第2話 手を引かれて

 予定より早く目が覚めた。部屋の中は暗く、時計を見ようとしたが、闇に包まれて見えない。まだ寝るべきか、今日やるべきことはどれくらいかを逡巡する過程で、私はいつもより思考がクリアなことに気が付いた。一日に何時間、一週間に何十時間勉強しても取れなかったもやが、少しだけとれたような感覚が続いていた。

 少しずつ体調が良くなっているかもしれない。私はそのことに喜びもせず、落胆もしなかった。

 結局、残っている課題の量から起きることにし、ベッドから出る。そしてまだ寝ている家族に配慮して音を立てないように窓際まで行き、外の空気を吸おうと窓を開ける。外は夜の涼から、日中の暑に移り変わる準備をしているようだった。目一杯深呼吸をすると、私は机に向かい、卓上ライトをつけた。

 残っている課題の量は多い。まだ時計を見ると、五時前だったので、三十分間勉強をすることにして、ノートを開く。

 私は決めていた。死ぬまでは勉強ができる両親の理想の娘でいようと。

 勉強を始めてから三十分が経ち、勉強道具を片付け、てきぱきと学校に行く準備を始める。そしていつもより早く登校しようと六時に家を出た。六時になると日も上り、気温も上がってきていた。辺りからは小鳥の囀りがちらほらと聞こえてくる。この時間だと人がいないことが心地よい。通り過ぎた住宅から何かを焼いている香ばしい薫りがする。その匂いにふと強烈な郷愁が襲ってくる。

 前は、朝起きると母が笑顔でおはようと言ってくれた。

 朝は、目玉焼きとトーストだった。

 みんなで、ご飯を食べていた。

 その時はなんでもないことだと思っていた。しかし、そうでないことは失ってから気づくものだ。もうその時にはどうあがいても届かない。そんな、誰でも知っているようなことを実体験と共に頭に刻みつけられたのが、十四歳の最後の日。あの日からかもしれない。私がすべてを諦めはじめたのは。

 記憶を旅している間に住宅地を抜け、気づけば行きつけのコンビニの前だった。しかし、私はそこを通り過ぎ、別のコンビニで、朝昼用のゼリー飲料二個を買った。

 腕時計を見ると、もう六時十分になっていた。急がないと七時までに学校に着かない。少し歩調を速め、駅へ急ぐ。五月の朝と言っても、もうあと一日で六月だから、かなり暑い。そして長袖を着てしかも速足で歩いているため、シャツに汗が滲む。鞄からハンカチを取り出し額の汗を拭ったが、私は耐えきれず長袖のシャツの袖を捲り、速度を速めた。駅に着いた頃には、長袖のシャツが肌に張り付いていた。しかし、休んでいる暇もないため、止まっていた電車に乗り込む。

 電車に揺られながら考える、昨日のこと。

 あのピアノの音が頭の中にこだまし離れなかった。

 また、会えるだろうか。

 しかし、私の胸の中を不安が占拠する。

 その不安が何なのかはその時はまだ、私には分からなかった。


 学校に着いたのは、七時ちょうどだった。学校に入ると、急に鞄が重くなり、顔を顰める。もう朝練の人達が校内を走っていて、元気な声が響いていた。それを横目に見ながら、鞄を引きずり、何とか教室を目指す。やっとの思いで教室に着いた時にはもう、十分が経過していた。

 朝日が教室を包み込んでいる。その中で一人勉強に励む生徒がいた。

透夏とうかちゃんおはよう。今日はいつもよりさらに早いね」

りつくん、おはよう。律くんは相変わらず早いね」

 彼はみんなに優しい。だから、私にも声を掛けてくれるのだろう。何度も考えた当たり前のことを今日も考える。

「ところで」

 机に入っているプリントを確認していると、彼は私の机までやってきて妙に改まって口を開く。

「昨日放課後講習にいなかったよね、何かあった?」

「ううん、大丈夫」

 昨日のことを話そうと思ったが、うまく言葉にできず、そっけない返事になってしまった。しかし彼はそんなことを気にも留めないようで、次の瞬間には明るい顔に戻っていた。

「あっそうそう、教えてほしいところがあって。ここ、分かる?」

 私は彼の優しいけれど深入りしすぎないところが好きだった。だから、みんなにも好かれるのだろう。私と違って。半袖のシャツを着て一番上のボタンを開けている彼は、私とは別世界の住人だった。

 二人で勉強会をしているうちにあっという間に時間は過ぎていった。そのうちほかの生徒も来はじめて、彼の周りに人だかりができはじめる。そして勉強会は自然消滅し、彼は友達と楽しそうに話している。しかし私は休み時間ずっと勉強や先生の手伝いをする。

 驚くほどいつも通りだった。一つだけ違うのは、彼に昨日なぜ休んだのかと聞かれたことのみ。他のクラスメイトは、私が昨日休んだことを気にも留めていないようだった。

 別に恨みはない。ただ、私と彼らの住む世界が違うだけ。彼らの発する輝きは、この身を焦がす。私が言葉で表現できないと気づいてからずっと、そう言い聞かせてきた。今もそれは同じで、その考えは心にしみこんで、なじんでいた。

 唐突にあの名前も知らない彼女に会いたくなった。私の壁を破って、有り余るほどに響いてきたあの演奏。そして、私を柔らかく包み込んでくれるピアノの音色と彼女の輝き。私はまたあの演奏を聞きたいと思ってしまっていた。

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