第8話 彼女の想い
誰かの期待に応えることでしか存在意義を見出せない私を救ってくれた彼女は、もういない。
時間が過ぎていく感覚がない。私の時間はまた、止まった。止まった時間を一緒に動かしてくれた彼女によって、止まった。あの後、どうやって帰ったかも覚えていない。一つ分かることは、今私は死に向かっている、これから死にゆく、ということだ。
寒い。あの後から食べていないせいで、体はもう、ほとんど動かなくなっていた。家のチャイムの音が聞こえる。窓から下を見ると、玄関の前に律くんが立っていた。まとまらない思考、だらしない部屋義のまま家の扉を開ける。白昼夢を見ている感覚だった。
ドアを開けた途端、午後の光が差し込み、これが現実なんだと否応なく突き付けられる。
「ちょっと待ってて!」
彼は私を見るなりそう言って、駆けていった。
暫くぼうっとしていると、彼が戻ってきた。手にはゼリー飲料を持っていた。
「透夏ちゃん大丈夫? ゼリー飲料飲めるかな?」
彼は相変わらず優しいな。そんなことを考えながらそれを受け取る。飲む気は、なかった。
「ありがとう」
「ちょっと伝えなくちゃいけないことがあって、上がらせてもらってもいいかな?」
彼がここまで踏み込むのは珍しいことだった。私はこくりと頷き、彼を中に入れる。
一階のリビングは、冷え切っていた。
「ホスピスの看護師さんからの伝言で、斎藤梗子さんっていう人のお葬式があって、その人のご両親が透夏ちゃんに来てほしいみたい」
彼は単刀直入に言った。
手に握っていたゼリー飲料を手から離す。ぼとり。それが、地面に落ちる音がした。
聞きたくなかった。認めたくなかった。でも、彼女が亡くなったということは覆しようのない事実なわけで。私は今日、それを何度も突き付けられていた。
「行くか行かないかは透夏ちゃん次第だよ」
椅子に座っていた彼は、落ちたゼリー飲料を拾い、飲むように促す。
「苦しいのは分かってる。でも、生きてほしいから」
私は彼に押され、ゼリー飲料を口にする。彼女のおかげで、人前で無理に適応障害を隠すことはなくなっていた。
彼が帰った後、私は彼が渡してくれた彼女のお葬式の紙を眺める。ゼリー飲料のおかげか、一時的に普通の生活ができるようになっていた。
ふと、最後に弾いた「松雪草」が頭をめぐっていた。それは、十一月の曲。しかし、心のどこかで引っかかるものがあった。その引っかかりが自分でも分からず、ネットで検索する。
「四月の曲……なんで……」
彼女が最期に頼んだ曲は、十一月の曲ではなく、四月の曲だった。四月の、雪解けが進んでいる様子を描いた作品だった。
『水色の 清らかな
待雪草の花
傍らに 透きとおる
消えかけの雪
過ぎ去りし悲しみによせて
最後の涙を流し
初めて夢見るのだ
また別の幸せを』
私は、頭の中に響いてくる「松雪草」の音色と共に今は亡き彼女の想いを見た。
「彼女は私に、前を向いてほしかったんだ……」
その時、初めて私は彼女にちゃんとしたお別れとお礼ができていなかったことに気づく。
翌日の夜、私はお通夜に向かっていた。その日は彼女と出会った日と正反対の、透明な青空が広がっていた。
お通夜は粛々と執り行われた。そしてお通夜が終わり、参列者達が帰り始めた頃、彼女のお母さんに声を掛けられた。彼女のお母さんは、優しそうな目元が彼女にそっくりだった。
「ご多用にもかかわらずご会葬いただき誠にありがとうございます。きっと故人も喜んでいることと思います」
「この度は、誠にご愁傷様です。心からお悔やみ申し上げます」
「これは、梗子から渡すように言われていたものです。今読まれる場合はここで読んでいただいて結構ですので、読み終わったらお声がけください」
彼女のお母さんから渡された袋には、「月の光」の楽譜と日記が入っていた。
五月一九日。
末期がんで余命半年と言われた。不思議なことに悲しさはなかった。ずっと死と隣り合わせで生きてきたから、もう感覚が麻痺しているのかもしれない。一緒に聞いた両親は泣いていた。ずっと私に謝っていた。謝るのは私の方なのに、私が全部悪いのに。そしてやっぱり命は崇高なものじゃなかった。
五月二十日
今日は「月の光」を知っている少女に出会った。彼女は私の演奏をあたたかい、と言ってくれた。苦しそうな彼女を、最後の残りの人生で救いたいと思った。
六月十三日
徐々に体が弱っていく。彼女との約束の日に、発作を起こしてしまった。彼女は私が余命半年だということにショックを受けていた。そして気遣いからだろう、彼女はいつか旅行に行きたいと言った。嬉しい反面、悲しかった。彼女と出会ってから、死ぬことを受け入れることができなくなった自分がいた。
七月七日
彼女と旅行に行った。彼女には、他人の期待を背負わされるという、私と同じ人生を歩んでほしくなかった。私も同じだったから。いつの間にか、心から彼女の幸せを願っていた。
七月九日
旅行から帰ってきて、彼女の演奏に想いが宿りはじめた。私は幸せだった。
九月
彼女は部屋に来なくなった。恐らく私が泣いているところを聞いてしまったのだろう。彼女には申し訳ないことをしてしまった。私が死にたくなかったのは、彼女と一緒にピアノを弾きたいからだったのに、全然が罪悪感を感じる必要なんてないのに。
十一月
彼女に自由になってほしい。そう願うようになっていった。だから、私は最期に「松雪草」を弾いてもらうことにした。彼女は、私の願いに気づいてくれるだろうか?
彼女ならきっと、気づいてくれる。
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