第ニ章 婚約者探しは難航中です
1.不意に触られるのは困ります
まだ夜明けには少し早い時刻に、エドワードは目を覚ました。
役目を果たすことのなかった目覚まし時計のスイッチを切り、眠るときに腕に抱いていたクマのぬいぐるみを手に起き上がる。
朝のひんやりとした空気に季節の移り変わりを少しずつ感じながら、エドワードはカーテンを開いた。日が昇る前の外はまだ薄暗く、深く濃い藍色が空を染めていた。
ダークブラウンの木製チェストの上にぬいぐるみを置き、その横に飾られた写真にエドワードは笑いかけた。
「おはようございます、お父様」
眼鏡をかけた柔和な笑みの男性が、幼い少女と並んで写真の中に収まっている。クマのぬいぐるみを抱き締めた少女は、隣の男性にぴったりと寄り添いはにかみ顔だ。
幸せの瞬間を切り取った写真を見れば、父の優しい声が今にも聴こえてくるような気がした。
エドワードはシャワーを浴び、身体にタオルを巻きつけて姿見の前に立った。もう何年も伸ばしていない短い髪と、化粧をしたことのない自分の顔を見つめる。
胸から尻までを隠していたタオルを取れば、女の身体がそこにはあった。白い肌に控えめに膨らんだ胸。少し筋肉を付けても華奢なままだった身体は、男の格好をしていても初対面の人には女だと間違われることが何度もあった。
(間違い……ではないけれど)
心まで男になったわけではなかった。ノアにプロポーズのようなものをされたことで、自分が女であることを改めて意識してしまう。人前では男として生きると決めたエドワードにとって、それはあまり喜ばしいことではない。
(素敵な女性が婚約者候補にたくさんいるのに……ノア様はなぜ私なんかと……胸だって小さいし)
膨らんだ胸を隠すように補正下着を身に着けたエドワードは、溜め息を漏らした。もともとの体質か、成長期に今のように胸を抑えていたからか、有り難いことに胸はあまり大きくならなかった。
女嫌いのノアには、丁度いいのかもしれない。子どもの頃から一緒にいるエドワードは女として意識する必要もなく、すでに一緒に暮らしているから煩わしい気遣いもいらない。きっと都合がよかったのだろうと、勝手に結論付けた。
(あれ……?)
ふと姿見に映る自分に違和感を覚えて、エドワードは右腕に視線を落とした。
「呪いが進行してる……」
腕に巻き付くように刻まれていた黒い鱗が、今では二の腕の方まで侵食している。まるで蛇が肌を這い上がってきているかのようで、気味が悪い。
「まだ一ヶ月ぐらいしか経っていないのに」
放っておけばいずれ呪いに喰われる、などとノアに平然と言ってはみたが、まさか蛇に喰われるわけではないと思いたい。非魔法使いのエドワードには、この呪いがどのように自分を苦しめるのか分からないのだ。
「爬虫類は苦手なんだけど……」
一人ぼやいて、スーツに着替える。エドワードにとって、スーツはオンとオフを切り替えるスイッチのようなものだ。この格好をしているときは、誰の前でも堂々と男として振る舞える。
女でいることをやめた日以来、スーツ姿の自分こそが“エドワード”なのだ。
いくつかの朝の用事を済ませたあと、エドワードは朝食の準備をしてからノアを起こすのが日課だ。
屋敷内にいるノアを呼ぶときは、リビングの壁に備え付けられた
いつも不思議に思っているのだが、屋敷内であればどこにいてもベルの音はノアに届くそうだ。そのうえエドワードの機嫌や体調によって、ノアに聴こえる音の種類や大きさが変わるらしい。
以前エドワードが体調を崩してぼんやりしたままベルを鳴らしたときには、ノアが慌てた様子で階段を駆け降りてきた。「今日は部屋で安静にしていてくれ」と頼まれ、無理やり自室に押し込まれたのだ。
今は心も身体も健康そのものなので、ベルを鳴らしても普通の音が聴こえるはずだ。前日に酒を多量に飲んでいない限り、ノアはベルを鳴らせば身なりを整えてすぐに二階から降りてくる。
「エディ、ちょっと来てくれ」
ダイニングルームに入ってきたノアに呼ばれ、エドワードは朝食をテーブルに並べる手を止めた。
「おはようございます、ノア様。どうかしましたか?」
珍しく朝から深刻そうな顔をしているノアに近付き、エドワードは首を傾げる。
ノアは新品のワイシャツにスラックスを身に付け、いつも通り完璧な装いだ。髪もきちんと整えられているし、肌艶もいい。昨夜はぐっすり眠れたのだろう。
主人の健康状態を素早く目で確認していたエドワードは、不意にノアの手が自分に向かって伸びてきたことに驚き、肩をびくりと跳ねさせた。
「……熱はないよな」
エドワードのおでこに手を当てながら、ノアは考えるように低く呟く。突然のことに身体を固くしているエドワードにはお構いなしに、ノアの手は当然のようにエドワードの細い首に移動した。
「わあ!」
手が触れた瞬間思わず声を張り上げたエドワードに、今度はノアの肩がびくっと弾む。
「なんだよ、エディ……いきなり大きな声を出すな」
「だ、だって、ノア様が急に首なんて触るからっ……」
ノアに触られた首を押さえて、エドワードは困惑しながら頬を赤く染めた。
「そんなに驚くことか? ベルの音がいつもと違うから、熱でもあるのかと思って確認しただけだろ」
「ベル……ベルって……」
リビングの壁に取り付けられた真鍮のベルを一瞥し、エドワードはノアの言葉の意味に気が付いた。エドワードの体調や機嫌によって音が変化するという魔法のベル。いつも通り鳴らしたはずなのに、なぜ音が変わったのだろうか。
(まさか呪いが進行したから……?)
無意識に右腕をさすると、ノアのめざとい視線がエドワードを見下ろした。
「……エディ、腕を見せてみろ。なんだかんだ一度も俺に呪いを調べさせてないだろ」
「嫌です」
「なに? 今、嫌って言ったのか?」
「嫌だと言いました」
さっと腕を背中に回し、エドワードは困惑していた先ほどとは打って変わって、無表情でノアを見上げた。
「ノア様、あのベルの仕組みはやはり如何なものかと思いますよ。管理されているようで、私は嫌です」
はっきりそう口にすると、ノアはあからさまにたじろいだ。
「なんで今更そんなことを言うんだ。お前が自分のことになると何も言わないから、あのベルを使ってるんだろ」
「自分の体調管理は自分でできます」
「ぶっ倒れるまで熱があることを言わなかったのは誰だ?」
「それは昔の話です」
エドワードが表情を変えずに言い返すと、ノアは腕を組んでふんと鼻を鳴らした。
「主人が自分の執事を管理してなにが悪い! エディの頼みでも、あのベルは外さないからな!」
開き直った様子で踏ん反り返ったノアは、話は終わりとばかりに朝食の席に付いた。
正直なところ、ベルのことはエドワードにとってなんら気になるものではなかった。便利な魔法だな、ぐらいの感覚である。
それよりも上手く呪いの話を逸らせたことに、エドワードはほっと胸を撫で下ろしていた。我ながら狡賢くなったものだと、純真な笑顔を向けた写真の少女を思い浮かべて苦笑が漏れた。
魔法使いの花嫁探しは前途多難 宵月碧 @harukoya2
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