4章 風ノ日ニハ (ウラジオストク港)

4章 

 4,1章 作戦概要〈ウラジオストク進行〉【火明作戦】


 これで全員か?三上中尉並びに比角少尉、長旅ご苦労だった。もう少し新京凱旋を満喫していてもらいたい所だったが今はそうにもいかない。

 

 これより明日急遽執り行われる事になった大規模航空作戦の作戦概要を説明する。

 本作戦は空軍主導の作戦となる。作戦目的はウラジオストク近郊のソ連航空施設の撃滅だ。これだけ聞けば勘づいてもらえるだろう。本作戦以降日本はソビエトと本格的な戦争状態に入る。先鋒として我々は国境の敷居を大きく跨ぎ、山脈を縫って空から敵基地へ先制攻撃を仕掛ける。この大胆な作戦を決行に移せるのも全ては亡命ソビエト人将校であるトロヤノフスキー中佐の情報提供あってのものだ。中佐は各軍事拠点と兵力、補給線が記された資料と身柄の保護を交換条件とした。当然ソビエト政府からは身柄の引き渡しを要求されたが日本政府は断固として拒否、国際緊張感の高まる中日本は戦争の危機と引き換えにソビエト政府の実態を国際世論へ流布し、満州国への日本軍駐屯の正当化を訴える道を選んだ。

 さて、近況を説明したところで詳細な説明に入る。今回の作戦は単純だ。しかし以前に増して厳しい戦闘となることが予想される。

 我々独立飛行部隊は先の戦闘での実績が認められ先方部隊を引き受ける事になった。諸君らには亡命者の資料にあったもっとも規模が大きく、防衛力のある空軍基地への侵入が命じられている。飛行基地到着後は陸戦力の撃破を考えず、離陸する航空機や迎撃機の遊撃にあたってもらう。そしてなるべく長時間滞空した後、制空権奪取の一報が入り次第6時間後、別働の戦略爆撃機部隊が到着し、基地爆撃を行う手筈になっている。本作戦には全機航続距離と火力に秀でた一式戦闘機で出撃してもらう。一匹のカモメ(旧型の複葉機)ですら基地から逃がさぬよう封じ込めてくれ。戦闘行動時間は30分あればいい方だ。燃料補給が必要になった機体から帰投、随時弾薬と給油を終えた機から再び戦域へ往還する。

 して、本作戦は段階的に進行する波状攻撃型作戦である。映写機に注目してほしい。

第壱波、戦闘機隊に続く襲撃機部隊による敵基地の混乱誘発、および無力化。

第弐波、空軍第一空挺(パラシュート)部隊の投入。基地内部の完全制圧。

第参波、輜重空挺部隊による物資の連続投下。

これらをもってして航空戦力を削ぎ、西の陸地から日本陸軍を待ちつつ、東の海路を日本海軍に絶たせる挟撃作戦だ。ウラジオストクの政治将校達はこの亡命騒ぎでまるで統率がとれていない。モスクワからの兵力が手を出すその前にウラジオストクを陥落させシベリア鉄道の東の主導権を握る。満州国への安定した海路の確保。そして本州への空の安全を我が物とせよ。

 戦闘予測時間は日の出より日没まで14時間が予測される。14時間通しで空中での命のやりとりだ。本作戦の要は諸君ら先陣を切る戦闘機パイロットだろう。消耗も多く、犠牲も免れぬだろうがこの度得た情報の鮮度が高いうちに我々は攻勢に出なければいけない。準備期間は短いが出撃前に各分隊でよく会議をする事。そして各自掲示板に掲載された担当空域の航空写真、地図及び座標を頭に叩き込め。

 宣戦布告の狼煙が上がる。我々空軍なら成せる!

 厳しい作戦になるだろうが諸君らの健闘が皇国の未来を担っている。武運長久を祈る!


4.2章 有望、才能、変貌の唄


「どうした。作戦会議はさっき終わったぞ。」

 出撃前夜、66飛行部隊の三人はまだ冷える5月の星空の下、高原が良く見える小高い丘へ集まっていた。というのも部隊長である西川は消灯時間が近いというのにいつまでも宿舎へ戻って来なかったので、心配した三上と比角の二人は呼び戻しに来たのだった。三上は丘へ登るなり澄み渡る星空を眺めピタリと動きを止めた比角を物珍しそうに見た。

 「奇麗だろう、ここの星空は。山の多い本国と比べてここは何処までも開けた土地だ。遮る物が何もない。」普段口数の無い西川は機嫌よさそうに話した。西川はこの場所が気に入っていて、また比角も彼がそういった風情を楽しめる遊びのある男だと知って喜ばしかったのだ。

 「大昔の遊牧民はきっと、この途方もない景色の果てを目指して馬を走らせたに違いありません。」比角はうっかりしたひょうきんな男に見えて学や、それに従った遊び心のある講釈の手段を知っていた。「私の生まれも日本には珍しく平野部だがね、これほどではないよ。」「西川隊長は何処の生まれで?関東平野でしょうか?」「新潟だよ、越後平野さ。大した広さでは無いがね。米と酒がうまいよ。」話題に入れない三上は一言放った。

 「消灯が近いです。明日の作戦に備えましょう。」

 そう言われると西川はその言葉を遮るように「分かって居る」と言う。

 「もう少しでいい。新月の夜は此処に居させて欲しい。」

 比角はそういった隊長の隣に腰かけると足を伸ばして子供のように星空を眺めた。そよぐ風の中、どこかでソビエトから国を追われ、満州に逃げ延びたコサック達が奏でるバヤンの音色と、よく通るバリトンの子守歌が幻想的な世界を彩った。こんな星空の夜は他愛のない話をしたくなる。比角は西川の手元に目をやった。

 「それはなんの本ですか?」「トルストイさ。」「文学青年なのですね。」「よしてくれ。三十路間近で青年呼びは。それに文学好きはこの手合いの本を読むか分らんね。」表紙を比角にちらりと指の間から覗かせると、「人生論?」「そうだ、こういった本は若者でなく人生に行き詰った哀れな年寄りが縋るのさ。」

 強い風の後、静寂が子守歌の旋律を鮮明に映す。

 「こういう本と、もっと早く出会っておきたかったな。」 その悲痛な言葉は退屈そうにしていた三上にも届いた。

 「何おっしゃいます。まだパイロットとしては油が乗り切った年齢ですよ。」

 「ああ、君たちは私の歳になってもそうだろうな。」これには三上も驚いて、彼も肩を窄める西川の隣へ座った。

 「こんな本を書ける奴らは、いずれ今空技廠で話題になっているようなプロペラの無い、羽が鳥のように大きく後ろに下がった飛行機を作れるだろうな。」

 そういうと三上は向きになったように西川の話を聞く事にした。これが西川の作戦だ。かれは普段向き合わなかった若い二人に、口下手だが何かを伝えようとしていた。

 「それは何故です?」「おお、気になるか三上。」「その男の本には航空機の設計図が記されていると?」「そうではない。だが考え方というのにはどの分野にも礎があってね、それがあるんだよ。例えるならそうだな、」

 「心の設計図だ。」

 三上は確信のついた答えが出なかった事に不満そうな顔を見せたが、比角の方はそのヒントに何かをつかんでいる気がした。すると西川は唐突に言った。

 「私はもう長く飛べない。」 

 両脇の二人は言葉を失った。

 「見えないのさ。もう」

 「何が、です?」やっと三上は口を開いた。

 「三上、お前とは二年と半年同じ部隊で飛んでいる。そんなお前なら薄々気付いているだろう。」ここ最近、西川は隊長機でありながら何度も先導機を三上に譲っていた。それは三上に対する忖度ではなく純粋な

 「衰え、なのですか?」はっきり言うな、と一言漏らすと西川はゆっくりと口を開く。

 「誰にも聞かせなかった私の昔話をしよう。」

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 4.1.1 独白、将来有望努力人

 私はしがない村落で生まれた。代々農耕で生きてきた小作人の長男坊だ。来る日も来る日も田んぼの世話。それが人生そのものだと思っていて、それを疑おうともしなかった。学校に集まる近所の子供もそうだった。最低限の読み書きを覚え、その後は家督を継ぐ。収穫があれば学校を休んだ。次男は他所へ稼ぎに行き、女は皆すぐ嫁入り修行。君たちの生きてきた都会とはまるで世界が違う閉鎖された土地。

 ただ数人の子供は身なりが違って、そういう子供は大抵は地主の子供だった。彼らは白米を食べ、毎日服を洗い、広い居間で晩酌する父や家族と楽しく談話する。私はそんな世界に隔たりを感じる事無く。ごくそれを自然に受け入れていた。

 しかし転機というものは突然訪れる。

 ある日地主の男の子が学校にこっそりと少年クラブ(少年漫画)をカバンに入れて持ってきた。彼はきっと自分の持ち物を見せびらかしたかったのだろう。瞬く間に彼の周りには人だかりができた。人一倍力持ちだった私は野次馬をかき分けるとまだ手垢の無い奇麗な雑誌を手に取り夢中で捲った。そこにあったものに目を奪われた。描かれた線の情報が極端に少ない漫画の世界だ、が私の眠っていた想像力は突然産声を上げた。立派な髭を生やしたイタリア人の男だろう。その男が南国や雪国を複葉機で飛び回る物語だ。南国には雪を届けて、雪国には熱い砂を届けた。そんな冒険活劇を必死になって見ていると慌てて取り返そうとする地主の子の静止も聞かず、ついには先生がやってきて拳固をひとつ、没収されてしまった。

 「君たちには余るな。」地主の子はそう言って二度と漫画本はもって来なかった、が私にはあの髭の男が忘れられなかった。大人になれば、あのように自由に生きられ、好きな仕事や夢のような日々が送れるのだろうか?答えは家に帰ればくたびれて口も聞かない両親をみれば明確だった。

 僕は”また”ああなるのか?

 地主の子は持ってこない漫画をまた見たいだろうと自慢した。でも私の心は彼の持っている土地よりも広いものに奪われていた。

 そしてある陸軍士官学校のビラが学校に掲示される。そこには探し求めていた飛行機が描かれて張ってある。驚いた事に私はあの出来事まで飛行機の存在を知らなかった。新聞を理解する頭も本も読む家族も無かった。この学校に行きたい、そう言っても周りの大人は嘲笑った。だけど一人だけ、私の心意気を疑わない年老いた先生がいた。

 空へ行きたい、誰よりも遠くへ行きたい。その思いはくたびれた長屋、ぼろきれと田んぼとさび付いたくわが支配する世界に背を向けようとする私に追い風を吹かせた。今までになく猛勉強した、授業は何があっても休まなかった。捨ててある本は破けていようとかたっぱしから目を通した。その度に知識たちは網膜に色をもたらした。いつしか上級生のだれよりも勉強ができたし運動もできるようになっていた。やる必要のない勉強もやった。電灯がな無ければ星明りが紙面の活字を照らした。先生の推薦で特待生にも選ばれた。中学校の学費は地元の先生達がカンパして工面してくれた。陸士に合格した時は町中で話題の的だったよ。でもそこが自分にとっての終着点にはならなかった。

 努力はした。初めて飛行機に乗った時は大声で叫んでしまいたい気持ちを必死に堪えたものだ。そして今もそんな漠然とした気持ちが心の中に残っている。しかし遮二無二で盲目な努力には必ず陰りが訪れる。

 子供の頃、暗がりで本を読んでいた。あの頃はなしのつぶての光でも照らされた文字が良く見えたものだが、今はそうはいかない。以前に比べ分かりやすく視野も落ちている。飛行機に乗るたび狭い操縦席と限られた視界がそれを思い知らせる。今の私の揚力は過去積み立ててきた栄光だよ。でも私の居場所はもう空にしかない。あんなに世話になった先生の葬式も行かなかった、弟の結婚式だって!何かにとりつかれ全てを捨てた私にはこれしか無いんだ。しかしもう

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 二人は口を閉ざして空を見ていた。とくに三上は、このような人間の葛藤は宛ら小説や映画の中の世界でしか見たことが無かった。三上自身の人生にしたって他人から見れば全てが上手くいっていると思われても仕方ないのだった。これが人の挫折……。初めて触れたような気さえした。

 「二年半共に戦い抜いてきました。だから分かります。あなたのような操縦手はこの先そうそう出ては来ないでしょう。」

 「しかし空を飛び戦う事だけが我々の使命ではありません。飛行学校の教官になるという道だって、」

 「それではだめなんだ。」強い口調で遮られた。このように感情的になった西川を今まで見たことが無い。敵の戦闘機に機銃掃射されようと動じず平静を保つ男が自分の抱える挫折に涙目になって腕を震わせている。

 「内地勤務をかたくなに拒む三上が言えた事か。」感情も大きく揺さぶられていた。「まだ終わらせたくない、終わりたくない…」

 「しかし…」誰もそれから言葉を続けられない。

 ———————————コサック達の優しい子守歌はとっくに鳴りやんでいた。

 「まだ…」

 「星は奇麗だ。」

 


 4.2 とても弱い人

 《…中尉、三上中尉!生きて帰ってきていたか!》

 《川端中尉か。無論だ。貴様こそあの対空砲をよく掻い潜ったものだ。》

 滑走路には第一波の攻勢を終えた日の丸の戦闘機が続々と滑走路に翼を降ろした。いたるところでプロペラの羽音や整備員の声、無造作に無線機の音が飛び交う。第一波の奇襲作戦を終えた三上は敵地眼下に爆炎濛々たる飛行場を見た。以降発信する迎撃機は無く、それだけでも勝利を確信してしまうほどだ。しかし味方の飛行場基地も別の面でその騒々しさはまるで変わらない。

 《三上中尉、西川隊長の姿が見えないな。》

 《ああ、それなら隊長はエンジン系統の故障が心配なので一足先に帰ったよ。今しがたうちらの実験整備班が機体のチェックをしてるさ。》

 《お抱えの整備兵がいるとは羨ましいな。それより三上、私も燃料を使い果たして足早に戻ってきた所存だ。三機編隊を組みたい。編隊が組める人数がまとまり次第随時空に上がって欲しいとの事だ。補給を終わらせたらそちらの部隊に入れてくれないか?》

 《了解した。西川隊長はまだ時間がかかるか、ひょっとすれば今日は出られないな。いいだろう、比角?》

 《勿論です!西川隊長はよくやりました。休んでもらいましょう。》

 三上は比角のそんな言葉に安心するのだ。今の西川は自分を見失っている。歴戦の猛者から打って変わって弱い男になってしまったとさえ思える。それでも大切な上官である。彼には生きていて飛行士以外の違う人生を探して欲しい。星を眺めるだけで幸福に足る人生だってあるかもしれない。

 …でももし俺が彼の立場になったら?

 《どうした三上中尉?》三上は考え込むと周囲の音さえ忘れていた。

 《すまない川端、機体燃料はうちら(空技廠)の使っているオクタン値の高い物を使え。シリンダーが跳んで喜ぶ。》

 《ああ!それ空技関係者以外に口外してはいけないんですよ!》

 《いいだろう比角。足並みが揃わないのも良くないさ。》

 《なんだなんだ、隠し事をするなよ。俺の隼に悪さするんじゃないぞ?》

 《とんだじゃじゃ馬に早変わり。案ずることはない川端、貴様なら扱える。》

 《そういえば三上と比角の隼はやけに機首が長いな。エンジンがやはり違うのだろう?それに三上のには機銃にこぶができている。》

 《細かいことはマル秘だ。遅かれ早かれこの機体が隼の完成形になるだろうさ。》

 《最新鋭機というのに早くもがらりと様相が変わるのか。それは楽しみにしとくよ。》


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 《さて、準備は整ったな。全機定位置に着いたか?》

 三上の機体を先頭に二機は左右に続く。《全駆動系確認よし!無線も!》

 《さっきから喋っているから無線は心配無用だな。しかし三上、お前の僚機はずいぶんと講釈師だ。》

 《ああ、でも腕は一流だ、さっきは一機撃墜、一機共同撃墜だ。》

 《ほう、やるな。次は三機以上墜とせ。》《そういう川端中尉の戦果は如何なのです?》《とりあえず二機だ。そのうち一機は墜ちたかわからんが。》《なぬっ》

 《そこまでだ。》三上は二人の会話に割って入ると咳払いをする。

 《管制へ、滑走路他機影無し。三上技術中尉はじめ51戦隊から臨時で川端、比角。機種、一式戦闘機試製三型二機、二型一機、全機増槽装備、部隊名は、ロクロクでいいか?》

 しばらくの沈黙の後、管制室から無線が短く喋った。

 《了解した!》

 轟轟といななくエンジン音は平坦な滑走路に反響する。

 《第66戦隊、戦闘行動に入る!》

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 《海軍陸戦隊の到着はまだなのか?》

 《ああ、やつらどうも潜水艦に苦戦しているらしい。陸軍の揚陸艦の方が先にウラジオの港へ足をつけるぞ。》

 《燃料が残り僅かだ。あと3分で還る!》

 ウラジオストクの攻略は陸地側ではうまくいっているように見えたが沿岸の攻略は想像以上に手こずっていた。日露戦争以降まともに艦隊戦を行った事の無い海軍は次々と艦艇を失いっていた。一方潜水艦対策や索敵の体制を怠らない陸軍の船の方がよほど上手く海路を切り開けていた。それもそのはずで、日露戦争での敗北の傷跡が残るソビエト海軍は巨大な軍艦など作れる筈もなく、安価で大量生産が可能な大規模潜水艦隊を対日海軍ドクトリンとしていた。彼らの目論見は大当たり、潜水艦など日露戦争の頃は無かった!と帝国海軍の艦艇ブリッジからは口々に怒号が飛び交っているに違いない。彼らに臨機応変さなど存在しない。現に彼らの昨日までの作戦会議は、歴史本を読みながらサイコロを振って船の模型を動かしているだけだった。最大の問題は潜水艦の模型が存在しなかった事にあると共同作戦を敷く陸軍、空軍から口々にヤジが飛んだ。

 《空母とやらの襲撃部隊は?》《今爆弾から魚雷へ乗せ換える作業で忙しいらしい。ソビエトはまともな船がないってのに、港の漁船でも沈める気じゃないのか?》《辞めさせろ!港に被害が出る!でもって上陸不可になって!阿呆う!無駄な労力を使わすな!》

 戦場はいつも騒々しさを忘れさせてくれない。

 空軍は一戦闘空域に数機の索敵機を配置し、高周波数の無線で随時戦域の情報を前線のパイロットに送った。ロシアという一大工業国としのぎを削る中で、こういう戦いの手腕や兵器の質は日進月歩で先鋭化した。しかし、しのぎを削るソビエトもまたその例には漏れない。

 《敵高高度戦闘機が襲撃機部隊に急降下を仕掛けてくる!こっちの飛行機じゃ奴らの高さまで手が届かない!》

 北のシベリアからやってきただろう3機のソビエト製高高度戦闘機(MiG-3)ははるかに高い空から高速で日本の爆撃機軍に奇襲を仕掛ける。この空域に彼らに勝る上昇力の戦闘機は存在しない。99式襲撃機でパイロットに背を向けて搭乗している機関銃手はただがむしゃらに高い所から急降下で落ちてくる点のような機影にむかって銃撃するしかなかった。

 「墜ちろ!俺だって生きて勝ち目を見たいんだ!」

 さっきまでの点ははっきり戦闘機になっていた。がむしゃらに打った機銃は弾詰まりを起こしてしまった。諦めてぶらりと下した腕は引き金を少しも引いていないのにまだ熱い感覚が指先に残る。体は生きているのに悪寒で死体のように心臓から冷たくなっていく。遠のく意識の中、猛然とする視界に闘志が消え失せここぞとばかり日差しと五月の雲無き早朝の青空が全てになる。そうだ、このまま敵の機銃に打たれて死ぬなら一思いに心臓を貫いて安らかに終わらせて欲しい。異国の地に落ちるまで意識を続けたくはない。だれの物でもない空で…

 《先鋒部隊が帰ってきたぞ!部隊は…》

  無線機が刻を再生させる。

 《…66だ!》

 尾翼に66の意匠を鋭角的に模った矢のマークの二機、二つは襲撃機隊の真後ろ500メートル付近を横切ると手土産と言わんばかりに高高度戦闘機を火だるまにして機体の制御を奪った。

 《よくやったぞ比角。》《やつら、速度はあるが動きが単調だ。思った以上に墜とすに容易い!》

 遅れて一機の隼が続く。

 《まったく、貴様らにはついていけん。まさかこれ程の実力だったとはな。》

 敵戦闘機の機影は少しづつ薄くなっていた。奇襲攻撃を受け反撃が遅くなり、なおかつ現場の混乱で戦力を逐次的に投入しなければならない彼らには大きなアドバンテージがあった。しかしもう作戦が始まり時間は十分に経った。本当の攻勢は

 《これからだぞ。》

 《…66部隊、聞こえるか。基地無力化を確認した。本空域にて現在より挺進部隊の作戦行動に入りたい。三上中尉、現地点での作戦指揮官が不在にて貴官に判断を委ねたい。良いか?》

 《無論です。一刻も早くどうぞ。》

 《了解した。百式輸送機、空域侵入を許可!》 

 《三上中尉、引き続き現空域の指揮をとれ。》

 了解と一言返事をすると三上の隼は機首をおもむろに上げて垂直に空へ向かった。完全に上を向いた隼はエンジンの轟音に似つかわしくない気流を感じさせる滑らかな動きでくるりと機体のプロペラの先から尾翼の端までを軸にして回転した。濃紺の塗装が美しく青空を反射する。

 《現空域は我々66部隊の指揮下とする!》

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《挺進部隊の為に敵基地上空から距離を置く。挺進部隊投入後燃料に余剰がある襲撃機は近接航空支援へ、戦闘機部隊は部隊単位で12方角へ散開、各々索敵網に穴をあけないよう伝えて頂きたい。》

 三上は随時索敵機へ指示を出す。それを無線で周知させるのが索敵機の仕事だ。ここまでは教導書に書かれているような基本的な動きだ。

 ほどなくすると落下傘部隊が低空を埋め尽くした。白い空に投げられたじゅうたんは少しずつ地面に近づくとやがて地上から光がぽつぽつと映える。その曳光はなりを潜めていた敵地上部隊の残存兵力だった。何人が無事たどり着けるだろうか、それは空にいる三上達には傘に隠れて知る由もなかった。このような戦い方は先に世界大戦を始めたドイツが成功を収めていたが果たして日本は彼らに続くことが出来るであろうか?

 《新京の士官学校にいた頃落下傘部隊の降下演習を見たことがあります。輸送機から飛び降りた後は大声で数を数えるそうです。》

 《それはなぜだ?》《あまりの高さに怯えて意識を保てない者もいるそうで、気を失わぬようにとの事…我々も落下傘のお世話にはなりたくありませんね。》

 航空機パイロットも他人事ではない。機能不全になった機体から脱出するためには狭いコックピットからなんとか抜け出てその場でパラシュートを開く。当然大半の場合は敵地に足を踏み入れる事になるので気が気ではない。鋼鉄の翼を捨てたパイロットの身を守るのは拳銃と僅かな小道具だけだ。

 《子供達ときたら物珍しさで大はしゃぎ、授業もそっちのけで校庭までいって手を振りに行くそうです。空の神兵からすれば地上は呑気ですね。》

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 軍事基地は満州国境沿いに設営されたソ連軍の基地では最大規模の物だった。三上ら日本空軍の野戦基地に倉庫をいくつか作って滑走路を急造したかのようなお粗末な基地にくらべその規模はゆうに三倍もあるように見えた。ソビエトのこの準備の良さは帝政ロシア時代から広大なロシアの地に脈々と敷設された鉄道網がそれを成す。

 《陸軍はシベリアでうまく破壊工作ができていればいいのだが。》

 三上にはひとつ引っかかっていた事がある。

 それにしても今までの要領の無い日本軍にしてみては準備ができすぎている。空軍単独作戦ならまだしも、三軍全体がこれほどまで手際よく宣戦布告から作戦実行までを画策できるとは。

 《海軍の奴らは何故被害状況を報告しない!それに加えて陸軍索敵機の報告と海軍の戦果報告に大きな差がある!どちらが信用に値するのだ!》

 三上の邪推からなる危惧は半分杞憂に終わった。反対方向の港湾では相変わらず苦戦を強いられているようだった。仮にこの場で空軍が勝利を収めたところでウラジオストク港と都市を掌握できていなければ遠くない未来反撃される事は見えている。

 《三上中尉、ご苦労だった。》

 ほどなくすると機体の整備を終えた西川が戦地に到着したがその頃には空挺部隊の基地占領は佳境を迎えていた。3階ほどの規模の建造物には窓から短機関銃の連続した発火炎が伺える。その光は徐々に階高を上げていくとついには管制塔まで登っていった。もっとも基地の防衛は手薄だった。資料の漏洩を察知した極東ソビエト軍はおおよその重要物資を北方の重要度の低かった基地に移設していた。しかし三日の期間ではそれらの実行にあまりに短く、基地の破壊工作を行おうという頃には手遅れであった。三上は殆ど攻勢が片付いたように見えるこの空域に安堵する。

 《西川隊長、大事ありませんか?》

 《どうした?三上。》西川は昨日の出来事が嘘のように平然と返事をした。

 《いいえ、エンジンの事です。》

 《ああ、まったく、帰り際に油を吹いてね。三上中尉宜しく、私も機体を粗雑に扱ってしまったようだ。》

 二機は翼を並べた。こうしていると三上は初めて戦地に飛行兵として赴いた頃を思い出す。冷静沈着な男だった西川はいつも自分の前を飛んで劣勢に押し迫られようと適格な判断を下し部隊を生存に導いた。彼の僚機を務めた飛行兵は一際逸材となり階級を上げ隊長となった。そして部下の死があれば表には出さないが誰よりも心を痛め、休暇にその親族の家へ出向き活躍を親兄弟に聞かせた。主張は無い、ただ人の話をよく聞き、頷いた。

 昨日、そんな彼の3年間見せなかった素顔はあまりに三上には衝撃的だった。

 《三上!どうした!早く避けろ!》

 ふいに耳元で西川の叫び声が聞こえた。何分間物思いに耽っていたのだろう。他人への関心や不安が揺らがぬ筈の闘争本能を奪うなんて。直上から4機の機影。日本の物ではないペラの音。首を上にやる時間もない。感覚でわかる。次に来るのは弾丸の雨だ。

 《不覚、しかし!》急降下で仕掛けて来るほど単純な動きをする敵機はない。そしてあまりの速さで風圧に縛られ攻勢するにも関わらず機の制御がきかなくなる。三上は背面飛行で機首を下へ向けたと思えばその場で舞い落ちる花びらのように複雑な動きで少しづつ高度を下げた。そう、急降下する機体は急な起動に対応できない。一機は三上を照準器に捉えようとした。しかし最後まで照準に、ほんの僅かな距離隼戦闘機を捉えられない。それでも、もしかしたら当てられるかもしれない。その願望で引き金に指をかけた。機首の機銃は音と共に発光を、視界は眩く煙は乱反射。これほどの轟音だったんだ。やったか?その希望と共に視界は突然狭まった。そこは地面だ。

 《一機はなんとかなったな。》三上はやっと敵を視認できた。すると三上を仕損じた墜落した猟奇であろう機体が再び攻勢をかけようと急激に機首を上げる。

 《隙あり、頂く。》その動きこそ弱点だ。急降下した機体は墜落を避けるため当然再び上空へ帰ろうとする。その瞬間、大きく速度を落としてしまう。三上の機体は相変わらずひらひらと気流、揚力、重力に身を任せながら短い射撃音を放った。すると先ほど三上に襲い掛かった機体はどうだろう。エンジンが止まり力なくプロペラが止まると浮力が無くなった機体は少しづつ地面に近づいた。

 《相変わらず人間技じゃないよ。三上の動きは。あっという間に二機を葬ってしまった。》三上を護衛しようとした西川だったがその動きについつい恐怖を覚えてしまう。

 《あと二機は…》もう二機を視線に捉える事ができた。あの見慣れない機首に巨大なエンジンを載せた最新の戦闘機。そして彼らの戦術行動は三上の思う最適解だった。

 「降下を諦め水平飛行、敵機銃の射程から完全に離れた位置から再度攻撃に移る。」あの敵機は判断を誤らない。

 一撃離脱戦法だ。帝国空軍でもこの新しい戦術を取り入れようと躍起になって教育しているが熟練のパイロットほどそれらに対応できずにいる。それだけではない、ゆっくりとこちらに向かって旋回する二機、この起動はなるべく速度を殺さず、かつ三上の視界から消える為の起動だ。なるほど、機体性能、そして数的有利を利用するため視界内戦闘は捨てたか。再戦にあたり策を練ったようだ。

 「件の向日葵の戦闘機か。ひとたび手合わせしたく思っていた!」 

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 遠方からやってきたソ連の戦闘機隊の数は多く、どれだけ相手の出方を網羅していようとその濁流のような戦闘機群を止めるのは容易ではない。三上への攻撃を皮切りについに古巣を奪われたソビエト空軍の反撃がついに始まった。大きく旋回した向日葵のLa戦闘機(La-5)は執念深く三上の死角を狙っていて、その動きは他の日の丸の戦闘機をまるで眼中に入れていないようだ。もっとも通常の一式戦闘機ではこの刷新されたソビエトの戦闘機には追い付けない。大量生産、大量投入が基本戦術であるソビエト空軍の戦闘機は大半が低性能に終わっていたがこの向日葵の戦闘機に限って言えば機首の形が大きく変わっただけでまるで雛鳥が猛禽の類だったかのように自由に空を翔るのだ。

 《三上、さっきの出撃で何機落とした?》

 《五機です。》

 《やり過ぎたな三上!狙われるぞ!》

 言葉の通り再びLa戦闘機は三上の後ろについた。

 その機動は間違いなく戦局を個の力で打開できるエース機をこの空域から分断する為の陽動である。しかし三上にとってもこれは都合がいい。

 《西川隊長、私はこの厄介な機体を今日撃墜します。分隊指揮権を隊長に委任、敵増援撃滅をお願いします。》

 《三上、どうするつもりだ?》

 《こいつの誘いに乗ります。奴は空軍にとって最も手ごわい敵だ。》

 西川は暫くの沈黙の…分かった。と無線を入れると。最後に

 照彦君、生きろよ

 と小さく言ったような気がした。

 機体は高度を緩やかに下げて加速。向日葵の機体は逃げ場を選ばせてはくれない。三上は方位計を一瞥すると前方の地平線の向こうに待ち受けている景色を想像した。

 「海か…」

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 пареньбравый Смотритсоколомвстрою…

 一人また一人と隣人を勇気づけるように口ずさむ。その瞳に映るは海から侵略するアジアの大帝国の兵器群。誰しも瞳に映すは見慣れた筈の美しくも荒波の日本海。ここはロシア東方の支配地ウラジオストク。この街はおよそ80年前、戦争ばかりのヨーロッパに背を向けるようにロシア帝国が凍らない港を探し求めていた時代、未開の森林地帯に彼らの近代文明が持ち込まれた。沿海州と呼ばれた未開の土地はやがてロシアの文化を色濃くし、建造物も港湾も一つの都市として立派に整備された。そして束の間ではあるが世界情勢が穏やかだった頃、この独特な風土と新鮮な魚介類を珍しがった観光客はやがて歓楽街を持ってきて、華やかかつ立派な石造りの建物が港へ寄り付く船旅の人々を迎えた。そしてここの駅を始発とすればシベリア鉄道で地球を半周できるほどの線路の長旅が可能だ。ユーラシア大陸のフロンティア、夢と希望が波止場に泊まる街。そう、それは戦争が無ければの話。いまや誰一人優しい表情を浮かべる者などいない。沿岸砲撃の音は絶えず止まない。

 若い政治将校達はいずれこうなる事を知っていた。しかしこの軍管区から亡命者を出してしまった。東部軍管区の司令官達はたちまち自分たちの失態に狼狽え制裁を怖がるあまり思い切った指揮をとれる状態ではなかった。海から日の丸をつけた白い航空機が信じられない事に船から飛んでくる。それらを迎撃できるほどの空軍力はまだまばらで纏まりがない。すでにモスクワが日本軍の手によって陥落していて、このウラジオストクが最後の砦になったに違いないと突拍子もないデマカセする者まで現れだす始末だ。対空砲は空へ曳光を上げるたびひとつふたつと獲物から翼を奪うがまるで暖簾に腕押しだ。そのうち一人の砲兵が叫ぶ、味方が来た、撃つなと。まだ足をつくことの出来ないこのウラジオストクの空にソビエトの戦闘機が迷い込んでしまったらしい。

 《気づけばこんなところまで遊びに来たか。案外距離が無い物だな。》

 三上は相変わらず追われていた。しかし十分に以前の戦域から距離を置いたにも関わらず僚機を従え二機体制で迫る向日葵の戦闘機は一向に決定的な一撃を入れようとしない。いや、三上は巧妙に射線をずらすのでそれを許してはくれなかった。それでも彼女は理性的だった。三上の操る一式戦闘機を追うのには機をじっくり伺えば必ずやってくると疑わなかった。対する三上はいつものように戦闘に集中する事が出来なかった。何故だろう、こういう気張って居なければいけない時に限って西川の事、ホテルでの一件、父親と内地勤務、なぜかそれが頭脳で止まることなく逡巡し絶えず朦朧としていた。こういう有象無象を忘れ没頭するための仕事が三上にとっては戦争だというのに。三上はそんな最中自分の行動を顧みた。

「私は飛行機を操縦しながら眠っていたのか?」

 地上は似たような山間の景色の羅列から既に姿を変えていた。陸軍の大小様々な舟艇がウラジオストクの港を睨んでいる。おそらくソビエトの兵士は内地に誘い込み迎撃を試みている。迫撃砲の音の一つも立てないのはあまりにも不自然だ。時計をみれば30分以上もこのジリ貧な戦闘を続けているではないか。私の心を乱した切っ掛けはなんだ?思えば東満州からハルビンまでの列車で夢うつつに聴いたあの得体のしれない電子の音から何かに追われるような衝動に駆られている。

 戻らなければ。そろそろ燃料と時間が無くなる。

 敵地の只中というのに対空砲はまるで撃ってこない。そして向日葵の機体らも燃料は残り少ないだろう。もしその戦闘機の搭載燃料がソ連戦闘機らしく足が短ければとっくに空港へ戻っていなくてはならない時間帯だ。そして事前につかんだ情報では港湾部周辺に滑走路は無い。何より燃料という重しが無くなった機体は軽快に動くものだ。あっという間に距離を詰められた三上は捨て身の彼らの闘争心に応える事にした。突発的に機体を引き起こす。

 「あと少しでも遊んでいたかったが、ここで引導を渡してやろう!」

 

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Act .1 水の都、向日葵と肩足立の阿修羅

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 「情報によればあなたはソ連で二本矢のバーバヤガーなんて異名があるとか」椎名は新京ホテルでの別れ際に言った。「大抵そういう機体は懸賞金がかけられています。」バーバヤガという名詞に見当もつかなかったがこういうニックネームは敵味方問わずつくものだ……


 ———曇りの増した空を兵士達は見上げた。それはソ連兵も日本兵も、地上にる者は例外ではない。上陸開始までのほんのひと時。寒さの残る春のシベリア、遅すぎる帰還を果たした渡り鳥とそれに背中を追われ東からはるばるやってきた留鳥がいた。エンジンから白煙を吐く三機の戦闘機たちは美しき水の都の大空に二重螺旋を描き、また放物線はひとつの絵画のようだった。

 「やはり読み通りだ。」三上は後ろについた向日葵の戦闘機と、それに続くもう一機、その僚機の戦闘機を睨む。こいつはまだ、戦闘に慣れていない。こいつは三上の機体を軸に速度を失わないよう旋回しながら巧みに襲い掛かる向日葵に見様見真似でついていっているだけでまるで攻撃を仕掛けてこない。はっきり言ってしまえばこの高次元な空戦についていけない彼を今は敵の勘定に入れなくていい。問題は向日葵だ。あの機体は絶妙な距離感を三上との間に保ち、まるでそこにいない誰かに突如として攻撃されるかのような錯覚を覚える。三上はそっと目を閉じた。視覚の情報はもういらない、音も必要ない。想像し分析しろ、さっき10時の方向に回った機体はきっと高度を上げつつ減速、9時に、そして距離をとり8時…

 「7、そこだ!」三上はスロットルを開いた。機体はプロペラトルクで自然の流れに任せ左に傾くと寸でのところで向日葵の射撃をかわす。向日葵はまるで予見もしない行動に対応できない。なぜだ?完全な死角のはず!そのまま向日葵は三上の一式戦闘機の前方へ出てしまった。すると流体力学を味方につけた一式戦闘機は翼を大胆に一回転させ三上はついに数発の射撃を加えた。

 向日葵のLa戦闘機はついに損傷した。しかしさして飛ぶには支障の無い場所である。

 「これでなおの事機体が軽くなったな。」

 胴体から白煙を吐く向日葵は燃料タンクを損傷し白煙を吹いていた。

航空機の血液とも言える燃料が噴き出す。

 「そして、お前ももう仕舞だよ。」

 三上はゆっくりと速度を下げると向日葵の僚機である操縦桿で対流をしのぐのもやっとなLa戦闘機を同じように前方へ押し出した。当然向日葵の戦闘機と違い実力の無い彼だ。三上は短い射撃を加えるとLa戦闘機は緑色の両翼の付け根に大穴が開く。

 「やはり翼は木製か。」ふらふらと機動し墜落寸前の機体をみると三上は呟く。その翼に施された深緑と薄緑の優美な調和の塗装がまだらに剥げた穴を見ると木目調の素地。間違いなく木が材料として使用されている。ソ連の戦闘機は大半が木製で出来ており、生産その物を簡素にして大量生産を手伝う。半面、機体の重量がかさみ、性能を大きく下げた。

 「三上、技術に敵味方は無い。偏見はご法度だぞ。」

 その時、ふいに西川の言葉を思い出す。仮にこの機体が日本の戦闘機のように軽量な全金属で出来ていたら?西川ならきっと日本空軍の先行きを嘆き警戒せよと上層部に訴えただろう。西川が試験部隊から離れたら、そういった仕事は三上が受け持たなくてはならなくなる。三上は止めを刺そうとやっとの思いで空を飛ぶLa戦闘機を再び照準に入れて引き金を引こうとする。

 いや、まだへばりつくような殺気を感じる。後ろだ、向日葵の戦闘機は恐ろしい事にまだ戦うつもりだ。燃料庫から確かに煙が上がっているのを見た。燃料切れを起こす前に不時着を選択しなければその場で墜落する事になりかねない。そしてここは自軍領土なので平坦な土地さへ見つければ不時着も楽で命が助かる可能性も高い。

 しかし彼女の選択肢は絶えず闘争を選んだ。

 「その気なら!」向日葵の戦闘機はもう先ほどまでの余裕を捨てていた。以前のように踊り子の足捌きのような軽やかな身のこなしはそこには無く、執念深い飢えた豹の狩猟となった。対する三上はどんなものにも慣れた、霞のようにとらえにくく、蛇のように執念深く、鴉のように思慮深く、獅子のように勇猛で、猛禽な鷹が如く空を知っていた。しかし三上の人間離れな技巧をその身に刻まれるたび向日葵は相乗してしがみ付いた。

 戦場は空気が止まった。誰しもがその空戦を眺め、また汚すことは無い。二機は灯台を向かい合わせに飛んだ、背の高い建物の間を機体を横に傾けて潜った、そして水面を切ると飛沫は雲の切れ間から覗く光を乱反射した。舟艇を横切り、陸上で待ち伏せする戦車をかすめ、歩兵は飛ばされた頭上の帽子を忘れる。静止した時の中で再びウラジオストックは光が差し人々の瞳にかつての優美さを取り戻す。誰もがその2機の観客になった。針が壊れた蓄音機はムソルグスキーのプロムナードを再び奏でる。それに乗っかる光景は帝政時代の産物であるエルミタージュに並んだレーピンの境界の惚けた絵画の様であり、大見栄を切った遠近法を狂わす浮世絵にも見えた。観覧者は各々の発想で空を見上げた。


「楽しいよな!空戦は!」向日葵はきっとそうは思っていないだろう。僚機を守る。国を守る。その強い思いが彼女に生命を忘れさせ闘争心と心中する道を選ばせた。幾度のGで肺はとっくに半分になり、酸素がなくなった脳は少しずつ感覚を鈍らせる。唯一そのはち切れそうな体を繋ぐ意志が、残り時間が少なくなった戦闘機を動かす。もう前が見えない、切断してない瞳の毛細血管が写す淡い光が唯一の道しるべであり逃げ道だ。


 向日葵はやっとの思いで上昇すると真っ直ぐ、もう自分が何をしたかも覚えていない。そして力無く高度を上げた。雲間からは太陽がはっきりと姿を現して、呼吸を忘れかけたプロペラの断末魔が地に響いた。バラバラに割れたキャノピーから、飛行機に乗っているにも関わらず暖かな春風を感じる。

もう私の背後にいるのは分かっている。

若い青年の姿と声色を借りた阿修羅の声が聞こえるような気がした。

 

「終わりだ。」


三上は引き金を引くと今度こそ向日葵は天高く砕け散り火の粉は春に花を咲かせた。海面に火は照り返し空の出来事の全てを終始映していた。生気を使い切った彼女に比べ三上はあろうことか少しも消耗していないようだった。空で最後を迎えさせたのはせめてもの労いだ。これで難は去った、いまだに地上は呆気に取られているがきっとソビエトで一番腕のあるパイロットはここで終わったのだろう。

 

 しかし何故だろう?安堵の気持ちとは真逆の不安が襲う。何処からともなく叫び声が聞こえた気がした。それは足元からだ。

 

 「しまった!」機体を目一杯急上昇させるがもう遅かった。大きく左翼が揺れる。轟音は思考を一時的に止めたが瞬時に機体を動かしたおかげで最悪はどうにか免れた。

 これは紛れもない、空中衝突だ。

 勢いあまって隼戦闘機に衝突し視界に飛び込んだ物体は先程三上が撃墜した筈の向日葵の僚機である。両翼に風穴が空いたはずで、もう飛べないという見込みだったLa戦闘機である。どうやら機銃を撃ち切ってしまった彼は捨て身の体当たり攻撃を試みたらしい。しかし思い届かず、薄いLaのプロペラが三上の機の下面を僅かにかすっただけで、そのせいで折れ曲がってしまったプロペラがエンジンカウルに突き刺る。勿論自由を失ったペラは二度と回転する事なく、出力をなくした機体はゆっくり海面を滑空した。三上の方はまるで機体に損害があったとは思えないほどのもので、推力を失ったLa戦闘機は無慈悲な機銃掃射で今度こそ翼を削がれた。

 「遅かったな。」


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 ウラジオストクの空に残されたのは一機の一式戦闘機、そして空戦という観劇を終えた兵士達は再び動き出す。日本軍はそれが日の丸の戦闘機だと分かると歓声を上げ、ソビエトの砲兵は思い出したかのように三上を対空砲で迎え撃った。三上はゆっくりと機体をもと来た場所へ向けると当てずっぽうな対空砲を余裕な動きでかわし太陽が照らす日本海とウラジオストクを後にした。

 すっかりと大人しくなった敵の空軍基地を通りすがると数多の友軍機がとっくに制空権を確保していた。三上はもはやここでの仕事は無くなり、それに先ほどの戦闘でもはや残弾が僅かだった。

 《三上中尉、編隊から離れたと聞いたが生きていたか!》新顔の味方の索敵機が無線を入れてきた。

 《無論です。西川隊長や比角は?》《我々がここに着くまでにすれ違ったよ。とっくに基地に戻っている筈だ。》《了解、私も帰還します。》

 《それよりも三上中尉、これを聞いていけ。》

 三上はノイズまみれの無線機に耳を傾けた。

 《天に代わりて不義を討つ!…忠勇無双の我が兵は…の声に送られて…今ぞ出でた…の国!勝たつば生きて…らじと!誓う心の勇ましさ!!》

 きっと占領した基地の無線局から発しているのだろう。

 《あいつら、満州の戦争が始まって初めての勝ち戦に浮かれきっているのさ。どれもこれも貴様ら戦闘機部隊の奮闘あっての事だ。》

 《勇ましき荒鷲たちに敬意を!!貴官の度重なる戦果に乾杯だ。》

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《風速2m、引き続きその進入角度を維持してくれ。今確認が取れたが貴官が撃墜したのはソビエトの機関紙にも掲載されていたエースのタチアナ中尉だそうだ。地上に降りたら一躍貴様は報道班の引っ張りだこだろうな。》

 《ありがとうございます。私としては撃墜の事実があれば十分です。》

 《謙虚なもんだな。その心意気やヨシだ。速度そのまま、脚を降ろせ。》

 《了解。》

 三上は降着装置のレバーを降ろした。

 《三上中尉、相変わらずだが着陸速度が速くは無いか?》

 《一式戦は丈夫な機体です。こいつの丈夫さにさっきも守られた所でした。》

 《傷つけたのか?また整備兵のお小言が聞こえるようだよ。》

 なぜだろう? 

 地底から足を引っ張られるような感覚がした。

 《三上、確認して欲しいのだが……》

 三上の機体は両翼からそれぞれ二本の着陸脚とタイヤを出すと滑走路に勢いよく足をついた。

 その時である。轟音と共に左の主脚が折れ曲がる。

 「まさかな…」

 あの時だ!敵のひしゃげたプロペラの先端。あれは風切り音と共に三上の地に戻る為の足を切っていた。かすっただけの、ほんの少しの外傷のはずだった。執念と共につけられた傷はみるみる広がる。バランスを崩した機体は大きく左に傾く、200キロのスピードのついた鉄の塊は左翼の端を一瞬地面につけるとそこから地に戻るのを嫌がり駄々をこねるように右往左往と滑走路を行き来する。三上も当然制御したがまるで何か強い力で操縦桿を逆向きに曲げられているかのように制御が効かない。

 「ブレーキの油圧系統をやられたか!?せめてエンジンだけでも死守せねば。」

 原因は分からない。いや、初めからこうなっている事が分かっていればいくらでも対処できた!乱気流もないのに風向きは絶えず変わり続ける。思っていたよりも自体は最悪であり、負担のかかりすぎた右の車輪もブレーキが効かなくなった。速度今150。重さ2トンの鉄の塊である隼戦闘機は皮肉なことに三上の特別仕様に限り100㌔近く重量がかさみなおさら勢いがついた。


 ————やっとの思いで機体の制御を止めた時には滑走路から大きく外れていた。不整地を車輪は走り三上は機体ごと大きく左右された。衝撃でキャノピーのガラスが割れて体に突き刺さる。それでもなんとか機首を上げてエンジンの損傷を防いだ。が、衝撃で体をそこら中にぶつけた三上は無事ではない。すでにいくつか骨折の予感がり、仕舞には急停止の衝撃で体を揺さぶられ強く頭部を座席に打ち付けた。

 意識は朦朧としていた。未だ腕に残る強い引力の感覚。

 そうだ、俺が口ほどにもないと断定したあの機体はその命と引き換えに今俺を撃墜したんだ。あれはもはや闘志や執念を超えた何かだ。

 紅く狭まる視界、意識は殆ど残ってない。ただ一言だけ、生きてる余裕を見せたくて簡単に言葉を呟いてみる。でもいまは、なんだかねむい。

 「…やられたよ。」

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碧き空と終憶の世界から(第二次大戦編) とつかみさぎ @Tozka

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