閑話 少女だった彼へ

最善は彼女の心をまもること①


「坊ちゃん、紹介いたします。私の娘のイーディスです。今日からお屋敷でお世話になることになりました。どうか仲良くしてくださると嬉しいです」


 老齢の執事はそう言って、背後に隠れる少女の背中を優しく押した。

 両手を胸の前でもじもじと動かし、恥ずかしそうに小さな唇をきゅっと結んだ少女は、期待と不安を宿した大きな瞳で目の前の少年を見つめていた。


 肩より長い黒髪は両サイドを編み込み、後ろでリボンが結んである。清潔な白いブラウスと紺色のワンピースが、愛くるしい少女によく似合っていた。


「オスカーにこんな小さな子どもがいるなんて知らなかったぞ」


「イーディスは六歳ですから、坊ちゃんと五つしか違いませんよ」


「五歳も違えば充分小さいじゃないか」


 気難しそうに眉を顰めた少年は、まだ幼さの残る顔に警戒の色を滲ませ、少女をじろりと睨んだ。


「さあ、イーディス。ご挨拶を」


 執事のオスカーに促されるまま彼を一度見上げた少女は、意を決したように小さく頷く。


「はじめまして、イーディスと申します。よろしくお願いいたします、ノア様」


 慣れない様子でスカートの裾を摘んで会釈した少女は、はにかむように柔らかく微笑んだ。

 育ちのいい少年から見たその挨拶はぎこちなく、淑女の礼としてはお世辞にも美しいとは言えなかった。それでも真心とは伝わるもので、少女の無垢な笑顔は少年の警戒心をあっという間に吹き飛ばしてしまった。


「どうです? 可愛らしいでしょう、坊ちゃん。この日のために練習したご挨拶です」


 少女の肩を抱いて相好を崩したオスカーに、少年はカッと頬を赤く染めた。


「親バカすぎるぞ、オスカー!」


 満足そうに笑う執事に一言浴びせ、少年はふんと鼻を鳴らす。ヘーゼルの瞳をきらきらと輝かせている少女を一瞥し、汗ばんだ手をシャツで拭った。


「ノア・ウィンターだ。よろしく」


 ぶっきらぼうに差し出した手を少女の小さな手が握り返すと、二人の間に隔たりはなくなっていた。



 * * *



 執事のオスカーが連れて来た少女は、実の娘というわけではなかった。オスカーの知り合いの夫婦が亡くなり、当時まだ三歳の少女は身寄りもなく孤児院へと預けられた。幼い少女を気に掛けたオスカーが孤児院に足繁く通い、彼女を支援してきたという。三年もの期間をそうして過ごし、とうとう彼女を養子として引き取ることに決めたのだ。

 年老いた彼にとってそれは大きな決断であり、ウィンター家当主のアストンが彼を後押しした。


 六歳になった少女イーディスは、晴れてオスカーの娘となった。養父を実の父として愛したイーディスは、ウィンター家ですくすくと成長していくことになる。当主の孫であるノア・ウィンターとともに。



「ノア様、お勉強を教えてください」


 ウィンター家の書庫で本を読んでいたノアの元に、イーディスが本とノートを胸に抱いて現れた。広い室内を大量の本で埋め尽くされた書庫は屋敷内でノアの居場所のひとつであり、暇さえあれば書庫に籠って本を読みふけっていた。

 魔法も勉強もなんでも優秀だったノアにとって、定期的に新しい本が増える書庫はいい退屈しのぎだった。


「なにか分からないところがあったのか、イーディス。教えてやるけど、高くつくぞ」


「今日の私のおやつを半分差し上げます」


 大きな出窓のカウンター部に足を乗せて座っていたノアは、にやりと口角をあげた。


「おやつはいらないから、勉強が終わったあとのティータイムに付き合ってくれ」


 ノアの提案にぱっと表情を明るくしたイーディスは、嬉しそうに頷いて駆けてくる。


「もちろんです。ノア様とお庭でお茶会をすると、お父様にお伝えしておきますね」


 ノアの座るカウンターにひょいっと腰掛け、イーディスはスカートから覗く両脚を揺らした。

 今日の彼女は長い髪をふたつに結んで緩く三つ編みにしている。オスカーの教育の賜物か、はたまた異常なまでの溺愛によるものか、十歳になったイーディスは清楚であり聡明であり、それでいて純真だった。

 いいところのお嬢様と言われれば、誰も疑うことはないだろう。

 血色のいい頬はほんのりピンク色に染まって艶めき、長い睫に縁取られた瞳は常に輝きを放っているようにノアには感じられた。


「イーディス。実は俺、九月になったら学生寮に入ることにしたんだ。今みたいに頻繁に勉強を教えてやれなくなる」


「寮ですか……ノア様は、お屋敷からいなくなってしまうのですか?」


「そうなる。でも、休みのたびに帰ってくるよ。蝶も送るし、イーディスにも魔法をかけた紙を置いていくから、いつでも手紙を送ってくれていいし」


 毎日当たり前のように顔を合わせていた人物が突然いなくなると知り、イーディスは俯いた。両手の指先を胸の前で絡ませるのは、恥ずかしかったり言いたいことを口にできないときの彼女の癖だ。


「寂しいのか、イーディス」


 揶揄うようにノアは少女の顔を覗き込んだ。


「……寂しいです、とっても」


 思いがけず素直な言葉が返ってくると、ノアの頬に赤みが差した。照れくさそうに右手で銀灰色の髪を掻き乱して、視線を宙に彷徨わせる。

 ノアにとって、イーディスは最早家族同然だ。庇護欲を擽る妹のような存在であり、ノアより大人びた異性の友人のようでもある。どんな形であっても、互いの存在が唯一であることは間違いなかった。


「なぁ、イーディス。俺たち成人したら結婚しないか。恋愛とかよく分からないけど、ずっと一緒にいるなら俺はイーディスがいい」


 ここ最近大量の婚約話を母親から持ち掛けられていたノアは、正直うんざりしていた。学生寮に入ることに決めたのも、煩わしい母親から逃れるためでもある。考えれば考えるほどに、イーディス以外の異性と一緒にいる自分を想像できなかった。


 イーディスはきょとんとした顔で目を瞬くと、くすくすと笑い出した。


「ノア様、ご心配には及びません。私はお父様のようになって、ずっとノア様のお傍にいます」


「お父様のようにって……オスカーみたいに使用人になるってことか?」


「はい、そうすればノア様と一緒にいられます」


「だから、それなら俺と結婚すればいいじゃないか」


 怪訝な顔で首を傾げたノアへと、イーディスは困ったように微笑んだ。まだ十歳の少女がするには、随分と大人びた表情だ。


「結婚はできません、ノア様。私はお父様にご迷惑をお掛けしたくありません」


 ごめんなさい、と言って頭を下げたイーディスを見て、ノアは思案げに顎に手を当てる。


「……俺は振られたのか、イーディス」


「いいえ、まさか! ノア様と私が結婚だなんて、考えられません! 私は身の程をわきまえています」


 意味を理解しているのかいないのか、イーディスは自信満々に胸を張った。

 困惑したノアは頭を抱え、ぼそりと呟く。


「……身の程だなんてどこで覚えてきたんだよ」


 結果的に振られたのだと悟ったノアは、初めての失恋の苦さを思い知った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る