第5話 受容と響求
旅行当日の朝。
許可は易々と出たようで、彼女がそれを嬉しそうに話していた。しかし、私も、彼女も、何故許可が出たのか、そして状況は分かっていた。
家を出る直前、事前に看護師さんから聞いた旅行の注意点などを書いたメモと旅行に付き添ってくれる看護師さんから届いた計画書を入れて、もう一度それを確認する。今回の旅行を計画した彼女の意図、そして見て見ぬふりをしていた余命が、看護師さんから聞いた病状によって、現実味を帯びてきていた。そして笑顔でいることがどれだけ大変だっただろうか。看護師さんの話を聞いた後では、彼女の今までの人生に思いを馳せずにはいられなかった。
午前六時、父と母に気づかれないように家を出る。私は四カ月後もこんな風に家を出るのだろうか。そう思うと、生への強烈な郷愁に襲われた。しかし、死へ向かうのをやめようとは思わなかった。それはもう私のあずかり知らぬところで動いているようだった。不思議な感覚だった。
私は、あの日死ぬことを決めた川に向かう。待ち合わせ時間まであと一時間半、ぼんやりと川を眺めながら彼女の病状について看護師さんから言われたことを思い出していた。
彼女の病状は思ったより悪く、そして彼女のことを知れば知るほど、罪悪感が募っていく。それでも彼女と過ごす時間は楽しくて、それが私をあと四か月、この世に繋ぎとめているものだった。
ぼんやりしている間に日は高くなり、もう待ち合わせ場所に向かう時間になっていた。何もせずただぼんやりして時間を過ごすのは、久しぶりだった。しかし、罪悪感があった。勉強をせず、両親の期待に応えられない私に。
「透夏ちゃん、おはよう!」
私が到着した時、看護師さんと彼女はすでに待ち合わせ場所にいた。彼女は、最近の体調の悪さを吹き飛ばすように無理やり笑っているのかと思うほど、笑顔が弾けていた。彼女は月の形のイヤリングをしていて、今日は少しお化粧もしていた。いつもと少し違う彼女、そして同行してくれる初対面の看護師さんにどことなく緊張しながらも、彼女が笑顔なことにほっとしていた。看護師さんと三人で今日の計画と注意事項を確認した後、私は彼女の車に荷物を積み、車に乗り込む。今日はホテルに向かうだけなので気が楽だった。
計画を確認する時に彼女が言っていた「迷惑かけてごめんね」と、申し訳なさそうな顔が頭に残っていた。
車内は手入れが行き届いていて、ほのかにシトラスが香っていた。松島までは約五時間。車に乗るのは久しぶりだという彼女は、自分の愛車について楽しそうに話していた。途中パーキングエリアで休憩を取り、ソフトクリームを食べた。クリームを口の端に付ける彼女は、子供のようだった。看護師さんから子供時代についても聞いていた私は、心が痛んだ。
「私ね、心臓が弱くて。だから子供の時からずっと入院してたんだよね」
唐突に彼女が口を開く。松島まであと半分、高速道路を走っていた時のことだった。
「両親と旅行に行ったこともあった。でも、ずっと何かをしてもらう側だった。だから、初めて人に何かをできて、私本当に嬉しいんだ」
これが最後の旅行で良かった……
最後に彼女が小さな声で呟いた言葉を私は聞き逃さなかった。それは、私たちが気づいていたこと。それでも、私が見て見ぬふりをしてきたこと。本人からそのことを目の前に突き付けられて、私は俯いた。車内には、「月の光」が寂しげに流れていた。この時ほど、この曲が切なさを含んだ曲だと思ったことはなかった。
しかし、その後の彼女は松島に近づくにつれて、鼻歌を歌っていた。景色が緑で彩られていくのを見て、いつの間にか私も彼女も、少しだけ心が穏やかになっていた。
「着きました」
看護師さんの堅い声と、それと同時に聞こえてきた彼女のあくびで目を覚ます。いつの間にか寝てしまっていたらしい。もうホテルに着いていて、車のガラス越しに松島の海が見えた。透明なブルーの空が私たちを包み込んでいる。何もなかったことへの安堵とこれからの不安とが入り混じった感情は、小学校の時に図工でやったマーブリングのように複雑な様相を呈していた。
ホテルにチェックインした後、看護師さんと今後の予定について話し、私たちは部屋に入った。部屋からは松島が見え、晴れていることもあって絶景だった。こんないいお部屋、高かったんじゃないか、お金は足りたか、など本当に心配なことを忘れて他の心配事をしていた。しかし、それは無理やり他のことで目を逸らしているだけだった。
「ご飯、無理に食べなくても大丈夫だよ」
彼女と二人、部屋でトランプをしていた時だった。この時ご飯に対する緊張で体が震え、異様に寒くなり、私は自分がトランプをしていることさえ認識していなかったと思う。そんな時、彼女に掛けられた言葉に、理解が追いつかない。
「なんで……なんで知ってるんですか」
口からか細い吐息と共に、言葉が漏れる。私は私が分からなかった。
知られたくないと思っていたのに、知られて安堵しているのはどういうことなのか。
どうしてもっとうまく隠そうとしなかったのか。
なぜ、が連鎖する。そしてそれが自分を責める。感情がごちゃ混ぜになり、気分が悪くなってくる。私はトイレに駆けこんだ。
醜い声と共に吐き出される胃液。私はこの体が醜くて、汚くて、消えたいと思う。何度思ったか分からないこの気持ちに、蓋をして、必死に衝動を抑える。
「あと三か月……あと三か月……」
気が付くと、ベッドにいた。胃液の味は、もうしなかった。そして久しぶりにお腹が満たされているような気がした。窓の方を見ると、もう暗くなっていて、空に月が浮かんでいた。
「透夏ちゃん、落ち着いたかな?」
月を眺めていると、近くから彼女の声が聞こえた。まだ頭はぼうっとしていて、なぜベッドにいるのか、分からなかった。そして久しぶりの満腹感から、何かをしなければいけないと思うが、何をすべきなのかは分からなかった。声の聞こえた方を振り返ると、水を持った彼女がこちらに向かってくるところだった。
「水飲めるかな? 今看護師さん呼んでくるね」
「……ごめんなさい」
私の言葉に、部屋を出ようとしていた彼女が振り向き、そしてゆっくりとした足取りでこちらへ来る。そして私たちは月の光を見ていた。暫くすると、彼女はゆっくりと話し出す。
「命っていうのは、私たちの日常と密接に関わってる。だからね、透夏ちゃん、私は、命は気高く独立してあるものじゃないと思うの」
「なんで……なんで私が死のうとしてること知ってるんですか、なんでそれを否定しないんですか」
「否定しないよ」
私はあの時と同じ、彼女の声から音楽を聞いた。
「私ね、家がちょっと裕福なの。だから、ここまで生きさせてもらえたって思ってる。だから、命は独立していないんだよね、いろんなものと絡み合って存在してる。だから絶対に死んじゃいけないっていう風に言わないと私は決めてる」
でもね、と彼女は続ける。
「透夏ちゃんは今、幸せ? 私は、透夏ちゃんに幸せになってほしいと思うんだ」
暗い室内に月の光が差し込み、私と彼女を照らす。彼女の横顔は百合のように穏やかで、平和な時間だった。
私たちは、静かに月の光を眺めていた。
少し時間が過ぎた後彼女は看護師さんを呼びに行った。彼女の優しい背中に、小さく、ありがとうございます、私は今幸せです、と呟いた。頭の中で常に存在する祖母や両親の顔は、消えていた。
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