第6話 期待と願い

 久しぶりに音を響かせている。旅行から帰ってきて久しぶりに弾くピアノは、以前と違う音を響かせているように思った。いや、正確には、私から出ている、響いている音が違う、そんな気がした。そして、私の居場所は音楽だったんだ、そう思った。足りない言葉を、音楽が補ってくれる。音楽で、私は表現している。

 あの夜の月の光が、彼女の言葉が、音の幅を広げていた。

「透夏ちゃん、音に感情が乗り始めたね!」

 彼女は、自分のことのように喜んでいた。

 また彼女は前にも増して明るく、そして日々を楽しんでいた。しかし、確実にベッドにいる時間は長くなっていった。

 ある日、いつものように私は彼女の病室を訪れた。その日彼女は珍しく起きていて、静かだった。私の方を見て笑みをつくるが、それはいつもとは違った微笑みだった。

「透夏ちゃん、ちょっといいかな?」

 私は彼女の表情から真剣さを読み取り、急いで荷物を置き傍に座る。

「透夏ちゃんは、なんで死にたいと思ってるの?」

 在りし日の思い出が鮮明に蘇る。

「昔は幸せでした。でも、祖母が死んだあの日、私は祖母の期待に応えられなかったんです。そして結局は両親の期待にもこたえられなかった。誰かの期待に応えようとして自滅した人形が私です。つまり私の自業自得ですね」

 私は自虐を込めて笑みを浮かべた。

「どういうこと?」

 彼女は優しく問いかける。

「最初はみんな幸せでした。でも、私が両親の期待に応えようとしたばかりに、苦しくなって。それで祖母のところに逃げました。でも、祖母は直前に私にある言葉をかけてくれました。

 透夏ちゃんは、やりたいことをして生きていけばいいんだよ、と。

 祖母の期待は私がクラシックをやることで。だから、私はクラシックをやろうとしました。でも、親はそんな私を見て、ピアノを捨てようかと話していました。その時、両親は私に勉強をしていい大学に入ってほしい、という期待を抱いたんだと思います。なので、私は両親を取りました。でも私は適応障害を発症し、拒食症のような症状が現れました。それから両親は、ぎこちなくなり、私に期待しなくなりました。私はそこで終わったんです。だから、死のうと思います。」

「そっか……」

 その日はそれで話が終わり、何もせずに帰った。彼女は、いつもと少し違った。

 その日の夜。窓に差し込む月の光をベッドから眺めていた。

「梗子さん、あの話には続きがあります。

 私は、またクラシックをやろうと思えた、忘れていた最初の気持ちを思い出せた。だから、まだ生きていてもいいかな、そんな風に思っています」

 

 楽しかった。もっとピアノに触れたくて、もっと演奏を昇華させたくて、前にも増して彼女の病室に通った。しかし、あの日から少し様子がおかしい彼女のことが気になってもいた。

 その日は夏休みで学校がないため、朝から彼女のところに行こうと思い、病室の目の前まで来ていた時だった。病室で何やら話し声と泣き声が聞こえる。私は反射的に立ち止まる。

 その泣き声は、彼女のものだった。

「死にたくない……生きたいよ」

 そう言って泣いていた。愕然とした。

 彼女が明るく振舞っていたのは、楽しかったからじゃない。辛かったからだ。

 分かっているはずだった。今までだって、そうだったから。

 なのに。私は彼女の気持ちを勘違いして、自分だけ受け入れてもらって、彼女の気持ちを考えなかった。

 死のうとしていることを受け入れてくれて、私のことも受け入れてくれたのに。

 私の懺悔が彼女を苦しめていた。

 そして結局私は彼女が居なければ何もできない。両親の呪縛から解き放たれたところで、彼女がいなくなればまた、呪縛にかかるだろう。

 また、死のうと思うだろう。

 自分の愚かさに茫然としながら、静かにその場を後にした。


 十月初旬、うだるような暑さが過ぎ去り、肌寒さが日に日に増してきた頃。そして私が彼女の病室に行かなくなって一カ月。あの日以来、彼女の病室には行っていない。彼女とのつながりはあの病室のピアノだけだったため、連絡先も知らず連絡が来ることもない。病室まで届かない繋がりの短さに虚しさだけがこみあげてくる。

 怖かった。何もする気が起きなかった。ただただ時間だけが過ぎていく無意味な日々。そんな日々に意味など見出せるわけもなく、私はまた、死ぬことを決意した。

 しかし、そんな日々でも彼女の状況がいつも頭の片隅にあり、何事にも集中できなかった。学校にも行けなくなった。

 その日は、どういう気の迷いか病院の帰りにホスピスの棟まで来てしまった。彼女の病室がある階に来たはいいものの、罪悪感から引き返そうとした時思わぬ人物の声がした。

「あれ?透夏ちゃん?」

 私が驚いて振り向くと、律くんの姿があった。彼はホスピスの病室からやってきて少し間を置いてから話しだす。

「どうしてここに?」

 私は咄嗟には言えず、彼女のことをなんていおうか迷ってから口を開く。

「知り合いの面会に来た」

「そっか!僕はホスピスのボランティアをやってて、今終わったところだったんだ」

「実は……行こうかどうしようか迷ってる」

「そっか、行きたい気持ちもあるんだね」

「私は……その人を傷つけた。だからもう、行かない方がいい」

「相手がどう思ってるかは透夏ちゃんの気持ちとはまた別だよ?」

 彼の言葉で、彼女の言動を思い出す。優しくしてくれて、私を受け入れてくれて、本当の気持ちまで思い出させてくれた。そんな彼女に、私も何かしたい。

「ありがとう」

 私はそう言い終わると、ペコリとお辞儀をすると彼女の病室に向かって歩き出す。

「お久しぶりです」

 恐る恐る病室に入る。一か月ぶりに見る彼女は、驚くほどにやせ細っていた。私が来たことに気づき、ベッドから起き上がろうとしてくれた彼女の腕は驚くほど冷たく、黄疸が出ていた。

「透夏ちゃん、いらっしゃい」

 彼女は体を起こすと、呼吸音が少し離れた椅子まで聞こえた。

「お願いがあるの。私が死ぬときに、ピアノを弾いてもらえないかな?」

 彼女の穏やかな顔からは、何も読み取れなかった。罪悪感から、私は頷くしかなかった。しかし、心の中ではまだ、奇跡を願っていた。

 渡された楽譜の曲名は、チャイコフスキー「」だった。その曲を聞いて、ちょうど私たちが出会って半年になる、十一月の景色が頭の中に浮かんでいた。

 その翌日から、私は学校に行き始めた。先生の許可を取り、空いている授業時間で学校のピアノを貸してもらい練習に励む。大切な人の温かさがない場所で弾くのはこれが初めてだった。

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