第7話 短い春

 彼女の病室には週に一回ほど、通っていた。彼女はもう、何を言っても目を動かすだけで起き上がることさえ困難になった。それでも私が行った時は、目で合図を送ってくれた。彼女が少しでも楽になるように、少しでも病状が良くなるように、私は弾けるようになった「月の光」を弾いていた。

 その日は、嫌な予感がした。足早に彼女の病室を目指す。彼女の病室には、看護師さんがひっきりなしに出入りしていた。私は彼女の病室に向かって走っていた。

 病室にはご家族とお医者さんがいて、彼女の不規則な呼吸音が病室の扉の近くまで聞こえた。ご家族は彼女の両手を静かに握っていた。死の気配が入り口まで迫ってくる。私は病室の隅に立ったまま、動けなかった。

「あなたが透夏さん?梗子に会ってあげてくださいな」

 私は彼女のお母さんに促され、傍へ寄る。彼女は誰かと会話をしているようで、意識はここにはなかった。そして彼女のお父さんに促され、ピアノに触れる。

 ドレミファソラシド、息を吸い私は演奏を始める。

 何回も何回も練習した「松雪草」、私は軽快な粉雪が舞うように鍵盤を鳴らす。これが彼女にとっても私にとっても最後の演奏になる、それは分かっていた。

 「ごめんなさい……っ」

 私は泣いていた。

 いっぱい傷つけてごめんなさい。

 梗子さんの想いに気づかなくてごめんなさい。

 何もできなくて、ごめんなさい。

 粉雪が舞う中、彼女は息を引き取った。

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