第3話 半年と正反対の私たち
彼女との約束の日、病院がいつもより少し早かったため二十分ほど前には着いていた。
今日は彼女に初めて会った日とは打って変わって、薄暗い曇天だった。そして、今日は朝から学校を休んでいた。両親は、何も言わなかった。
今日は初めてネックレスをして、一張羅のワンピースを着てきた。
ふと、両親の言葉が蘇る。
「少しでも時間があったら勉強をしなさい」
おしゃれをしている自分を責められた気がして、私は慌てて鞄から携帯している単語帳を取り出す。
最初の頃は両親も私の自主性に任せていたが、私が今通っている中高一貫校に受かってから、私に勉強を強いるようになった。それでも、苦ではなかった。学校で良い成績をとるたびに両親は褒めてくれたから。
でも今はそれすらも言ってくれない。
冷たい風が吹き抜ける。急に虚しさが湧き上がってくる。
しかし、なんのために私は生きているのだろう、というような考えはなかった。もう私はその次元にはいない。では、この虚しさは何なのだろうか。私は今、何を思っているのだろうか。
考えを消すため、必死に単語帳をめくり英語を発音する。単語帳に水が滲む。その時になってようやく雨降ってきたのだと気が付いた。降り始めた雨は止む気配を見せず、瞬く間に土砂降りになった。
そう言えば、もう梅雨の季節か……。
自分が濡れているのもお構いなしに、ぼんやりとそんなことを考える。
髪から水が滴り落ちてきた頃、雨音が急に何かに遮られる音に変わる。縋るような目で上を見たが、期待は裏切られた。傘を差していたのは、あの彼女ではなく看護師さんだった。その看護師さんは、大丈夫ですか、と私に聞いた。そして間髪入れずに話しだす。
「私は斎藤さんから言われて来た者です。斎藤さんのところまで案内します」
前に感じていた嫌な予感が現実になるような不穏な空気が漂っているように感じられて、私は言葉をうまく紡げなくなってしまう。
「あの……、えっと……、その……」
感じている不安をどうにか否定したくて、精一杯言葉を絞り出す。
「斎藤さんは、ピアノを弾いている人ですよね」
「斎藤さんは病気ですか」
「斎藤さんは、よくピアノを弾かれています。ご病気については、斎藤さんから聞いてください」
看護師さんは少しの沈黙の後、答えてくれた。
「来ますか?」
先程よりもさらに雨脚が強まって、心なしか気温も下がっているように感じる。
「……はい」
私は震える唇で頷いた。
案内されたのは、ホスピスの棟だった。看護師さんはナースステーションに寄り、タオルと着替えを貸してくれた。そのタオルの温かさと現実とがどうにもかみ合っていなくて、私は唇を噛んだ。
ここで引き返せば傷つかない。そう分かっているのに、何度もそれが頭によぎるのに、私は止まらなかった。ほとんど感覚のない足で病棟を歩き続けたあの感覚を、私は一生忘れない。
「ここです」
案内されたのは、他の部屋からは少し離れた一番奥の部屋だった。道中はいろんな患者さん達の声が聞こえてきたが、この辺りは、驚くほど静かだった。そしてまず、病室の広さよりも、ピアノよりも、青白い顔でベッドに横たわっている彼女が目に飛び込んでくる。あの時とは別人のような彼女に驚きと怯えを隠すことができない。私はそこに、死を見た。
看護師さんは彼女の容態を確認した後、出て行き、病室に残ったのは私一人になった。濡れた髪に冷房の風が当たり再び体が冷えてくるのを感じる。病室に来るのはあの時以来で、あの嫌な感覚が蘇り、あんなに温かいと感じたタオルも、今になっては冷たい、何の力も持たない物になっていた。そして私は無意識に死への切符が入ったスマホを強く握っていた。
嫌な感覚と共に温かい記憶も流れこむ。
優しかったおばあちゃん。
親戚の子供たちの中でも特に私を気にしてくれていた。
つらかったときはいつもおばあちゃんのお家に逃げ込んだ。
そしてクラシックに興味を持ったきっかけもおばあちゃんだった。
しかし、もうおばあちゃんはいない。
「透夏ちゃんは自分のやりたいことをして生きていけばいいんだよ」
最後にそう言い残して逝った。
「私だって……」
クラシックをできるならそうしていた。
たまに思う。
私が新しい世界に飛び立てなかったのは、私のせいかな?
でも、分からなくなる。
なんで私はクラシックをやりたかったんだっけ?
土砂降りの雨の音を聞きながら、私はかつての優しさと悲しさに浸っていた。
不意にベッドが軋む音がした気がして我に返る。見ると、彼女があくびをしているところだった。彼女の周りにはあの時と同じ朗らかな空気が漂っていて、先程の青白い顔の彼女と今の彼女が私の中で一致していなかった。
「よかった……」
「ごめんね」
彼女の発言が、これから起こることすべてに対するものだと直感で悟った。
私は迷った末に彼女に質問をする。
「……ご病気なんですか?」
「そうだよ。あと半年」
「え……?」
「それが私の余命」
彼女の顔は先程と変わらずむしろ、先程よりもさっぱりしているように見えた。
私にはそれがどうしてか分からなかった。
そしてその言葉を聞いた途端、罪悪感で体が重く、だるくなる。
「ねえ、ピアノ弾いてみない?」
唐突に彼女は口を開く。私は頷いた。ピアノに縋らないと、この状況を理解できなかった。
彼女は、ベッドから立ち上がろうとしたので、手を貸す。
「ありがとう」
立ち上がった彼女はやっぱりまだ本調子ではなさそうで、先程の血の気のない顔が頭の中に浮かび、私はさらに動揺した。
しかし、ピアノの音は変わっていなかった。どんなに悲しいことがあっても、どんなにつらいことがあっても、ピアノは、音は、そこに或る。
前に弾いていた「月の光」はもう全然弾けないけれど、やっぱり、音が或る、そのことだけで嬉しかった。
彼女は隣に持ってきた椅子に座りながら、私がぽつぽつといろんな音に触れるのを、温かい笑顔で見ていた。それは、祖母がピアノを弾いている私を見守ってくれていた時のあの温かい感覚に近いような気がした。
私はすうっと息を吸うと、「ピアノソナタk.454」を奏でる。あの時とは違って骨が出っ張った指は思うように動かない。しかし、私は楽しかった。病室に音が響く。それは、私から音が響いているような感覚だった。
「これからあの曲を練習してみない?」
曲を弾き終わると彼女がそんな提案をした。
私はしばらく黙りこくったのち、恐る恐る質問をする。
「体調は大丈夫なんですか?」
「うん、まだ大丈夫」
ここにはもう来ない方がいい、そう分かっていた。しかし、何かに縋らなければ半年さえももう生きていけない気がして、私は頷いた。
「よろしくお願いします」
「よろしくね。私は斎藤
彼女は手を差し出してくる。私はおずおずとその手を握り返した。
「山木透夏です」
いつでも来てね、そういって彼女は私を見送った。
降りしきっていた雨は止んでいて、時折雲の隙間から青空がのぞいていた。帰り道、前回彼女と会った後に行ったあの川へ向かう。
ちょうど夜ご飯の買い物や帰宅の時間帯なのか、今日はひっきりなしに人が通り過ぎていた。
私は一人、そんな人たちとは正反対へ歩き出す。
私が半年後に捨てようとしている命を、彼女は半年後に失う。彼女と私が反対だったらどれほどよかっただろう。
気持ちは暗く沈んでいて、このまま死のうと思った。しかし、彼女への罪悪感でそれすらもできず、そして感情表現もできず、やるせなさだけが残る。
私は無意識にスマホを強く握っていた。音楽に触れない今、頼れるのは半年後の切符のみだった。
気が付くと、もう日が落ちる頃になっていて、夕日が私を照らしていた。ゆっくりゆっくり落ちていく赤い太陽を見ながら、私は自分の意思とは関係なく呼吸を続ける体を恨んだ。
そしてその夜、約一か月ぶりに吐いた。
生きようとしているこの体が汚くて仕方なかった。できることなら迷惑を掛けずにこのまま消えてしまいたい。私は一人、胃液の臭いが充満したトイレで息を切らしながらそんなことを思っていた。
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