想いです。それを受け取るかどうかはあなたが決めること。
願わくは、あなたが幸せを見つけられますように。
手紙を握る手が震える。私の目からは大粒の涙が零れ落ちた。
「梗子さん、ありがとうございます」
私はようやく彼女にお礼を言った。
「山木さん、こんにちは。調子はどうですか?」
「学校に行けるくらいには良くなりました」
「ご家族とはどんな感じですか?」
「前と変わりませんが、特に気にしていません」
数週間前、生きることを自分で決意した。そして彼女のピアノを譲りうけた。「期待」という呪縛を失い、「願い」という支えを手に入れた私は新たな世界へ飛び立った。
病院の帰り道、ホスピスの棟から出てくる律くんと会った。
「律くん、こんにちは。ボランティアの帰り?」
「透夏ちゃん、こんにちは。そうそう。透夏ちゃんは病院の帰りかな?」
「うん。そうだ!もしよかったらピアノ聞いてかない?」
「もちろん!」
「僕ね、実は透夏ちゃんがいなくなるんじゃないかと思って、すごく心配だったんだ。それなのに僕は何もできなかった」
今だったら分かる。彼が私の学級委員長の辞退を断ったのは、彼なりの気遣いだってこと。
「大丈夫、ちゃんと伝わってるから」
透明な空の下、私は「月の光」を奏でる。
これからたくさん挫折を経験して、彼女の助けがない私は何度も心を折ることだろう。でも、私は自分の力で幸せになるために生きてゆく。
始まりの曲に乗せて響かせる想いは、願いだった。
死に向かう正反対の二人の物語ー終わりの音と始まりの光ー 織川想子 @sousi-orikawa
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