第4話 過去と今
翌日から、毎日彼女の病室に通った。彼女はいつも温かく歓迎してくれたが、時折見せる具合の悪そうな顔は私の罪悪感を増幅させた。
また学校では、先生の対応はぎこちなくて何か仕事を任されるということはなかった。しかしクラスの一部では学級委員長である私が学校を休んでいることに対して否定的な意見も聞こえた。そのため、私は学級委員長をやめることを提案したが、律くんはそれをやんわりと断った。副委員長である彼が一番迷惑を被っているというのに。なぜそういう決断をしたのか私には分からなかった。
学校が終わり彼女の病室に向かう途中。彼女に出会ってから約一か月が経ち、季節は梅雨に入った。やっと半袖の季節に入り、学校では私も半袖を着るようになったが、一時期は落ち着いていた症状が悪化したため常にカーデガンを羽織っていた。しかし、激しい雨のせいでカーデガンが濡れ、ずっと寒かった。
「こんにちは」
「透夏ちゃんいらっしゃい! いよいよ今日からだね!」
クラシックに対するあたたかい気持ちは忘れていたはずなのに、ピアノに触れ、「月の光」を弾けるとなって、心が浮き立っている自分がいた。
「楽譜は読んできてくれた?」
私はこくりと頷く。家でのイメージトレーニングをしてきたことや、知識面では自信があるため、さほど不安はなかった。一つ不安があるとすれば、それは障害のことだった。
「じゃあ、弾こっか!」
私は少しの緊張と大きな喜びで躍った心をどうにか落ち着けようと、大きく深呼吸をする。そして鍵盤に手を置く。恐る恐る曲を奏でる。奏でることができたメロディーは、途中までで、前とは大きく違ったが、それでも当時の幸せを思い出すのには十分だった。最初は弾くことに精一杯でそれもまた楽しかったが、慣れてきたときには祖母との思い出を思い出していた。
彼女はあまり体調が良くないようで、ベッドで私の音を聞いてくれていた。
暫く経ち、最初の十四小節まではなんとか余裕が出てきた頃。呻き声とベッドが軋む音が聞こえたような気がして、慌てて振り向くと、彼女が苦しみに悶えていた。
慌てて彼女のもとに駆け寄ろうとするが、しばらく食べていないせいで、足がうまく動かない。
「梗子さん、大丈夫ですか! 看護師さん今呼びます!」
震えて役に立たない足を引きずり、私はなんとかナースコールのボタンを押そうとする。しかし、私の震える腕を冷たい腕が掴む。見ると、彼女は苦しみに耐えながら、必死に首を振っていた。彼女の思いを悟った私は、傍ににより、手を握って背中をさする。
「大丈夫です。梗子さんは大丈夫です」
私の痩せ細った冷たい体では力が足りない気がして、ひたすらその言葉を繰り返した。
一時は喋れるようになったが、また痛みがでてきたようで、病室に呻き声が響き渡る。私はどうしていいか分からず、また彼女がこのまま死んでしまうのではないかという恐怖から、ナースコールを押した。
すぐに看護師さんが来て、事情を話すと、看護師さんは彼女にこう言っていた。大丈夫ですよ、薬は使わないからね、と。私はその時なぜ彼女がそう決断していたのかが分からなかった。彼女の傍に看護師さんが居てくれて私にできることはないかと思い、私は今自分に弾ける曲を弾いた。
拙い音色は、私の心を表しているように思えた。
「……いつか旅行行きませんか」
ぽつりと呟く。それは彼女にもっと生きてほしいという私の願いだった。でも、言ったところでどうにもならないというのは薄々感じていた。
「そうだねぇ、行けるといいね」
彼女は遠く、そしてどこか寂しげな目をしていた。私はそんな彼女を見て、何も言えなかった。
その後、彼女と他愛のない会話をし、八時すぎに病室を出た。私は彼女を傷つけてしまったことへの後悔から、うまく笑えなかった。一番うまく笑えていないのは、本当だったら彼女なはずなのに。それなのに、彼女はあの一瞬しか寂しげな顔をしなかった。それがより一層私の罪を重くしていた。そして心に重くのしかかっていた。
しかし、謝れなかった。謝ることは彼女があと少しでいなくなってしまうのを認めるのと同じだから。
月が見える。病院を出てすぐのところで、ふと彼女の病室を見上げる。彼女は、窓際に立ち、月を見上げていた。その表情までは読み取れなかったが、私と彼女は、同じ月を見ていた。そしてなんとなく彼女のことが少しずつ分かってきたような気がしていた。
その日も、寝れず、横になりながら、私は骨が浮き出て吐きダコのできた自分の醜い手を、ずっと眺めていた。
「透夏ちゃん、来週旅行行かない?」
彼女の想いを理解するまで数秒かかった。そしてそれを理解した時、私は大きな絶望に囚われた。どうやっても、奇跡は起きない。それを彼女は分かっていた。
「……はい」
「行き先は松島ね!」
そう言う彼女は、とても溌剌としていた。しかし昨日のことがあり、私はそれがとても痛々しく見えた。
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