3.こんな星の夜には (春、新京)
03,19178113485720948 錆びた雨世界は沈みて最果てを見ているのは
「やっぱり逃げるんだよ、ここから君は。中立国に。」
「まってくれ!どういう事だ!君を一人にはできない!」
掘り進めた穴にはそこかしこに水たまり。ブーツは冷たい雨水を吸い、足の指は既に感覚を失っている。
「何を言っているんだい?僕はけっして一人じゃないよ。」
緑色の瞳の青年は本弾飛び交う塹壕から身を乗り出すと、あろうことか背筋を伸ばし、陽気に両手を広げた。もう一人それを見上げる青年は彼の前に力なく跪いて塹壕から顔を出すと周囲を恐る恐る見回した。
「ここまで生きて共に来てくれた。君は僕の最高の友達だ!」
他の兵士といえば、防毒マスクを外し忘れ塹壕で窒息死寸前の物。迫撃砲の音で気が狂い自分の頬を真っ赤に爛れるまで拳で殴る物。司令壕の戸を開閉し、そこをまるで我が家のように笑顔で行ったり来たりする物。生物の本来の姿が消え失せた者ら。そしてそれらは共に食事し、何もない夜には星を見ながら共に語らって過ごした仲間なのだ。それすら忘れさせる。ここには…
「異常しかない…」そして言葉を続けた。
「だからこそ親友の君を置いて一人で日本に帰るわけにはいけない!」
防毒マスクの男はまだ息がある事にその日本人の青年は気付いた。
「あぁ…アルベルト!!」
日本人の青年は防毒マスクを剥ごうとした矢先、緑の目の青年は言う。
「無駄さ、その行為は彼の死を早めるだけだ。」
防毒マスクは青白い顔を露にすると過呼吸になりもうすぐ息絶え首をガクリと落とした。
「僕は…君が怖い。なぜ君は突然変わってしまった?」
肩を落とした泥だらけの日本人青年にやがて神々しい光が差した。
「恐れないで欲しい。君がここに存在するのには意味がある。僕はこの戦争で…君たちに出会って使命に気が付いたのさ。」
雨雲の中に光が差し、細く照らされた日光は何かを探すように光の筋を創造した。迫撃砲の衝撃が視界を揺さぶるが彼は一切よろめかない。
「これから君にある話をする。そして君は未来で、君の国できっとそれを思い出して、」
「僕と」
「そして未来に現れる【兆し】を必要とするだろう!!」
3章こんな星の夜には
「中尉!ちゅういー!起きて下さいよ!もう到着の頃合いです!」
満州鉄道のあじあ号は快適な旅を売りにしているだけあって乗客を静かに心地よく揺らす。ただ三上の揺れはそうでは無かった。比角は三上の両肩をつかむと横に大きく揺さぶった。三上は暫く唸ると舌打ちの末比角の両手を振り払った。
「いい加減鬱陶しいぞ。ヒスミ!」
「でもそうでもしないと中尉は起きないでしょう?」
「起こし方というものがあるだろう。」
「この為に私を同伴させたのですか?まるで目覚まし時計だ。」
「そんな高価な物とも思えんがな。」
三上は車窓から景色を伺った。夕暮れの空。相変わらずのだだっ広い平原が広がっている。彼はもっと街の景色を想像していたのだが。
「まだ新京はだいぶ先だろう!」
「いえいえ、ハルピンからなんてあじあ号だとあっという間ですよ。寝過ごして大連の港まで行かれる気ですか?」
三上は呆れたように両瞼を手のひらで覆った。
「お前、ホントにざっくばらんな奴だな。」
はて?といった表情を浮かべた比角は疑問ついでに問いかけた。
「なぜ同行人が私なのです?」
「なぜだろうな。話は変わるが、お前は本当に2機も撃墜したのか?」
「ええ勿論しましたよ。隊長が見ておられました。」
「……もしや隊長をお疑いになるのですか!!」
「そう言うところを開けっ広げと言っているのだ。」
三上はため息を一つつけると気怠そうに言った。
「お前は満州唯一の新京士官学校を出てそのまま現地の空技廠でテストパイロットになったそうじゃないか。少し地元記者団にいい顔をして来いという事だ。」
「心遣い痛み入ります!震災で一文無しになった鎌倉の両親も喜ぶ事でしょう!」
比角は朗らかな表情で続けた。
「本土は今頃東京のオリンピックで話題が持ち切りでしょうがね!」
「それに比べて三上中尉はこれから父上に会えるのですから、極東紛争初参戦で5機撃墜、突然のエース現る!この上ない土産話です。」
比角は子供のような笑みを浮かべて三上を眺めた。これで三上を煽てたつもりなのだ。そんな事とっくに三上は分かっていた。
「あまり嬉しく無いのですか?」
「いいやそうでない。父に会えようとも私みたいな者にはこの手合いの祝賀会なんてものが気性に合わなくてね。陸海空合同の対ソ戦本格参入の決起集会というが、企画が空軍だからと言って私のような一兵士を呼ぶなどな。」
「中尉の場合は立場もおありでしょうし、それに皇国空軍というのは陸海の行動に睨みを効かせるための第三者機関でもある訳でしょう?そんな日本の軍事力の均整を各軍上層部に叩き込む為の集会でもある。ゆえ、軍として成立しているという立場を誇示する為にも前線で戦う空軍英雄の武勲を見せつける必要があると推察します!」
比角は変わり者だが以外にも状況を冷静に判断する能力はある。そんな洞察力の鋭い少年の心を持った男を三上はじっと眺めていた。比角は落ち着かない様子で周囲をキョロキョロとしているが、会話の途切れた二人を満州一の大都市、新京の眩い街灯が包んだ。特急は速度を次第に緩めると比角は唐突に口火を切った。
「にしても三上中尉!」
「なんだ?」
比角はぼんやりと無表情に、しかし口調はハキハキしていた。
「あなたは戦時と平時では全く人が違うんですね!」
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「中尉!本気でげんこつする事無いでしょう!!」
二人の男は大層に目立った。夕暮れ過ぎて薄闇の街、ネオンがちらほら灯る頃。道行く人は仕事の帰りや、クラブに通いがけの色のついた服を着る若者達、映画館から黄色い声をあげてでてきた女学生達。少なくともここ新京はハルピンよりも生活感がある。そんな中で二人の士官は…
「大声をあげるな。目立つし気恥ずかしかろうが。」
体格もよく美形な部類の二人の青年がとやかく言い合いながら歩くとかえって目立つ。三上はこの時ばかりは着なれない背広で良かったと思う。しかしどのみちこの服も会場に着けば元の軍服に着替えなければならないので二度手間を憂いた。
「まったく、どうしてこういつも列車に乗らねばいかん。ゲリラも最近は大人しいのだからいい加減車を使わせてほしい物だ。」
「それもそうですね。住んでいたので分かりますが新京はそれほど危険ではありません。」
新京。満州の中心地に位置するこの大都市は政府、軍の機関の要所が集う言わば首都である。背の高い立派な御影石の建物達、完全に舗装された道路には自動車が跨り列挙する。その中に紛れる陸軍のトラックや要人が乗っているであろう高級車がこの街にどこか物々しさを残した。道行く婦人はどこか気品があるようで、その立ち振る舞いに三上は自分の良家の生まれを想起させられたかのように背筋を伸ばし分けた髪を指でなぞった。しかし隣の比角といえばさっきの婦人を目で追っては歩調を緩める。
「お前、歳は?」「22ですが。」「若いな。」
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「揃われましたかな?それでは僭越ながら開会の音頭を取らせて頂きたいと思います。」
夜は完全に更け時間は7時半、会場にあたるホテルは周囲の建物に比べればそれほど背は高く無かったが延べ面積は相当な物で、こういった煌びやかな場慣れしている三上は少しも動じなかったが比角と言えばフロントの巨大なシャンデリアに圧倒され、手入れされた庭に目を奪われ、給仕の首に少しの偏りも無く巻き付いたつやの無い黒い蝶ネクタイに感心していた。二階の大ホールに集められた各軍の幕僚、高級将校たちは各々タバコをふかし談笑に勤しんだが、比角は早く目の前の料理に舌鼓を打ちたくうずうずした。突然の集会だか知らんが会場に来ていない奴など何処まで偉かろうと知った事か、不幸にもビュッフェ形式のご馳走は彼の視界を離れない。三上はそんな比角をなだめながらも次々と彼の元にやって来る色々な色の軍服を着た将校たちには適切な対応をとった。そこには年相応の焦りや落ち着きの無さをまるで感じない。以外にも社交的な三上という男を比角はただ茫然と見てる他なかった。
「中尉、今分かりました。出世できる人間にはきっと貴方のように沢山顔があるのです。そしてそれは一朝一夕で成せる事ではございません。立ち振る舞いから何まで、生まれや育ちで培われたそれらは、階級以上の偉さを…感じさせます。」
「そうか…?」三上は縮こまる比角に助言した。
「陸海軍のお偉方であればそれほど強張る事はない。相応の受け答えをしていればむしろ武人として高く見てくれるだろうさ。だが空軍の重役となれば別だぞ、もし怒らせるような事があればその時は…出世が遅れる。」
三上は比角の緊張を解すかのように微笑かけ背中を優しく叩いた。
人が集まり会が始まれば、比角はそれならと皿に程々な焼き加減の牛ステーキをたんまり取ってきて丸テーブルに席に戻って無遠慮に食べ始める。
「照彦君、今日はわざわざご苦労だったね。」
二人の背後から低くよく通る声が聞こえる。さっきまでの調子で会話する三上に何気なく比角は問いかけた。
「うーん?中尉、何方です?」「私の父上だ。」「はあ、お父様ですか。それはそれは…」
「はっ!」
比角は振り返るとそこには変わった軍刀を下げ写真でしか見た事の無いような男がいた。突然彼の体はナイフとフォークを置きくるりと向きを変える。
「元帥閣下!これは大変なご無礼を働き…第66独立実験飛行部隊所属!比角栄太郎少尉であります!」
三上は呆れた。「そんな無茶苦茶な敬礼があるか?」
あまりにも大声だった彼に対する周囲の反応は冷ややかな物もあれば、嘲笑もあり、若いな、と多めに見る者もいた。
「照彦君はえらく独特な部下を持ったようだね。」「お許しを、躾がなっていなかったようです。」
三上元帥空軍大将は齢50半ばで既に白髪、背は比角よりは高くはないが不思議な存在感を放っている。ワイングラスを持つ右手、そして勲章で埋まった紺色の軍服を着ていたが不思議とそれらの色彩的な主張は抑えられているように見えて、ことさらに大将、その人を紳士的に完成された熟年男性に見せる。
硬直するまま震える比角に三上元帥空軍大将は驚くほど物腰が柔らかかった。白髪にしては、それ以外の部分は実年齢より幾分若く見える。
「問題ない。私は規律だ礼節だと言うのに其れほど煩く無い部類の人間だ。」
そう言われようと比角はその不自然な姿勢を崩さない。三上元帥は口元を緩める。
「して比角…少尉だったかね?なぜ軍属は規範に厳しいと思われる。」
「それは…」しばらく考える。「存じ上げません!」比角は正解を言い当てる自覚が無かった。そんな彼に三上元帥はゆっくりと口を開く。
「その昔ヨーロッパやイスラムの国々ではね、兵士は他の国からお金で雇って、そして雇われた彼ら同士を戦わせて戦争をしていたんだよ。しかしこれには問題があってね。」「なんでも負け戦になると雇われた兵隊達はすぐに脱走したらしい。当然それは儲けよりも大切なものがあったからだろう?」
「それは…」比角は口ごもった。
「命さ。」軍人が命を乞うことは許されない。そんな価値観で生きてきた軍人にこの言葉はご法度だ。これには三上ですら、同時に周りの将校たちも息を呑んだ。
「これには困ったな。しかし思いつく、金銭のやり取りより単純明快な解決策があったじゃないか。」「…これが今に続く軍隊の規律というものさ。もう分かったかい?彼らを戦地に送り、隊列乱さず死にに行けと言えるのはその獣のような主従関係、力関係だ。故に新兵への洗礼は暴力や自意識の否定から始まる。」
周囲の会話が少しづつ途切れる。心なしか煌びやかだった会場が薄暗くなった気がした。
「君は…どうだい?」比角は真っ直ぐに向けられた異様に優しい瞳が怖くて仕方なかった。はたしてどう受け答えすればいい?下手を打てば今日までの命ではないのか? 「わ…わたくしは…」
「何を恐れ戦い、何に従う?」
この人は、軍のあり方その物を否定するのか? 「少なくとも…少なくとも三上中尉は…怖くありません!怖いのは敵に対する」
「敗北ですっ!!」
決死の問答の末、彼の悲痛な叫びは沈黙を破る。すると突然、三上元帥はこの静寂とは場違いな大声で笑い始めた。その目は、瞳孔が開いているように見えた。
「ご名答!そうだ、そうだね!それが、それで正解だ。」
比角は目に涙を浮かべてきょとんとしていた。
「モダンな軍人の忠誠とはあくまで国家への忠義に根差していなければいけない。君はこの言葉の違い、わかるね?近代戦闘はもはや少数の傭兵で戦域を網羅しえない。故に国家規模での人的資源、そう!軍事を国家事業の一環とする必要があった。日本という国が藩を捨て、他国の脅威に対抗するため一つになったのもそれだ。すると敗戦とはつまり、国そのものの損失に繋がる、と、云う事にはならないか?」
あまりの早口で捲し立てられ口をぱくぱくと開閉するしかなくなった比角に三上元帥は顔を近づけると耳打ちした。
「そう、ここに居る連中はまるでそれが分かっていない。幾万という兵、国民を率いているにも関わらず、自らが国家の滅亡を左右する存在という自覚がまるで…」
「無いのだ…」
その小声は三上にも聞こえた気がした。
「も…ごめんなさい…」比角は訳も分からず謝罪した。ここに居る誰もがこのやり取りの末路を漠然と見ているしか無かった。三上元帥は首をガクリと落とし周囲を一瞥すると比角から距離をおいた。そしてその発色のいい白髪を手櫛で後ろに撫でる。
「大丈夫だ若人よ。君は十分にそれが出来ているじゃないか。」
今度は比角の震える肩に手を置いた。ひぃっと比角は息を漏らすとそんな彼にお構いなく続ける。
「だがな、礼節は最低限守らねばいかんぞ。上官の命令をよおく聞く事もだ。戦地で統率をとり君の命を助けるのは、有望な上官その人なのだからな。そういった意味でだ、軍規は大切だ。うちの子のいう事をよく聞いてやっておくれよ?」うって変わって彼は子供に言い聞かすかのような分かりやすい口調になる。
「はいっ!」「いい返事だ、君は将来有望かつ聡明だ!そうだ、来年度に陸軍大学校から派生して、空軍にも大学が出来るのはもう知っているね?君と、そう照彦君もだ。比角君は十分な実務を積んでからにして、入学試験を受ける気はないか?君たち二人は将来この空軍を引っ張る逸材だ。」
ここまで来ると比角の顔は完全に笑顔に変わっている。
「是非とも!喜んで!」
恐怖の涙は嬉し涙へ変わる。しかし三上は違った。
「父上、いえ閣下。私には内地勤務は。」「いいのさ、君の気が向いたらでいい。今は自分の思った通り、存分に飛行機を飛ばせばいい。それに今の戦線には間違いなく君の強さが必要だね。今の実験部隊で存分に飛行機の勉強をすれば将来技術屋も見えてくる。」「親心としては、あまり危険な戦地には行って欲しく無いのだよ。」
三上にはその親心が自分を後方部隊である実験隊に添えた理由である事は承知していた。少々うっぷんがたまる。
「それと父上、あまり私の部下を虐めないでください。」 三上元帥は眉間をわざと困ったようにつり上げると満足そうな表情を浮かべ軽やかに回れ右をした。
「わたしが満州まで来たのは大学の事を伝えたかっただけだよ。」「比角くん、君の戦果は耳に入っているよ。存分に平らげたまえ、ここの飯はタダだ。」
言いながら三上元帥は軍刀を揺らし行ってしまった。比角はすっかり機嫌を戻し、いや、むしろさっきより元気に見える。
「中尉、行きましょう!ビフテキがうまいです!」
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「やはり退屈だな、こういうのは。」
緑色の軍服の陸軍、白い海軍、紺色の空軍の軍服達が跋扈する2階の大ホールを後にすると三上は空を求めいつものように屋上へやってきた。こういう手持ち無沙汰な時、彼はぼうっと外を眺める他何もしない。タバコは吸わない性分だったがこの時ばかりは喫煙者の気持ちも分かった。もう一度ホールに戻ってワイングラスをもらって戻ってこようか。あまり酒もやらないがここの白ワインは気に入った。なんとも口当たりがよく、赤いワインよりも味が上品だ。遠い西洋の飲み物のように思えるがなんとここで提供されているのは広い満州のどこかにあるワイナリーが原産と小耳に挟んだ。
「気候的に見て新京付近でブドウは育たないだろうな。となると大連、あるいはもっと南の方か。」
目の前に見える新京駅を眺めながら物思いに耽る。こう考え事をしていればいづれ夜9時を回り、この退屈な会も終わって各々解散するだろう。3軍演説だなんてマスコミをつれて大々的にやっているが、こんなもの日本軍組織の結束をソ連に対して見せつけるプロパガンダで、それさえ終わってしまえばあとは余興に過ぎない。
「気がもめるかい、撃墜王。」
三上は後ろからの声に振り返るとそこには白い軍服に身を包んだ中年の男が立っていた。三上は軽く敬礼をすると男は「そう硬くなるな。」と手のひらを緩く向けた。
「どうだ?君みたいな手合いは年寄りのお偉方を見るより飛行機を眺めていた方がよっぽどいいのだろ?」
その男は三上の隣に立つと白い帽子をとった。街灯に照らされた坊主頭に皺のできた顔。落ち着きはらった表情には何処か疲労感を感じさせる。階級章を見ると彼は少将であった。
「私もそうだ。この立場になると腹の探り合いだの接待だの出世しか考えないような俗物を相手にしなければいけない。そして私自身も立場を守るためにそうなっていく。」
「皆兵学校の頃は船乗りに憧れ、大海への尽きぬ夢を語らったものだがね。」
その男はどこかそんな話を若い誰かに聞いて欲しい、そういったような表情を浮かべていた。
「申し遅れた。海軍松本水雷戦隊司令、松本豊少将だ。」
「存じ上げております。お目にかかれて光栄です。」そういう三上は海軍の事はあまり知らなかった。
「社交辞令はいい、無礼講だ。私も老人たちの相手に疲れたんだよ。未来ある若人と語らうほうが私にとってよっぽど有意義だ。」
そう聞くと三上は第一声にこれを聞いた。
「それでは、先ほどの父との会話、聞いてらっしゃいましたね。」
三上の察しの通りだった。
「ああ、君の父上は…」松本は屋上の背の高い塀に寄りかり言葉を選んだ。「相変わらず凄まじい人だね。」「昔からああです。突然何かにとりつかれたように話し出す。でも納得もできる。設立したばかりの大所帯を仕切るとなればああも大胆になるのでしょう。」
松本はそのまま遠くを見つめた。
「君は心より尊敬しているのだね、お父さんを。」「無論です。」
「でも、彼の言う通り出世して実務から離れる気は無い。君は階級主義なんかにホントは飽き飽きしていて、ただ空を恰好のいい飛行機で飛んでいたいだけなんだ。」
三上はそう言われるまで自分の気持ちなど考えた事は無かった。それでも考える間もなくはっきりと言えることがある。
「違います。」
ほう、と松本は小さく仰天した。
「確かに階級も、戦績だって私は気にした事はない。それは揺るがぬ事実でしょうが…」
三上は手のひらを見る。
「あの瞬間、戦っている間は世の雑踏から遠ざかり全てを忘れられる。あの空には落とし落とされの単純な答えと、それが終わった後の澄み渡る空しかない。」
「あの瞬間に比べてしまえば、浮世のあれこれなんてこれっぽっちも重要な事とは思えない。」
「そうか。」ただ松本はゆっくりと返事をして、一息ついた。
「若いんだな君はまだ、そして迷っている。」「迷っているって、何にです? 」「それはもう、人生さ。」「やるべき事ははっきり分かって居るつもりです。」
松本はふっと笑った。
「やるべきこと、だけで人間は生きていけんさ。それに気づいた時には私もそれなりの地位で、歳をとってしまった。気付くと目の前に用意された試練は老体にはいささか堪える責務しか無い。」
「だからね、私の役目は君のような欲のない実直な若者に、どうか汚れきった俗世に染まらず年老いてほしいのさ。」
「それは難しいでしょうね。」「だからこそだよ。そういう人間が将来この国に必ず必要になる。」
松本は三上に向きを変えた。なにかを決意するよに面立ちが険しくなる。
「だからこそ、老い先短いであろう僕は危険を顧みず君にこれを言うよ。」
「なんの事です?」三上は声質を変えて深刻な表情を浮かべる松本を伺った。
「君は…満州戦線から外れなさい。」「何故です!?」
静かにっと松本は鼻先に人差し指を置いた。
「空軍は、影でとんでもない事を企んでいる。君まであの作戦に自ら危険を晒して手を汚すべきでない。」
三上は先ほどまでの穏やかな表情を保つために必死な松本少将を食い入るように見つめた。
「信じられない、それは何なのです?」
松本はゆっくりと口を開いた。
「かちかち山」
聞きなれない、いや言葉自体は知っている。つまり何が言いたいんだ?
「言いづらい事だが、君の父上は」
風向きが突然変わった。街灯は不自然に明滅する。
「これは松本少将殿」
まるで気配を感じなかった。二人の間、すぐそばに立っている。
「お父様…」
三上元帥は脱いだ帽子を右手でゆっくりと胸元に添えて左手は後ろに回していた。
「三上元帥…いつからここに?」「海軍航空隊への勧誘ですかな?」
松本は暫く驚きで動きを止めていたが軍人らしく振舞おうとした。三上元帥の背後に回した左手を一瞥すればすぐさま距離をとる。元帥は勘づくと左の手を見せびらかした。その手をぱっと開くと二人の思惑とは別に何もなかったので、当てつけるように三上元帥は余裕の表情で彼に見せた。
「そう言えば、あなたは水雷屋でしたな。そこまでの権限はあなたには無い筈だ。」
「そんなつもりは端から無い。他愛の無い世間話をしていただけだ。日本三軍の和睦、この会合はそういう意図があるのだろう。」
「おっしゃる通りです少将。さあ私とも打ち解けましょう。」
「三上中尉、ヤツは危険だ!ここから離れろ!」松本はさっきまでの優しい老人のような声色を忘れ、まるで別人のように叫んだ。
「物騒ですね。別に悪さはしない。照彦もここにいなさい。」三上はその場に釘付けとなった。
「帝国海軍の御仁はいつも不思議と私を避ける。なにか疚しい事でもあるのやら?」
「違う、それは君自身の過去の行いを鑑みての事だ。」
「はて?私は今まで報国の精神に基づき行動してきた。それに何かご不満が?」「それにしてもあまりに秘匿主義だと言っている!」「ほう、この期におよんで海軍の情報戦の弱さを棚に上げるのですかな?」
「やはりか…」松本はひとりごちる。
「次期大型戦艦の情報を他国へ漏洩させたのは、貴様たちだな?」
それを聞いた元帥は顎をくいっと上げる。
「ありましたねえそんな事。軍縮条約が終わった途端に何をするかと思えば、確か、名前はこのホテルと同じだったか?どちらにせよこの先ああいった巨大な戦艦に裂く予算と資源は無い。そもそもあんな物を作って何処で何と戦わせるつもりなのやら。建造の打ち切りも国とすれば怪我の功名だ。」
「あくまで白を切る、か。それなら、」
「陸海航空技術省の統合反対派の暗殺は、貴様の思惑だろう?」
「それは全くの言いがかりだ。そもそも先の見えない航空技術の発展は民間にも受け継がれるべき一大国家事業であって、それを独占しようとあなたたちが躍起になって反対していたのは事実だ。そういう面子ばかり気にしている所が、若手将校の気に障ってクーデターが起きた。これは只のきっかけに過ぎない。」
「そのクーデターは貴様が嗾けたと専ら軍部では噂だ。」
「あなた方は分かりやすい立場にいる私に嫌疑を向けるばかりでまるで周りが見えていない。尋問した将校は、私やその周りの組織の話をしましたかな?」
……返す言葉を松本は探すばかりだった。
「松本さん。今私たちが内部分裂している場合では無いでしょう?はっきりと言わせてもらうが今の日本海軍ほど目の当てられない組織は無い。官僚主義を通り越した派閥優先の人事、身の程知らずな仮想敵の設定、そんな体たらくだから国家の信用を欠如し、我々の監視から免れない。そういえば我々の研究開発した無線機とレーダーは使って頂けたか?そうだった、あなた方は目隠しで戦うおつもりだった。」
「父上、もういいでしょう。なおさら反感を買ってしまいます。」
海軍の内情についてはある程度三上も知っていた。高級将校達は意見が二転三転し、失敗があっても事実の隠蔽を図る、当然責任はとらない。その点は功を焦り暴走する陸軍よりも重症だそうだ。しかし三上には今話した松本はそれらと違って見えた。
「いいや三上中尉、それに関しては事実だよ。」しかし松本から出たのは驚きの言葉だった。
「現状海軍という組織は真っ当に軍を運営できるような立場の人間が居ない。陸軍と違って日露戦争以降何十年もまともな戦争をしていないんだ。その間に技術は飛躍的に進化しているにも関わらず適応出来ていない事は愚か、武士の精神だのと持てはやしてそれらを避けている。」
君らから見れば愚かに見えるだろうね。そう松本はつぶやくとこう言った。
「今必要なのは明治維新の時と同じく、世界を見てきた若い活力なんだ。」
彼の力ない言葉は新京の街に小さく消えていった。三上元帥はそれ以上言葉を発する事はないと、今度は分かりやすく靴音を立てて屋上を去ろうとする。すると出口側から一人の空軍将校が息を切らして駆けてきて、そして叫んだ。
「元帥閣下、重大事件です!今すぐ大ホールに集まって下さい!」
「海軍将校が一人、ロシア人に人質にされました!」
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「これでこの会合の人数は全て揃ったか!?今すぐ国境の日本兵士を撤兵、そして満州国は日本撤退!要求はコレだ!」
大ホールに向かった三上だったがそこで見た光景は一人のロシア人の青年が海軍将校の首に鋭利なナイフを突きつけ血気迫った表情を浮かべながら周囲を一瞥していた。人質にされた将校といえば顔を真っ赤にして、太った動き辛そうな体を強張らせ、首に巻き付いた犯人の腕と刃物に視線を交互に飛ばす。どうやらロシア人はこの施設の給仕の制服を着た従業員のようだった。
「三上さん!やっと戻ってきた!今一大事で、」「そこ!しずかしろ!」
比角は三上が戻て来ると分かれば騒がしく三上に駆け寄った。おかげで目立ってしまい人質犯は二人を睨みつける。
「状況は…言わなくても大体わかった。」「はい、見ての通り大変です。」二人は小声で話しあう。
「あんな奴、給仕にいたか?」「はい、私はずっとここに居たので確かに料理を運んできました。」「きっとここで働いて長いだろう。」「ええ、ロシア人にしては日本語が達者だ。つまりこの土地にも仕事にも馴染んでいる筈です。みんな満腹になり酔いが回ってきた、それを見越して行動に出たのでしょう。」
ロシア人は怒った。
「何をコソコソ話している!」
三上はそう言われると一歩前に出た。比角は驚いて止めに入るが振り切った。
「一言言うとな、彼の目に敵意はないよ。」「どこ見たらそんな事が言えるんですか!?」
三上は何かの使命感に駆られるように一歩、また一歩と歩き始めた。
「出身はどこだ?」顔を強張らせるロシア人に言葉をかけた。
「どこで生まれた?名前はなんだ?」
また一歩、また一歩と近づけば人質犯は事さらにナイフの先端を将校の首に押し当てた。周囲の聴衆は三上にやめろだの犯人を刺激するなと言ったが誰も恐れからか力尽くで三上を止めに入らないのでどんどんと二人の距離が縮まる。
「やめろ!殺されたらどうする!」ついには人質も情けない気の抜けた声で叫ぶ。
「なぜこのような行動に出た?いや、いったいあなたに何があったんだ?一つだけ私に分かる事がある。あなたは本当はこんな事はしたくない。違うか?」
「ちかよるな。父と、息子がソビエトにつかまって、収容された!こうしなければ誰も助からない。こうしろと言われた。」
ロシア人の男はついに人質に突き立てていた刃物を三上に向けた。
「なるほど、奴らはなりふり構わず、相変わらず野蛮だな。」三上はこれ以上もなく近づくとなんと突き付けられた刃物を掌で握った。鮮血が滴る腕、なおも力が入る拳。これには人質も犯人も、はたまた周囲の人間さえ驚愕する。
「安心して欲しい。我々があなた方家族の安全を確保しよう。」三上の言葉にロシア人の給仕はついに力なく刃物を手放した。
「奴らの行動は理解の範疇に収まらない。国家思想の為なら同族でさえこの扱いだ。そんな国に大儀なんて無い!」
「ここにいらっしゃる方々はどうかこのロシア人の事を大目にみてやって頂きたい。彼はこの満州国で平穏に過ごしていた一市民にすぎない。彼をこのような行動に搔き立てたのは他でもない。私たちが今戦っている国家、そしてその悍ましい思想にあるではないですか!」
人質犯は人質と一緒に力なく地面に崩れ落ちた。人質だった海軍将校というと恐怖で這ってその場から離れたと思ったら、暫くして頭に血が上ると軍刀を抜いて憎き人質犯に切りかかる。「おのれ武人に恥をかかせおって!」三上は切りかかろうとするその男の腕を傷がついていない左腕で易々と受け止めた。まるで戦ったことのない事を象徴するようなその鈍らな太刀筋はあっさり三上の片腕に収まってしまった。
「敵意もない、丸腰の彼に襲い掛かるのですか。囚われていた時は何もできなかったあなたが!」将校は爆発寸前といった表情で煮えたぎるようにぶつくさと無礼だ、許せぬ、とつぶやいた。そして三上は血の付いた方の腕を腰を落としたロシア人の男に差し出す。
「驚かせてすまなかった。兵士でもないあなたが家族の為に武器をとり、なおかつ戦うに至った決意を敬おう。」
ロシア人の給仕は恐る恐る三上の差し伸べる血の腕に手を伸ばした。三上を頼りに力無く立ち上がると周囲からは少しずつ拍手の音が聞こえたと思えばその歓声は大きな波となった。
「なるほど、出来のいいショーだ。」一人の昔から聞きなれた声がどこかその拍手の嵐に紛れていた気がする。その落ち着き払った場違いな声はやがて拍手の中で響いた。
「陸軍および海、空軍の各意にご報告があります。」拍手は止んだ。
「ウラジオストク空軍基地のソビエト軍将校、ゲオルグ、トロヤノフスキー中佐はじめその側近が先の戦闘の動乱に紛れ越境、我々日本政府に亡命を求めています。」
夢見心地な劇場と化した会場は突如現実に戻された。その声の主は他でもない、陸軍のスパイである椎名の物だ。
「椎名!遅いぞ!」緑色の軍服を着た陸軍の将校が言うと背広を着た椎名は敬礼ではなく頭を無言で下げた。するとおもむろに会場の扉が開き、ぞろぞろと憲兵の腕章をつけた軍人が入ってきた。彼らの後にはお縄にかかった人種も年齢も性別も様々な人間が連れられていた。
誰にだって分かる。コレは会場内にいる反乱を企てようとする将校への見せしめだ。
「彼らが新京内のスパイです。」
椎名はそう言うと三上の方へ足を進める。「新京は満州随一のスパイの潜伏先です。そしてトロヤノフスキー中佐の亡命を察知したソビエト側は功を焦りました。戦時の情報系統の混乱の中、現地スパイの判断で作戦を決行したことによりこのように人質作戦は失敗に終わり、たった今!日本軍将校に対するソビエトが企てたテロ未遂という事実だけが残ったのです。」
椎名は三上の隣に立つとお久ぶりですと軽く一言。そして包帯を手渡した。
「貴様、ここに集った将校を餌にしたのか?」
いや、それ以前からずっと我々を釣り餌にしていたのであろう。
この過剰なまでの電車の長旅も、恐らくは。
椎名は不満げな表情の三上と背中合わせになると呟く。
「さあ、始まりますよ三上中尉殿。」
椎名と背中合わせになった三上、二つの陰陽を戦争の当事者となり軍人としての気質を取り戻した各軍の将校が取り囲んだ。
「奴らを叩け!勝機はいまだ!」「我々の仇となるなら容赦はするな!」
「ウラジオストクを我が物に!」
皇国万歳!万歳!万歳!
口々に出てくる言葉は勇ましいものばかり、その中でだれよりも落ち着く椎名は三上の後ろ姿に呟く。
「ほら、戦が好きなのでしょう?」
「さぁ、次はあなたが先頭に立つ刻です。」
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