A drop falls
やまだまや
A drop falls
「あー、やっぱりか」
土曜深夜1時、ふたりきりのコンビニのバックヤード。俺の返答に対し、その女性は予想外にも爽やかに笑った。
「えと……嘘……じゃ、ないもんね?」
休憩用の丸椅子に座り、俺を上目遣いで捉えて困ったようにはにかむ女性──吹田雫──は、俺のバイト先の先輩。3歳年上の24歳で専門学校生、身長は170センチ。白いTシャツの上に黒いトラックジャケットを羽織り、ショートカットに切れ長の目。その整った顔立ちとスタイルの良さから、外野には「近寄りがたい美人」のような評価を下されがちな彼女だが、その実親しくなると世話焼きな性格でよく笑う。このコンビニの夜勤バイトを始めた当初は、その朗らかな性格と笑顔によく助けられた。
「嘘じゃないです……ってか雫先輩に嘘ついたことないですよ」
俺のおぼつかない弁解。
「あは、それはどうかなあ」
先輩は困ったように笑う。
「えと、確認するけど……私のこと、嫌いなわけじゃないんだもんね?」
不安げに問われる。
「まさか。嫌いなわけないです」
「ふぅん……ふふっ。けど、ダメなんだ」
そう。けど、ダメだった。
数分前、俺は雫先輩の告白をきっぱりと断ってしまった。「好きです」「付き合ってください」という先輩の純粋な思いを、「他に好きな人がいる」という個人的な理由で。
「すみません」
2度目。くどいようだが謝るしかない。
「いーよいーよ、全然。なんか薄々気がついてたし」
デスクに頬杖を付き、顔の前で手をひらひらさせる先輩。不安そうな様子はとっくに消えている。
「ねぇ……好きなのさ、日勤の横田ちゃんでしょ?」
「え」
この流れで出てくるはずがないと思っていた同い年の同僚の名前を耳にし、流石に面食らう。先輩はさらりと俺が気になっている相手を言い当てた。
「えと、誰かから聞きました……?」
「ふふん。そーゆーのって見てればわかるもんよ~? しかもなんか最近仲良いじゃん? 男はやっぱ背ぇ低い女が好みか!」
唖然としている俺を眺め、先輩の顔は清々しいほどの笑顔だった。いつもの、屈託のない笑顔。
「ん、そう言えばもう上がり?」
ワンテンポ置いて、話題がさらりと流される。
「あ、えと、はい」
虚を突かれた俺の情けない返答。
「そ。んじゃー、お疲れ様あ」
そっけなく返される。先に荷物をまとめていたのか、彼女は立ちすくむ俺の隣を過ぎていった。ばん、とバックヤードの扉が開いた音が響き、すぐ静かになる。いつもなら先輩は店の外でタバコを吸いがてら待ってくれている。店外を写す監視カメラ用のモニターには今は何も映っていない。既に帰ってしまったようだ。
一人残された、という感覚が強く残る。一連の会話は軽い雰囲気で終わってしまったが、先輩のあの告白は明らかに本気だった。見たことのないような真剣な顔。聴いたことのないような声と言葉。「他に好きな人がいる」、なんて断った理由の薄さに今更罪悪感が強く湧いてくる。異性からの告白を断る時の定型文のような言葉。断られる方も納得しやすい。ただ、本心ではなかった。「先輩には俺なんかよりもっと良い人がいる」。その言葉を言えなかった。
きいとバックヤードの扉が開いた音がして我に帰る。
「お疲れー」
中年女性の声。パートリーダーの白鳥さんが消毒液で濡れた手を揉みながらバックヤードに入ってくる。
「お疲れっす」
忘れていたタイムカードを打ちつつ、生返事を返す。
「あ、ちょっとちょっと。雫ちゃんになんか言った?」
「……なんでですか?」
思わず聞き返してしまう。心当たりは大いにある。
「あの子様子おかしかったよ? 口調はいつも通りだったけどさ、雫ちゃん泣いてたし」
「え」
心臓が跳ねた。
「ひどいこと言ってないよね? 問題になったらやだよ? 私」
何も言えない。
「……ほら! 謝るなら謝っときな! そーゆーのって死ぬほど後悔すんだから! おばちゃん知ってるよ!」
しっしっと俺を追い払う白鳥さん。俺と雫先輩の間に何かがあったことは既に察しているのか。
「すみません、先失礼します!」
急いで荷物をまとめコンビニの外に出る。等間隔にならぶ街灯が青白く照らす大通り。目に見える範囲に彼女はもういない。心から謝りたい。軽い雰囲気で覆い隠した彼女の本心を聞きたい。二人で帰っていたいつもの帰り道に沿って全力で走る。4月初め。初春、と言ってもいいが夜は風が冷たい。
俺も先輩も帰宅するには飲屋街を必ず通らなければならない。いつもと同じ道を歩いているならすぐに見つかるはずだ。2分ほど走り、人影もまばらになった飲屋街に入る。流石にそろそろ追いつくはず、とペースを緩めようとした瞬間、居酒屋に挟まれた雑居ビルへ入っていこうとしている先輩を見つける。
「雫先輩!」
大声で呼びかける。こちらに気がついた。目を丸くし不思議そうにこちらを見つめる雫先輩に急いで駆け寄る。驚いているであろう隙に頭を下げる。
「雫先輩、白鳥さんに……」
……二の句が継げない。「泣いてたって聞いてもう一度謝りたくて」? 自分が楽になりたいがための偽善なのではないか、と心のどこかで思った。頭を下げたまま硬直してしまう。
「いいよいいよ! もー! ほらほら、頭あげなって」
頭上から雫先輩の明るい声。
「いや流石にさ、ちょっとクるもんはあったけどさ、もう諦めたから」
階段の途中に立つ先輩を見上げる形になる。笑顔の雫先輩の目尻には涙の乾いた跡が見える。
「逆にさ、ごめんね? いっつも一緒に帰ってたのに」
「歩きながらちょっと後悔してたけどさ、あはは。まさか追ってきてくれるなんて」
「めっちゃ息上がってんね……ふふ、疲れた?」
乾いた喉に唾を送り込みつつ深く頷く。
「あはは」
「んじゃ私をフった罰はそれでいいかな」
雫先輩の柔和な笑顔を見上げ、少し安心した。
いつだったか”諦めるための告白”というものが存在すると聞いたことがある。「フられて逆にせいせいした」とか、「これで新しい恋に進める」とか、まるで清算のようなもの。そのために、残酷だが思いを寄せる相手にフられなければならない、と。さっきのは彼女の「清算」だったのだろうか。
「ありがとう……ございます」
正しいのかわからない感謝の言葉が口をつく。
「気にしなくていいよ、もう終わったことだしね」
からからと笑う先輩。また、気を使わせてしまったのか。
息を整え、気まずい空気になる前に気になっていた疑問を投げる。
「あ、そういえば、このビルになんか用あるんすか?」
見上げる。どの階にもテナントが入っていない七階建てのビル。築年数が相当経っているのかコンクリートは全体的に黒ずみ、ところどころ不安になるようなヒビが入っている。幽霊が出るとか、浮浪者が溜まっているとか、そんな噂話がたっていてもおかしくないような外観。酔っ払いでさえ気味が悪いと思うのだろう、飲み屋街にどれだけ人が賑わっていてもこのビル周辺だけはいつも静かだ。
「あれ? 言ってなかったっけ」
先輩に目線を戻す。きょとん、と首を傾げながら笑みを浮かべている。
「死ぬの、私」
「飛び降りて」
「君に振られたら死のうと思ってたから」
曖昧な笑みでそんなことを宣う先輩に思わず失笑してしまう。先輩は重い雰囲気の気配を察知するとおどけて場を明るくしようとするきらいがある。発注をし忘れるだとか、ウィスキーの酒瓶を落として割ったりだとか、俺がそんなミスをするたび、こんな感じに笑いに変えようとしてくれたことを思い出す。今回もそう。まぁ、本音を言ってしまうと、彼女を泣かせるほどひどくフってしまった俺は、この冗談にどう突っ込むのが正解なのかわからないのだが。
「いやいや、笑えないっすよ」
マジで、と念押しで付け足す。冗談にノって「やめてくださいよ!トラウマになっちゃいますから笑」なんてつまらないツッコミを入れるべきなのだろうか。
「あー……いや、はは」
雫先輩の歯切れの悪そうな顔。
「そうだよね、ごめん」
「んじゃ」
笑えないと評された自身の冗談を詫びつつ、前を向き直し次の段に足をかける先輩。予想と違う反応に戸惑う。もっとコミカルに返されるものだと思っていた。拍子抜け、というより、歯切れが良すぎるような気がする。何かを隠し、急いでいる人特有のコミュニケーションの滑らかさを感じる。おかしい。失恋後の女性の心理なんて俺には到底理解できようもないが。
先輩がもう一段階段を上がる。先輩、本当は? 何故か声が出ない。唾を飲み込む。心がざわざわする。埃っぽい階段を、もう一段踏みしめる先輩の足元を見つめる。俺にフラれたくらいで自殺? 飛び降り? ここから? ……なわけないだろ。あり得ない。現実味がない妄想をしてしまう自分に嫌気がさす。先輩は俺の笑いのツボを押さえられなかった。だけ。
どの階にも、階段にすら灯がついていない雑居ビルを一段、二段と登っていく先輩。すらっとした長身がビルの暗闇に飲み込まれはじめる。先輩が斜め上に離れていく。闇に溶け込んでいく。何故か焦りを感じる。何かがおかしい。ずっと言葉にできない違和感がある。
「ちょっと待ってくださいよ」
切羽詰まった声が出て自分でも驚く。もうちょっと話してもいいだろ。別に、その"冗談"を信じているわけではない。それに、ほら、別に引き止めるのはおかしいことじゃない。いつもみたいに、eスポーツの大会の話とかしましょうよ。あのゲーム、競技熱いですよね、なんて。
焦る俺を焦らすようにゆっくりと振り返る雫先輩。顔面がすっぽりビルの影に飲み込まれて笑っているか泣いているかすらわからない。
「何?」
聞いたこともないような冷たい声。気圧されて言葉に詰まる。少し後悔する。先輩はただ急いでいるだけなのかもしれない。だとしても何を。
「あ、いや……まだ話したいな、と、おも、い、まして」
言葉を絞り出す。階段の数段上から、見下されていることだけ分かる。怒っている? 心臓がギュッと縮み上がる。俺のしどろもどろな言葉を聞いても先輩は何も喋らない。CRカップのメンバー見ました? なんて言えない。言えるわけない。この話題ではない。明らかに。数秒の長い沈黙。先輩からしたら、俺は今どんな顔に見えているのだろうか。焦りとか、不安とか、そういう感情は読み取られてはいけない。何故か確信している。
「本当はこのビルに何の用があるんですか」
慎重に言葉を選んでそう投げかける。このビルで何をするかについて、俺はまだ答えをもらっていない。不法侵入ならともかく、止めなければならない類の犯罪の可能性もあるだろう。いや、じゃなかったとしても、危ない。女性一人でこんなところに。
意識して真剣に、その場しのぎの冗談が欲しいわけじゃないことが伝わるよう、先輩の顔がある位置の暗闇を見つめる。
「いや、言ってもわかんないでしょ?」
半笑いの声色で突き放された。体がぞくっと冷える。先輩は俺に理解されようと思っていない。心がざわつく。動悸が早まる。本当に? 認めたくないが、さっきの冗談を冗談だと思えなくなってきている自分がいる。決して「わかりますから言ってくださいよ」なんて軽い言葉を言ってしまってはいけない。気がする。
「本当なんですか」
ここで黙るのはまずい。静寂に耐えかねて言葉を発する。「自殺」が本当かどうか。くだらないと笑い飛ばせるべき冗談を笑い飛ばせないこの状況を改めて突きつけられ、胃が締め付けられるように痛む。
「何が」
「え、いや」
聞き返されるとは思っていなかった。なにがって、自殺がですよ。なんて言えず固まってしまう。
「ふふ、信じられない? 私がこれから自殺するって」
「信じなくてもいいよ、別に」
先輩は影の中で笑っている。爽やかに。トン、と壁に右肩を預けた先輩の切れ長の目が、街灯を反射して光る。初めて目だけは笑っていないと分かる。本当に信じてくれなくてもいい、そう思っている目。
こんな雰囲気の先輩は初めてだった。こめかみから汗が冷えて流れ落ちる感覚がわかる。先輩は本気だ。先輩は飛び降りるためにこのビルを登るんだ。そう思わせる気迫がある。喉が渇く。
俺を見下す先輩の目から目線を外せなくなる。五月蝿い子供を見るような冷たい眼光。早く行かせてくれよ。そう言いたげなダルさを感じる。そんな目で見られたことなんて今まで一度もなかった。どの返答が正解なのかわからず黙ってしまう。唾を飲み込むと乾いた喉が少しマシになる。
数秒見つめ合い、不意に先輩が顔を柔らかく綻ばせた。
「あは」
「やっぱ本気で死のうとしてる人ってわかるもんなの?」
ああ、分かるものらしい。信じられないが。
「……もし本気なら、やめてほしいです」
「やめてほしい?」
「はい」
「えっと、ふふ、何を?」
思わず唾を飲み込む。聞かなくてもわかることをこの人は。
「え……と、自殺するのを、です。何か嫌なことがあったのなら、その、話は聞きますし……その、俺が悪いんだったとしたら……いや、俺が、その、悪いことは俺も、わ、わかってるんですけど……」
先輩の気持ちに寄り添う言葉をかけるはずが、どこか弁明に似てしまう。唾液がねばつく音で「にや」と先輩の口角が釣り上がったのがわかる。
「あはは! いやいやいやいや!」
「あー、ちが、違う違う! そういうんじゃないのよ!」
大きい笑い声と楽しそうな否定。先輩は何を訂正する気なのだろうか。俺は何を問違っているのだろうか。いまだ愉快そうに笑う先輩の様子に、心の中では俺の勘違いを期待してしまう。あ、なーんだ。「死ぬ」の認識に齟齬があったんですね、みたいな。私たちアンジャッシュじゃん笑、みたいな。
「あー……くく……いや」
「別に君に同情して欲しくてこんなことやってるわけじゃないっていうかさ」
「別に、その、私が鬱だから、とかじゃないよ? ああいや、病院行けば、そうですって確定しちゃうかもだけど」
「なんだろ、感覚としては『捨てゲー』、だよ」
「だってバッドエンド確ってるルート進める必要ないでしょ?」
「ねえ?」
笑顔で同意を求められる。固まってしまう。何の話をしようとしているかわからない。
「あーいや、あー、飛び降りよ。飛び降りが、さ」
話について行けていない俺に少し気恥ずかしそうに話を遡ってくれる先輩。腹がズンと重くなる感覚。
「ま、そんな感じ。ふふ」
飛び降りは言ってしまえば捨てゲー、そんな感じ。先輩の発言を掻い摘むとこんな感じだろうか。言葉の軽さとは裏腹に受け流せない重さがある。百歩譲ってゲームだったら大いに同意できる。というか、自分もそうしたことがある。気に食わないことがあったら電源ボタンを長押し。理論値引くまでリセット。だが──聞き飽きたような言葉ではあるが──人生はゲームではない。
「バッドエンド確定かどうかなんて……そんなの最後までわからないじゃないですか」
思ったことをそのまま口に出す。思ったより大きな声。まだ俺も先輩も人生の半分も生きていない。結末を決めるにはいささか早すぎる。と心から思う。
「わかるよ」
「私は」
卑屈にニヤついた口元を隠しもせず呟く先輩。
「良いこと、ほんとになかったもん、今まで。一個もね? ほんとだよ?」
「ほんとずーっと我慢してきた」
「良い家族仲も楽しい学校も」
「行きたい大学も就きたい職業も」
「趣味も娯楽も」
「何もかも諦めてきたの」
「今から何かを諦めずに追うには今まで諦めすぎてきちゃったの」
「もう、私には何も残ってないの」
「んじゃ私、この先もいいことないの確定じゃんって、思ってさ」
「最後にさ、君と……あー、えーと」
「……面と向かって言うと恥ずかしいけどさ」
はは、と乾いたように笑う声が聞こえる。
「君と付き合えたら、全然プラスだなって」
「今までの私の不幸、不運、全部何もかも君と一緒になるための乱数調整だったんだって」
「君とこれから幸せになれるのなら、今までの人生全部肯定できるなって」
「ね」
「けど」
「これでダメだったらもう、私の人生、失敗だ。望みなんてないから死のうって思ってさ」
「告白したの、さっき」
「好きですって」
「付き合ってくれないと私は死んじゃいます、って心で念じながら」
そんなのわかるわけない。
「でもダメらしい」
「私の大好きな男の子は私が死んでもいいらしいの」
「ほーんと、ひどいよね? ふふ」
首を傾げ、ねえ? なんて共感を求められても返す言葉なんてあるわけがない。何を求められているかわからない。「先輩は本当に死にたいわけがない」と仮定して説得をつづけるしかないのか。だが、なんて言葉を掛けるべきなんだ。頭が回らない。「生きてたらいいことありますって」「なら今からでも付き合いましょうか」、みたいな浅はかで残酷な言葉しか思いつかない自分が嫌になる。そんなの最悪手だろ。先輩は俺を見つめて、俺の言葉を待っている。どうにか言葉を絞り出さないと。
「……どうしたら」
「ふっ、『自殺をやめてくれますか?』でしょ」
俺が絞り出した言葉を雫先輩に乗っ取られる。俺は先輩の予想通りの切り出し方をしたのだろう。
「ははーん」
顎に人差し指を当てコミカルに訝しむ先輩。
「俺が何をどう言っても自殺をやめてくれそうにないよお、なんて思ったのかな」
「あー、んじゃあ、私が何を求めているかわかってないんだぁ?」
「そんなんじゃ男子として失格じゃないかな? 察せない男は嫌われるよ?」
的確なアドバイス。参考になる。先輩は一体何を求めているんですか。求めるものを差し出せば先輩は自棄にならずに済むんですか。教えてくださいよ。
「言っちゃえばさ、私が欲しかったのは君からの『良い返事』だったんだけど」
「今は一番いらない」
「だって嘘だもん、それ」
「君も、わかるでしょ」
「ふふ、『一瞬でも言おうと思っちゃった』って顔? それ」
「……違います」
これはどちらかといえば「だよね」って顔。言わなくてよかった。
「はっ」
鼻で笑われた。先輩の「どうだか」と言いたげな顔。
「けどさ」
「私、もう欲しいものなんてないの」
「いらないの、全部」
「君に拒否されちゃったから、私の欲しいものなんて全部なくなった」
「わかる?」
「君が、私にバッドエンドルートを引かせた後の行動も全部」
「全部いらない」
「欲しくない」
「私は、今も、これからも、君には何も求めてないし、求めることはない」
言葉を挟めない。“偽善”。俺が懸念した通りだったのか? 雫先輩は一拍置いて言葉を重ねてくる。
「ねぇ」
「私の自殺をここまで引き止める理由ってさ」
「罪悪感を感じたくないからでしょ?」
「は、ちょ、それは違い、ますよ」
先輩の独壇場にようやく口を挟む。そんなわけない。先輩とはこれからも仲良くしたい。死んでほしくない。本当に。フってしまった身ではあるが、先輩には今まで借りしかない。
「他に好きな人がいるからとかいう自分勝手な理由で先輩をフってさ、その先輩が100%自分のフったせいで自殺しちゃったらさ」
「いくらその先輩が君にとってしょうもない人だったとしてもさ」
「ふふ、……気分、最悪だもんね」
雫先輩は構わず続ける。
「けどさあ!」
「けど、……私にとってはさ、君に受け入れられなかった時点で、『私』は死んだも同然だったんだよ」
「君に受け入れられない私なんて」
「私にとっても価値、ないから」
「悔やむならそこを、私を振ったところから悔やんで欲しい」
「ふっ、まぁ、別に悔やまなくても良いけどね」
「それも、もー、どーーーでもいい」
「別に次に活かせるもんでもないしねー」
ため息混じりに吐き捨てられる。息が詰まる。誰か助けて欲しい。この女性を誰か。ズボンの中にあるスマホを震える手で探る。警察を。映画とかドラマだったら説得して感動的なシーンになるのがベタな流れだ。現実だとそうもいかないらしい。感動的とまではいかずとも、途中までは「ベタな流れ」がほんの少しちらついてしまった自分が恥ずかしい。
「通報すんの?」
気が付かれた。心臓の音が大きく聞こえる。警察を呼んでも早まられたら終わりだ。
「んー、困るな」
「……初めて通報されるかも! えへへ」
なぜか嬉しそうだ。警察に通報されること自体は嫌がっていない? それならば先輩を横目にスマホをポケットから取り出し操作する。……“電話“はどこだ。なかなか見つからない。LINE通話に慣れているとこういう時困るな。こういう時なんて中々こないもんなんだけど。緊急時用の隠しコマンドみたいなのあったよな。いや思い出すよりアプリを探す方が早い。
「……むしろ通報され慣れてなくてよかったです」
リソースをスマホに取られ余裕がないわりにはユーモアのある返答する。
「ふふ、けどさ」
俺の渾身のユーモアが一笑に付される。
「君が今無理やり呼んだ警察がきてさ、私がパトカーに乗せられて連行されていくとするじゃん」
うんうん。そうであってほしい。
「君は『あーよかった、先輩の命を救えた』なんて思って、その後は自分の人生を至極真っ当に謳歌していく、なんてビジョンが見えてるのかもしれないけど」
あった。電話のアイコン。タップしてキーパッドを開く。110番。
「いつか、死ぬから」
思考と手が止まる。
「寿命で、とかそんなとんちめいた話じゃなくて」
「絶対に自殺する、から」
「君が私をフったから」
「君が私を殺したから」
「私には君しかいなかったのに、君が私を拒否したから」
理解したくない言葉が脳に吸収されていく。呼吸が浅くなる。先輩を見上げる。
「もし」
「もし私がパトカーに連れられて行ってその後、君は私と1回も会うことがなくて」
「君はうっすらと私のことを忘れて行ってさ、そのまま歳をとって、横田ちゃんと結婚して」
「……えーと、子供は何人かな? 何人がいい? 横田ちゃんは何人がいいのかな? 私が聞いておいてあげれば良かったね、ごめんね?」
「ふふ、まぁ、それは関係ないか」
「横田ちゃんと……んー、n人の可愛い子供達に囲まれた幸せな家族の団欒の中で、君は不意に私、吹田雫のことを『あ、そう言えば』って思い出して」
「『あの後、先輩も結局俺のことなんか忘れて、他の男と幸せな家庭築いてるんだろうな』、なんて考えられないように言っておくけど」
「私は、絶対に、死ぬから」
「警察に保護されたとしても、釈放されたあと、すぐ」
「どんな形であれ」
「ね」
「私には君しかいなかったの」
「今も、そうだけど、ふふ」
先輩を見上げていた視線を思わず下げる。先輩の、今から俺のせいで死ぬ人間の顔を直視できない。吹田雫は笑っている。何もかも諦めているから笑えているのだと今さら気がつく。
「あはは、もうないかな? 私を引き留める言葉は」
もう、何も言えない。納得したわけではないし、ましてや俺が先輩の自死を肯定していいわけでもない。ただ、「俺からは」何も反論できない。そう思わされてしまった。いつのまにかスマホを持つ手から力が抜けだらんと下がる。目頭が熱くなる。親や教師に行いを咎められ、叱られた時の感覚を思いだした。俺が悪い。知らなかったとはいえ、取り返しのつかないことをした。
「ごめんなさい」
思わず口をつく。
「あーいいよもうそれ。聞き飽きた」
ダルそうに。先輩は動かない。目線はおそらく俺を見下している。心の中で俺のことを蔑んでいるのだろうか。もう、もう逃げ出したい。今逃げ出したら先輩はどう思うのだろうか。俺に幻滅してはくれないだろうか。
誰かの次の言葉が聞こえるのを待つ無責任な俺の耳に、先輩の息を吸う音が聞こえる。すぅ、ふぅ、と規則正しい鼻呼吸。今から死ぬ人間の。
十数秒の沈黙の後、すぅぅと大きく空気を吸い込む音が聞こえる。
「なーーんて」
「全部嘘なんだけどね!」
「ビビった? うはははは!」
腹を抱えて笑う雫先輩。頭が働かない。何も喋ることができない。状況が理解できず、ボヤけた視界で先輩を見上げる。壁に寄りかかり、苦しそうに笑いを堪える先輩。
「いやーめっちゃ信じてて笑ったわマジで!」
「いやさぁ、なんでこのビルに入ろうとしたかって言うと……え、ちょ」
「……え、泣いてんの?」
眉を顰め、無遠慮に顔を覗き込んでくる先輩。不安、申し訳ない、そんな感情が読み取れる。数分前の冷たさや苛烈さは見当たらない。安心した。全身から力が抜け、しゃがみ込んでしまう。
「……本当に死ぬのかと思いました」
ギリギリ絞り出した言葉は冷静だが、声は上擦っている。恥ずかしいが仕方ない。
「あー、いや、ごめん……なんか途中から……その、引くに引けなくてさ」
伏し目がちに呟く先輩。
「……演技うますぎですって」
冗談じゃない。本当に。
「ごめんって」
「いやー、マジごめん。だって君がおもんないとか言うからさ」
半笑いで言い訳を並べる先輩。だからってここまでやる必要はないだろう。少し先輩を嫌いになった。
「ってか」
「君は私が死んだらそんなに嫌なんだね」
「ごめんね」
考えるように口元を手のひらで覆い、誰に言うでもなく先輩が呟く。
「もう、こういうことやめてください」
語気を強め先輩に釘を刺す。返事はない。目線を落とし無表情で固まっている先輩。俺の言葉が聞こえているのか、何を考えているのかすらわからない。深く思案している。
「そういえば」
突然先輩から目線を合わせられ少し驚く。
「CRカップのメンバー見た?」
また頭が追いつかなかった。そのあと続くのも本当に他愛のない話ばかりだった。どのチームが熱いだの、誰が面白いだの、いつもと同じような話。チケットが取れたら、次のリアイベは一緒に行こうか、なんて笑ってくれた。先輩の情緒は、明らかに安定していなかったような気がした。
そのまま数十分話しこみ、その場はお開きとなった。「じゃ」なんて軽い挨拶の後、雫先輩は雑居ビルの上階へ続く、暗い階段を登って見えなくなった。
深夜2時半。スマホの液晶で確認する。疲れた。話は盛り上がったがその実、気が気ではなかった。
起きるのは正午過ぎかな、なんて考えつつ自宅へ向かう。もう、早く寝たい。いつの間にか着いていた自宅の鍵を開け、私服のままベッドに飛び込む。明日もまた夜勤だ。
────────────────────────────────
結局、寝ついたのは4時ごろだったと思う。ずっと先輩のことが頭から離れず、落ち着いて目を閉じることができなかった。
結局先輩はあのビルに何の用事があったというのか。あの一連の独白は本当に冗談なのか。警察を呼ばれるのが面倒だから冗談ということにしてその場を終わらせたのではないか。いくら考えても答えが出なかった。意味もなくDMの履歴を見返したり、LINEを遡ったりもした。どこかで「起きてる?」なんてLINEが送られてくるのを待っていたところはあった。
いつのまにか寝つき、起きたのは15時。LINEのアイコンにひとつ、通知がついている。寝ぼけつつ、アプリアイコンをタップする。先輩とのトークルームに新着。
「本当にごめんね」
その短い文章を読み終え、思わず立ち上がってしまう。何に対しての謝罪だ。何に対して許されようとしているのか。それは俺のセリフではないのか。君には謝っても謝りきれない、そういうニュアンスを感じる。受信時刻は3時49分。別れてから1時間経った後。俺が寝ついたあたりにちょうど送られてきている。俺と同じように、互いのLINEやらDMやらを見返すとこれくらいの時間になるのだろうか。先輩も同じように、俺からのLINEを待っていたのだろうか。もしくは何かの決心をするのに時間がかかった、とか。
まさか。あの行き過ぎた演技が先輩の脳裏にフラッシュバックしてしまって思わず謝りを入れた、そういうのが結局のオチだ。朝まで起きているといらないことまで考えてしまう。そういうところは俺も先輩も同じなんだ。
"どう言う意味ですか?"
LINEを一つ送り、スマホを枕の横に戻す。買い置きしていたカップラーメンで昼をすます。麺を啜りつつ、"もしも先輩からの告白を受け入れていれば"なんて考えてしまう。
言ってしまえば、バイトを始めた当初、俺は先輩に対して恋愛感情を持っていた。一人暮らしを始め、初めてのコンビニ夜勤という環境で不安な俺に、優しく手を差し伸べてくれる彼女を好きになるのにはそんなに時間はかからなかった、と覚えている。
しかし、俺は彼女に少しでも嫌な印象を持たれたくない、気持ち悪いと思われたくない、その一心で想いを心の奥底に押さえ込んでいた。ここまで完璧である先輩は、俺に不釣り合いだと、俺は他の相手を探すべきだと自分に思い込ませてしまっていた。だから、他に好きな人が居るなんて嘘を──先輩への恋心から逃避するための嘘を──自分自身にも、先輩にも完璧に吐いて。
自身の卑屈さが、俺をここまで増長させ、先輩をあそこまで傷つけることになるとはまるで思っていなかった。反省、なんて出来ない。自分の行いを省みてどうにかなるものではなくなってしまった。
頭の中がまとまらず、惰性で再生した動画にもゲームにも身が入らない。いつのまにか時間が経ち21時の出勤時刻1時間前になる。夕飯はバイトが終わってからでいい。早く先輩に会いたい。干してある制服を畳まずにトートバッグに詰め家を出る。
少し急ぎ足で道を歩く。件の飲み屋街。人は多い。カップルやらサラリーマンの集団やらでうるさいくらいに賑やか。数分歩くと雑居ビルが道の延長線上に見える。近づくだけで少し鳥肌が立ってくる。一丁前にトラウマになっている。駆け足で雑居ビルの前を通り過ぎる。
シフト開始40分前に職場のコンビニに着く。メンバーは昨日と同じで、俺と、雫先輩。あとパートリーダーの白鳥さん。のはずだ。なのにシフト開始5分前になっても2人しか集まっていない。雫先輩がいない。忘れかけていた3時49分の、先輩からのLINEの言葉を頭で反芻する。耳元で大きく鼓動が鳴っている。
「ありゃあ、珍しいな」
白鳥さんが呟く。
「寝坊すかね」
内心の焦りを上手く隠して冷静に喋ることができた。理由なんて知るわけがないのに、白々しく感じる自分の返答。手が震える。
「んー……困るけど、いいよ、もう始めちゃお。土曜だしそんな客来ないでしょ」
その後は、普段通りにバイトが始まった。レジを打っている最中に近隣に住む中年の社員が手伝いに来たりした、くらいしか覚えていない。ずっと先輩のことを考えていた。特に何かが起こるわけでもなく、時間が過ぎていった。嫌な予感、というよりかは考えないようにしていた嫌な予想が頭の中を蝕んでいく。
「結局雫ちゃん来なかったね」
深夜1時。シフト終了時刻になり、バックヤードに向かう俺とすれ違った白鳥さんが心配そうにそう呟く。制服を脱ぎ、トートに突っ込む。返信は来ていない。それどころか既読すらついていない。思わず「何でだよ」と強く呟く。いや、雫先輩はフラれた相手と同じ空間にいたくないだけだ。LINEだってそう。俺に返信する意味がない。ブロックされていてもなんらおかしくはない。そうでしかない。なのに嫌な予感が止まらない。
着替えを済ませ、タイムカードを打ち終える。「ごめんごめん」なんて罰の悪そうな顔で先輩が店内に入って来るのではないか、なんて想像をする。この時間に来られてもシフトは終わっているのだが。先輩はそういうことをするタイプの人間だ。
最悪のケースは雫先輩がこのまま、バイトを辞めることだろうか。これが一番最悪だな。だが、雫先輩なら、俺のことなんか忘れて、どの職場でも、幸せに、ああ、やって、いける。自分に言い聞かせようとした言葉が脳内でどもる。昨日散々先輩に刺された、たくさんの釘が脳内でズキズキと痛む。あれは全部冗談なはずだろう。自殺なんてするわけがない。自分に言い聞かせる。
「お疲れ」
突然後ろから話しかけられる。白鳥さん。タイムカードを打刻するパソコンの前で立ちつくす俺が邪魔だと暗に伝えたがっている。
「大丈夫? 疲れてんの?」
「ああいや、大丈夫です」
大丈夫な様子には見えないだろうことは承知の上でそう返答する。
「疲れたら相談してね」
「悩みとかって人に言うだけ違うんだから」
いつもは身に染みる白鳥さんの気遣いも今は少し鬱陶しい。早く外に出よう。精度の悪いカウンセリングのような話題に「はい、はい」と適当な相槌をしつつトートを肩にかける。
「あ、昨日の早朝、飲屋街の方で飛び降りなんてあったらしいから」
「引っ張られたりとかしないでよ?」
「え?」
視界が狭まる。
「あら、その反応……もしかして聞いてないの?」
「若い女の子らしいよ」
嘘。
「確か君より少し歳上の」
胸を押さえてしまう。心臓が痛い。聞こえる音が遠い。足が震えている。
「え、大丈夫? 知り合いの子だったり?」
答えられない。答えられるわけない。
「ねえ、具合でも悪い?」
うるさい。
「本当に大丈夫?」
大丈夫じゃねーよ。うるさいうるさい。いつの間にか震えた足でコンビニの外に立つ。飛び出してきていた。何も考えたくないのに頭が回っている。誰が。誰が飛び降りを。誰だかわかるだろ、俺は。あー、やっぱりか。ああちがうやっぱりじゃない。どうして。先輩なんでそんなことを。違う。わかってるはずだろ。
「あああ」
しゃがみ込んで頭を抱える。
「俺が殺したんだっけ」
思い出す。「君が私を殺したから」なんて言ってたな。本人に言われちゃ世話ない。俺が殺したんだった。ごめんなさい。謝りたい、けど、あー、そう言えば先輩は聞き飽きたんだっけ。笑ってしまう。俺、何も出来ないじゃねーか。許さないっていうことなのかな。死ぬまで苦しめって言ってるんだろうな。俺に。
「うう」
パーカーの袖が涙で濡れる。だって俺が悪いもんな。俺のことが最後の頼りなのに、類を見ないほどに軽い言葉で突き飛ばされて。そりゃ死にたくもなるよ。
この罪は、言葉とか、行いとかじゃ贖い切れるもんじゃない。だってあんなに、優しくて、人懐っこくて、可愛くて、綺麗で、笑顔が愛しくて、俺のことを死ぬほど想ってくれていた人を殺したわけだ。ああ、先輩に会いたい。会って、先輩が許してくれなくとも謝り続けたい。
うずくまったまま、誰に聞かせるでもなく呻く。そうでもしないと立ち上がれない。涙で視界がぼやけている。電灯の青白い光がぼやけて広がって見える。もう一度、謝りたい。
いつのまにか、足が動いていた。既に飲屋街に入りかけている。何も考えずに歩いていると長いと感じた道のりもすぐだ。歩道がオレンジ色の街灯で照らされている。地面にはタバコの吸い殻や潰れたレモンサワーの缶。そういえば先輩は俺がタバコの煙が嫌いだと知ると加熱式に変えてくれたんだったな。ああ。
再び溢れ出した涙を袖で拭いつつ歩く。俺は罪を償わなければならない。絶対。先輩を惨たらしく殺しておいて、のうのうと生きていける気がしない。
あ。顔を上げる。くすんだコンクリートの7階建て雑居ビル。着いた。てっぺんまで見上げる。あの上から。先輩は。顎を引き足元の硬いコンクリートを見る。ここまで。あの会話の後に。3時49分のLINEの後に。
先輩が着地したであろう地面は綺麗に見える。オレンジの街灯に照らされているためなのか、染み込んでいるはずの血痕が見えない。もしくは綺麗に洗い流されてしまったのか。
昨晩先輩が登って行った階段を見据える。暗い。電気は通っていない。
スマホの頼りないライトを付け、階段を上がる。内部は普遍的なビル、とは言えない作りになっている。なるほど、2階から7階まで駆動するエレベーターがあるのか。もちろん今は動いていないようだが。各階フロアは階段室を中央に2部屋に区切られている。螺旋のように上に続く階段を踏み締め1階ずつ確認していく。どこから先輩は飛び降りたのか。死にきれないであろう2、3階は飛ばし、4階。どちらの部屋も開かない。5階。どちらの部屋も開かない。6階。どちらの部屋も開かない。階段を登り続けて少し息が切れる。7階。最上階。上がって右の部屋、ドアは取り外されている。
少し安心した。部屋に足を踏み入れる。静かな広い、薄い絨毯が張られた部屋。オフィスが入る予定だったのだろう。埃っぽさの中に油粘土のような匂いがする。内装がないために建材の匂いが漂っているのか。右手の窓からコンクリートの床に白く月光が差し込んでいる。
「ここから」
その窓に近づく。月光に何かが照らされている。ああ、靴だ。ニューバランス。クリーム色。可愛いやつ。先輩のお気に入り。窓際に、外に向かって綺麗に揃えられている。俺が褒めたら嬉しそうだった。安物だから、なんて恥ずかしがっていた。似合ってれば安くても良いんですよ、先輩。梅雨の前に防水スプレー買おうかな、とか言ってたけど買ってたのかな。結局貸しますかって言えなかったな。先輩だって金ないって言ってたのに。さらに近づく。窓際。2、3個吸い殻が落ちている。加熱式。薄く口紅がついている。最後くらい紙巻のタバコ吸ってくださいよ。誰に気を使ってるんですか。
冷たい風が顔にあたり、いつのまにか流れた涙の跡が冷える。窓が開いたままであることに気がつく。窓枠を掴み下を覗く。高い。7階分の高さ。飛び降りた先輩と目が合う想像をする。先輩の綺麗な、長い手足があらゆる方向に折れ曲がる。血まみれに潰れた頭。顔は呆れたように笑っているだろうな。
窓枠に片足を乗せる。俺が受け入れていれば先輩は。その罪を償うなら"これ"しかない。贖罪はできなくとも、せめて、先輩が感じた最後の苦しみを。
ふと手が震えていることに気がつく。恐怖というよりかは興奮の方なのかもしれない。もう一度下を覗く。あれ、行ける気がしてたけど意外と怖いな。まぁけど行けなくもない、のかも。出来るかどうかって案外踏み出してみないとわからない。窓枠を両手でがっちり掴み、両足で窓枠に乗り上げる。アルミのサッシが俺のスニーカーの底を押し上げている感覚がする。あ、怖いかも。風が顔に当たって冷たい。下は見れない。
「なんのために?」
背後から女性の声。驚き両手を一瞬離してしまう。思わずサッシからフロアへ転げ落ちる。誰だ。おかしいおかしい。誰もいなかったはずなのに。心臓がどくどくと音を立てている。誰がいるんだ。幽霊? 誰の。いや幻聴だ。地べたに座り込んだまま背を壁に預け振り返る。暗くてよく見えない。
「なんのためにここにいるの?」
ああ。やはり幻聴だ。この声は先輩の声に似ている。誰もいないことを確認するためにスマホのライトで奥の暗闇を照らす。さっきまで暗闇に覆われていた空間に、青いデニムと黒いソックスに包まれた下半身が存在していることがわかる。心臓が跳ねる。幻視まで? ライトの角度を変える。黒いトラックジャケットと白いインナーが照らされる。強張った手からスマホが滑り落ちて音を立てる。先輩だ。違う。これは幻。これは夢だ。なのに怖い。何をされるのか。体が動かない。
「ねぇ、なんで、ここに来たの」
冷たい声色で、繰り返される問い。声が近づいてくる。足音はしない。幻覚だから。幽霊だからじゃない。幻覚なんだ。なのに怖くて見上げられない。先輩は明らかに俺に怒っている。ごめんなさい。許してください。
「なんでって」
耐えきれず、俯いたまま答えてしまう。
「先輩に許してもらいたくても許してもらえなくて」
大声で。もう死んだ人間に対して言い訳なんて、なんの足しにもならないことはわかっている。
「でも、でも、先輩は死んじゃったから」
「そうだね。死んじゃったね」
「許してもらうには、死ぬしかないって思って」
「ふふ、確かに死ぬしかないかも」
愉悦を含んだ声で返される。
「…でもさ、私」
俯く俺の目の前に差し込む月の光に、彼女の紺色のソックスが照らされる。近い。
「許してあげたいなあ……って」
とろけるように甘い声。さっきよりも声が近い。驚き目線を上げる。俺の目の前にしゃがみ込んでいる、死んだ雫先輩。柔らかく微笑む顔。血色がいい。
「ふふ。何その顔」
慈しむような笑顔。左頬に先輩の手が添えられる。細い指。柔らかい手のひら。暖かい。頬の肉を「むに」とつままれる。
「許してあげるよ、私」
「だって、君は私に許して欲しいんだもんね」
「自分の罪に気がついて、苦しくて、苦しくて、どうにかして罪を償いたいって」
「そう思ってここまで来てくれたんだよね」
涙の跡を人差し指でなぞられる。甘く優しいその声に頷いてしまう。
「ごめんなさい」
厚かましいとわかりつつも口走ってしまう。許してほしい。
「ふふ」
投げ出した俺の足にぺたんと座り込まれ、真正面から抱擁される。暖かい。柑橘系のいい匂い。顔に時折当たる髪の毛がくすぐったい。俺の耳元に先輩の唇が近付く。
「うん。気の済むまで言っていいよ」
「全部聞いてあげる」
しなだれかかられる。胸板に柔らかく先輩の重みを感じる。熱く湿った吐息が耳にかかり、先輩の頰と自分の頬がしゅり、と擦れる。凹凸ひとつなく柔らかく、暖かい。
「どこまでも許してあげるから」
「私と死ぬことが贖罪になるって思ってるのなら、一緒に死のう」
「私と生きることが私への償いなんだと思うんだったら、一緒に生きていこう」
「ね」
「ほら、どっちにするの」
先輩が抱擁を緩め、俺の正面に戻る。先輩の息が熱く首元に当たる。
「私は好き」
「君のこと」
「大好き」
「今でも」
「知ってるよね」
「ねぇ」
「君は私のこと好き?」
「私に一生付き合ってくれる?」
2度目の質問。コンティニュー。選択肢は間違えられない。間違える余地がない。答えとペナルティが先に提示された問題。この問題を間違えたらこの後どうなるかを先に見せられている。
頷く。
「そっか」
案外淡白な先輩の返答。だが満面の笑み。見たことがないくらいの。俺の背を抱く力がきゅっと強くなる。顔が近い。先輩の目尻にうっすらと涙が滲んでいる。
「ちゃんと言葉にして」
「ほら」
鼻と鼻がくっつきかけるくらいの近さ。先輩の頬は赤らんでいる。
「好きです」
何か嘘をついているような感覚のまま、先輩が求めている言葉を口にする。全く悪い気分ではない。求められていることを理解していれば、俺も先輩も、また苦しい思いをすることなんてない。
「ふふ、そっか」
「そっか」
噛み締めるように笑う先輩に、強烈な安心感に、心が麻痺する。ぎこちなく抱擁を返す。
「ふふ、よかった」
「よかったよ、死ななくて、私」
先輩の頰から雫が落ちる。
この言葉が聞けただけで俺は。
────────────────────────────────
「ほんとすみません、デマ流しちゃって。友達が私ビビらそうとしたみたいで」
火曜深夜1時。バックヤード。嘘に嘘を重ね、私は白鳥さんに頭を下げた。正直悪いなんてひとつも思っていないけど。ただ、人生を上手く生きるにはこれが一番手っ取り早いと言うことはわかっている。
「いいよいいよ別に。あのビルで自殺者が出たなんて誰も疑わないんだから! 誰でも騙されるって! 私も雫ちゃんからLINEで送られてきた時は『マジかー!』って叫んじゃったよお」
「白鳥さんそういうゴシップ好きですよねえ」
このおばさんとの会話はいつも返答に困る。正直もう帰りたい。
「しかし今月で夜勤二人も辞めちゃうのかあ……寂しいなあ」
「いやータイミング被っちゃいましたねえ」
いやマジで早く帰りたい。こんなババアとの会話なんてタイムカードを切っていなかったら途中で帰っている。
「……彼とは……どう? 仲直り、できた?」
「彼って?」
ババアは"彼"がバックヤードに忘れていった制服を指差した。誰かが畳んだのか彼の制服らしくなく丁寧に畳まれている。
「あー」
そっか。そういう流れがあったね。そう言えば。
「仲直り、しましたよ」
別に仲が悪くなっていたわけではないんです。なんて言っても話が長引くだけ。
「あら良かったあ!」
ババアのくだらない反応。別にどっちでもお前には関係ないだろ。「心配かけちゃってすみません」なんて謝らなきゃいけないのか、これは。コイツが勝手に心配しといて? まぁ良いか。
「というか」
「私がどんな人間なのかを分かっていなかったから、お灸を据えたって感じなんです」
興が乗って本当のことを言ってみる。もうこのゴミとは長くないし。
「えーと……ははは、ん?」
惨めに、何の生産性もなく歳をとり、シミが増えてきた汚らしい顔に皺がより増える。ほら、本当のことを言ったってテンポが悪いんだって。
「あ、何でもないっす! タイムカード打っちゃって良いですか」
僥倖。やっとタイムカードを打てる。ピピっ、とシフトが終わる音。
一人で気まずそうな顔をしているババアに軽く別れの挨拶を済ませて、"彼"の制服を手に取る。彼の柔軟剤の匂いが少し香る。"レノアハピネス夢ふわタッチ上品な心地よいホワイトティーの香り"、だっけ。彼のものだとか関係なく良い匂いだと思う。
やっとコンビニの外に出れた。街灯に青白く照らされた道以外は真っ暗。少し肌寒いが、もう春と言っても良い気温だ。
監視カメラに映らない、コンビニのゴミ捨て場の横でスマホを見つめている"君"に声をかける。
「お待たせ。これ、忘れ物だって」
私を見るなり、君はため息をついた。おそらく安堵の。そうであって欲しい、ってだけだけど。あの出来事以降、前と同じような軽口を叩き合う仲のまま、君は笑うことが少なくなった。君が自罰的な性格だということを把握してあの一連の演技を打ってはいたが、どうやら"お灸"が効き過ぎてしまっているようだ。
狙い通りの流れになって、狙い通りに君のそばにいられている私ではあったけど、わがままを言ってしまえば、まあ、君には、前と同じように優しく笑いかけてほしい。私はそこに惚れたところがあるし。というか、うん、これは一種の私への罰なんだろうな。まあ、良いよそれで。別に。君が罪を償えたと思って笑顔を見せてくれる瞬間まで一緒にいられるってことだろうし。
君が今そばにいてくれれば、その理由が何だって良いんだよ。私は。
A drop falls やまだまや @yamada_maya
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