死に向かう正反対の二人の物語ー終わりの音と始まりの光ー

織川想子

第1話 出会いの光と別れの決意

山木やまきさん、こんにちは。調子はどうですか?」

 ドアが閉まる無機質な音がする。

「変わりないです」

 私は単調にいつもと同じ言葉を繰り返す。

「学校はどうですか?」

「……変わりないです」

 今日も同じやり取りが続く。

「ではいつもと同じ薬を出しておきますね」

 お大事に、先生の抑揚のない声が部屋に響き渡る。

「ありがとうございました」

 同じく抑揚のない声で挨拶を返し、診察室を出る。数秒後、ドアが閉まる音がした。

 そしてその後にはすぐ別の患者さんが呼ばれる。

 ここにも私の居場所はない。

 いつもと同じ時間、同じ場所を歩いて帰路につく。いつも通りにいけば、放課後の講習に間に合うはずだ。

 小道の周りは、広場になっていて、子供やお年寄りが気ままに過ごしている。

 懐かしい音楽が聞こえた気がして、私はいつの間にか立ち止まっていた。

 昼下がりの白く晴れた空、ロングのスカートを揺らす風、葉たちの生き生きとした様子。心が浮き立つということもなく、眩しさに辟易することもない、つまり何も感じない。

 木をぼうっと見ていると、その下のベンチに鼻歌を歌っている女性がいた。とても楽しそうで、懐かしい音は彼女が歌っている曲だった。

 ドビュッシー「月の光」の一節。

「月の光」それは祖母との思い出の曲。そして私がクラシックに魅入られた最初の曲。

 彼女は曲の途中まで歌うと、歌うのをやめた。

「あら、聞いてくれていたのかしら?」

 少しおどけたような、そんな口調で聞いてくる。その言葉になんと返せばいいか分からず、少し間を開けてから質問する。

「それって、『月の光』ですよね」

 彼女は肯定の代わりに優しく微笑み、それから問いかけてくる。

「あなたも好きなの?」

 何も答えられない。答えることで、今の自分を否定される気がした。

「まあ、とりあえず座って?」

 黙っている私を見かねたのか、彼女は座っているベンチの隣の部分を示してくれる。

 私はおとなしく歩いていき、ベンチに腰をおろす。

「わたしね、この曲がとっても好きなの。前は静かな曲としか思っていなかった。でもね」

 彼女は懐かしそうに目を細める。

「始まりの曲だって父に教えてもらったの」

 一瞬、心を塞いでいる壁を越えて力強い音楽が響いたような感覚を覚えた。

「それを聞いて私はこの曲が大好きになった。明日も頑張ろうって思えるようになったんだ」

 不思議な感覚で彼女の話に耳を傾けていた。彼女は終始左の遠くを見ていた。

 風で私と彼女の髪が揺れ、彼女のライトブラウンの髪から綺麗な顔が覗く。二重の優しそうだけどはっきりとした目に、少し高い鼻。メイクはしていなかった。この時彼女に対して、開放的な印象を受けていた。まだ出会ったばかりにもかかわらず、強い親しみを感じていることに自分でも驚いた。

「私の父はね、とってもピアノが好きで、よく私にピアノを弾いてくれたの」

 お父さんの話をしている彼女はとても幸せそうで、昔の私を思い起こさせる。

 そうだ、と彼女は続ける。

「この病院ね、ピアノが置いてあるんだけど、ちょっとそこにいかない?」

 私はこくりと頷く。そんな反応しかできない自分のコミュニケーション能力の低さを恨む。その感覚はとても懐かしいしことだった。私は不思議な郷愁に似た気持ちを抱えながらベンチを立ち、小道を進む。空は淡く、色彩がないのに、日差しは思ったより痛くて、顔を顰める。

「今日は暑いよね、まだ五月なのに」

 ゆっくりと歩いていく彼女の姿は、何故だかとても軽やかで、このまま空に飛んでいきそうに見えた。

「優しい空の色が嘘みたいです、詐欺ですよ」

 思わず口をすぼめて言ってしまう。すると彼女はふふっと笑ってくれた。

 五分ほど歩いて、ようやく目的地に着く。病院の入り口にあるピアノは、午後の優しい光が差し込んできらきらと輝いていた。彼女はピアノの椅子に腰かけると、優しく鍵盤を撫でてから、曲を奏で始めた。

 ドビュッシー「月の光」

 彼女の演奏は、私の奥に消えかけている、あたたかいものを思い起こさせた。それと同時に、温かい記憶が蘇る。

 父と母と無邪気に遊ぶ私の姿。

 テストで満点を取って両親に褒められた時。

 そして、初めて「月の光」に出会った日のこと。

 一つ一つ記憶が呼び起され、そして去っていく。彼女の眼差しはとても優しく、それが音色にも表れていた。太陽の光で輝くピアノと同じくらい、輝いていた。しかしその輝きは私が知っている、身を焦がすほどの輝きではなかった。私を優しく包み込んでくれる光の集まりだった。

 「月の光」が終わるのはあっという間だった。

「どうだったかな?」

 彼女の言葉で我に返り、そこで初めて自分が一筋の涙を流していたことに気が付く。できることならその涙を、私の感情の結晶を、いつまでも残しておきたいと思った。

「あたたかかったです」

 何千何万と難しい言葉を学習してきたが、それしか思い浮かばなかった。いつにもまして、私は自分の特性を恨んだ。

 伝わっているだろうか。願わくは私の気持ちが伝わっていてほしい。

「良かった、やっぱり誰かに聞いてもらって感動してもらうっていいね」

 彼女は満足げに言う。そう言ってもらえたことが嬉しくて、私はもう一度同じ言葉を繰り返す。あたたかかったです、と。

「良かったらまた話そうよ」

 じゃあまた来週のこの時間ねー、と言い、彼女は軽やかに去っていく。何分か経った後、私は返事をした。

「はい」

 ピアノがこんなにも美しい音色だということを忘れていた。何百回、何千回も弾いていたにもかかわらず。

 また、ピアノはクラシックという美しい音楽を構成している一つの要素に過ぎないと思っていた。

 しかし、違った。

 ピアノは、力を持っていた。生きているかの如く、人に力を与えるとても美しいものだった。

 あんなピアノの音、そしてあんな輝きのことを永らく忘れていた。

 そしていつの間にか、またあの音を聞きたい、そう思っていた。同時に昔の記憶が蘇る。

 自分の感情の整理ができなかった。喜び、戸惑い、絶望、いろいろな感情が現れ、消えていく。しかし、消えていく感情の中で、確かな胸のあたたかさが私の中に残った。そのあたたかさは、昔感じていたものと同じだった。

 ふと、気づいた。

 あの時、私は悲しかったんだ、と。

 ピアノから離れたくなかったんだ、と。

 そして、このあたたかさを離したくなかったんだ、と。

 でも、それに気づいたところでもう遅い。

 だから。

 スマホを取り出し、履歴から新幹線の予約のページに飛ぶ。そして一つ深呼吸をした後、私はの予約ボタンを押した。

 少しの時間が経った。そして立ち上がり、気まぐれに近くの川に行ってみようと歩き出す。

 着いた時にはもう日が傾き、人もまばらで、時折自転車で通り過ぎる人がいるくらいだ。川は、水面に太陽が反射してきらきらと輝いて光の海になっていた。私は河川敷の傾斜を下り、川のすぐそばまで行って座り込む。太陽がゆっくりと沈んでいくのが見える。その余韻に浸りつつ、今日の出来事を噛みしめていた。

 初めて「月の光」が好きな人と話せた。

 初めて、ピアノが素晴らしいものだということを知った。

 初めて、自分の意思で学校に行かなかった。

 そして半年後に死ぬことを決めた。

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