最善は彼女の心をまもること②



 * * *



 まだ雪のぱらつく季節。暖かい春が訪れるまでもう少しという頃、最終学年を迎えていたノアのもとに、オスカーの訃報が届いた。

 学生寮にいたノアが真っ先に思い浮かべたのはイーディスのことであり、知らせが届いた瞬間には血相を変えて自宅と寮を結びつける魔法陣を作り出し、彼女のもとへ飛んだ。


 屋敷には弔いの黒い布がいくつも下ろされ、黒服に身を包んだ使用人たちが悲しみにすすり泣いていた。大広間に置かれた棺を取り囲むように、当主と両親、そしてイーディスの姿がそこにある。

 全員の視線がノアのもとに向くと、当主のアストンが口を開いた。


「ノア、早かったな。これから教会に向かい、オスカーとの最期の別れとなる」


 厳かな声のなかには、身内にしか分からないであろう微細な悲しみが含まれていた。アストンが若い頃からオスカーはウィンター家の使用人だった。二人にはノアたちの知らない深い絆が存在するのだろう。


 ノアがイーディスを見れば、彼女は一度目を合わせたあと、暗い瞳を隠すように睫を伏せた。光の加減によってグリーンにもアンバーにも見えるイーディスの輝く瞳は、今はその光を失っている。


 どんな慰めの言葉を用いても、彼女の心に響くことはないだろうというのは、誰の目にも明らかだった。



 粛々と教会での葬儀が終わり、ノアたちは屋敷へと戻った。


 オスカーは一年ほど前から体調を崩しはじめ、つい最近倒れたそうだ。そのあとはもう、あっという間だったという。アストンやイーディスに見守られながら、眠るように逝ってしまった。最期までイーディスのことを気にかけていたというのだから、彼女の成長を見届けることができず、悔しい思いをしたことだろう。


 非魔法使いの病に、魔法使いは干渉できない。


 魔法は万能であってはいけないのだ。秩序と摂理を守らなければ、均衡が破れてしまう。非魔法使いと関わることに、もどかしさを感じずにはいられない。



「イーディス」


 扉の開いたオスカーの部屋で、ノアは寂しげな背中を見つけて呼びかけた。姿勢よく伸びた背筋は、それでもどこか幼く頼りない。


 必要なものだけが置かれた簡素な部屋は、オスカーらしく綺麗に整頓されている。


 開いた窓から冷たい風が吹き込み、カーテンとイーディスの長い黒髪を揺らしていた。


「イーディス」


 もう一度優しく呼びかけると、凛とした背中が震えていることに気付いた。


「……イーディス、ここには俺しかいない」


 その言葉に誘われるように、イーディスはゆっくりと振り返った。大きな瞳に溜まった涙が、我慢の限界とばかりにぽろりと音もなく零れ落ちる。


「ノア様……っ」


 くしゃりと歪んだ顔が、吐息とともに大粒の涙を溢れさせた。

 葬儀の間一度も流さなかった涙が、とめどなくイーディスの頬をつたい落ちていく。

 両手で顔を覆って声を押し殺そうとするイーディスを、ノアはそっと引き寄せた。オスカーが倒れたあと、彼女は何度、こんなふうに声を殺して泣いたのか。

 腕の中で震える少女の頭を撫で、傍にいられなかったことを後悔した。


「我慢するなよ……お前に我慢されたら、俺が泣けないだろ」


 低く微かな囁きは彼女の耳に届いたのか、堰を切ったように悲痛な声がオスカーの部屋に響き渡った。

 このとし十三歳を迎える少女には、あまりに早すぎる父との別れだった。


 父の愛情を一身に受け、成長するたびに美しく育っていったイーディス。それゆえの苦しみがまだ用意されていたことを、ノアはオスカーの死により初めて知ることになる。



 オスカーの葬儀から数日が経ち、ノアがそろそろ学生寮に戻ろうかと考えているときだった。


 リビングルームの扉の前に、イーディスが佇んでいた。


「イーディス、そんなところで何してるんだ?」


 オスカーを偲んで黒のワンピースを身に付けていたイーディスは、緩慢な動作でノアを振り返った。戸惑いと恐怖を映したよるべない瞳が、ノアを視界に入れた途端に大きく揺れた。


「イーディ……」


 不審に思ってノアが一歩近付こうとすると、リビングルームから母親の怒鳴り声が漏れ聞こえてきた。


 ──いつまであの子をこの家に置いておく気なんですか!


 完全に閉まりきっていないドアの向こうから響いた声に、ノアは唖然として眉を顰めた。あの子というのがイーディスを指していることは瞬時に分かったものの、自分の母親が発している言葉の意味を理解するのに数秒の時間が必要だった。


 ──ノアがいつまでも婚約を拒んでいるのはあの子のせいです。オスカーが女の子を引き取ると言ったときから、私は反対だったんですよ。


 興奮している母親を宥める父親の声を聞きながら、ノアは立ち尽くしているイーディスと視線を合わせた。

 胸の前で握り締めた両手を小刻みに震わせ、怯えたような瞳でノアを見ている。


 オスカーが亡くなったことで彼女の立場が危うくなることに、なぜ気付かなかったのだろうか。これからも当然のように、イーディスは屋敷にいるものだとノアは思っていた。


 ──あの子を追い出してください。非魔法使いの彼女をいつまでもノアの近くに置いておけません。なにか間違いが起こってからでは遅いんですよ。ウィンター家の血筋に、非魔法使いの血が混じるなんて許されないわ。


 静かな怒りが沸々と湧き上がるのを感じたノアは、愚かな母親の言葉を遮ろうとドアのぶに手をかけた。しかしドアを開ける前にイーディスがその場から逃げるように駆け出したので、それどころではなくなった。


「イーディス!」


 スカートを揺らして走る彼女の背中を追いかけるかどうか、ノアは迷った。自分のせいでイーディスが母親の反感を買っていたなど、思いもしなかったのだから。


「ノア、なにをしてるの」


 リビングルームのドアが開き、母親が姿を見せた。普段から母親とは顔を合わせるたびに言い合いになるような関係だったが、今回ばかりはもう、親子喧嘩などで済ませられる状況ではなかった。


 ノアは怒りを抑えるように拳を握り締めると、小さく息を吐いた。


「……貴女には失望しました」


 それだけを告げると、ノアは足を一歩進める。靴底が床に付いた瞬間、ノアの姿はその場から忽然と消え失せた。

 次にノアの視界が開けたときには、目の前にイーディスの姿があった。


 ノアが魔法によって飛んだのはオスカーの部屋だ。屋敷内であれば自由自在に行き来できるノアは、イーディスが逃げ込んだ場所へと移動していた。

 オスカーが亡くなってから、イーディスは彼の部屋でほとんどの時間を過ごしていた。あまり眠れていないことも、夜中に一人泣いていることも知っている。

 悲しみの癒える間もなく、彼女を追い詰めたのが自分の母親であることがノアには許せなかった。


「イーディス……」


 床に座り込んでいるイーディスを見て、ノアは言葉を失った。

 黒く艶めくイーディスの長い髪が、床に散乱している。ざっくりと短く切られた髪と彼女の手にした鋏を見れば、自ら髪を切り落としたことは明白だ。


「イーディス……どうして」


 手入れの行き届いたイーディスの長い髪は、毎朝オスカーが結んでいた。ウィンター家にいるメイドに教わりながら、オスカーは娘の髪をいろんな髪型にアレンジするのを楽しんでいた。イーディスの長い髪は、仲の良い親子を象徴するものであり、彼女にとっての自慢だったはずだ。


「ノア様……私、ここにいたいですっ……」


 濡れた虚な瞳がノアを捉えて、涙が一筋イーディスの赤らんだ頬を流れ落ちる。


「私が男の子だったら、ここにいてもいいですか……? ノア様の傍にいられますか……?」


 ぽろぽろと涙を零すイーディスに、ノアはすぐさま言葉を返すことができなかった。


 イーディスを屋敷から追い出すなど、当主のアストンが許さないだろう。今のままこの屋敷に留まり、変わらない生活を送れるはずだ。

 だけどそれでは、イーディスが納得しない。自分の居場所に不安を抱き、肩身の狭い思いをしながら生きていくことになる。


 彼女にとっての最善とは、なんだろうか。


 選択肢はいくらでもあった。ウィンター家は由緒ある魔法使いの家系であり、イーディスには当主の後ろ盾が存在するのだから。


 イーディスが幸せであることが、ノアにとってもっとも重要なことだった。


 

「……イーディス。スカートもぬいぐるみも好きな泣き虫のお前が、男になんてなれるのか?」


 ノアの問いかけにぐっと唇を噛んだイーディスは、袖で涙を拭った。


「な、なれますっ……」


「俺のように強く賢い美男子になれるって言うのか?」


「が、頑張りますっ……」


「……そうか、それなら仕方ないな」


 ノアは肩を竦めると、にやりと口の端を吊り上げた。


「それじゃあ、男になる準備をしよう。まずはその髪をなんとかしないとな。オスカーが見たら卒倒しそうだ」


 不揃いに短くなった髪に触れたイーディスは、濡れた睫を跳ねさせた。ノアに差し出された手を辿るようにゆっくりと顔をあげ、眉尻を垂れ下げる。


「はい……ノア様」


 泣き濡れた顔ではにかむように微笑んで、イーディスはノアの手を握った。


 初めて出会ったあの日のように。



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