6.その名で呼ばないでください
秋らしく澄んだ空気が冷たさを帯びてきたこの日は、空が青く晴れ渡っていても多少肌寒い。そんな日にノアは外でアイスの盛られた大きなパフェをあっという間に平らげ、更にケーキも食べるつもりらしい。
普段であれば甘党の主人に食べ過ぎないよう注意を促すエドワードだったが、今はそれどころではない。
「どういうつもりですか、ノア様。きちんと否定してください。ますます誤解されたじゃありませんか」
「誤解? プロポーズのことか? 別に誤解じゃないだろ」
気にする素振りも見せないノアの様子に、今まで姿勢よく座っていたエドワードは堪らずテーブルの上に身を乗り出した。
「私達が周囲からなんて噂されているかご存知ないんですか? 男同士で付き合っているとか、ノア様は男にしか興味がないとか……使用人に手を出す主人だなんて言われて、嫌ではないんですか」
戸惑いの滲んだ声を潜めてエドワードが言うと、ノアはまるで関心がなさそうに頬杖を付く。
「エディ、俺はそんなことどうでもいい。好きなように言わせておけ。男同士だろうがなんだろうが、別に周りの奴らには関係ないだろ」
「どうして……そんなこと言うんですか」
失望の入り混じった呟きに、ノアはぎょっとして目を丸くした。唇を引き結んで顔を伏せたエドワードを見て、慌てたように意味もなく周囲を見渡す。
「エディ、お前が嫌なら周りの奴らは黙らせる。お前が傷付くようなことは俺が言わせない」
焦って早口になりながらノアはエドワードの顔を覗き込んだ。
いつも飄々とした態度で周囲の言葉など気にもしない人物が、たった一人の使用人のことになると顔色を変えるのだ。その弱みに付け込まれて強引に結婚させられようとしているのに、仕掛人でもあるエドワードを真っ先に心配してくれる。
(いつもそうだ……)
昼間の澄んだ青色の瞳を見返し、エドワードは口を開いた。
「私のことはいいんです……私のせいでノア様がそのように言われるのが嫌なんです。私は貴方に仕える身です。結婚などそんな大それたこと、考えられません」
絞り出すようになんとかプロポーズとやらの返事をすれば、ノアの眉間に深い皺が寄る。整った顔は少し歪んだところで美しいままなのだと、ころころ変わる主人の表情を見るたびエドワードは思う。
「そんなこと気にしないと言っているのに……俺はまた振られたのか?」
「……また、は語弊があります」
「まただろ。昔から何度も口説いてる。結婚するなら、俺はエディ以外考えられない」
「ちょ、近いですっ……! 馬鹿なこと言うのはやめてください……!」
ずいっと顔を近付けてきたノアから距離を取るように、エドワードは身体を仰け反らせた。みるみるうちに顔が赤くなっていくのが自分でも分かって、余計に恥ずかしくなる。
「俺の気持ちを知っていながら婚約者探しをじーさんと企むなんて、どうかしてるぞ。俺はお前にも怒っているんだからな、エディ」
「だ、から、それはっ……」
ノアの勢いに呑まれそうになったところで、エドワードはハッとして顔を横に向けた。
二人が座るテーブルから少し離れたところでにんまりと微笑むアンナの姿を認め、ぶわっと身体中に汗が吹き出す。またとんでもない会話を聞かれてしまったらしく、注文の品を持ったアンナは「続けてください」とでも言うように無言でこちらに手のひらを向けている。
エドワードは居た堪れない気分になって、縮こまるように熱を持った顔を伏せた。
「アンナ、なにしてるんだ。早く持ってきてくれ」
羞恥で言葉も出ないエドワードとは違い、発言していた張本人は気にすることなくアンナを呼んだ。
ストレートな物言いも堂々とした振る舞いも、ノアの長所のひとつではある。しかしそれを向けられる当事者の一人になってみると、その
幸いなことに外のテーブル席にはノアとエドワードの二人しかいなかったので、会話を聞いていたのはアンナだけだろう。
それだけが唯一の救いだと、エドワードは安堵の息を漏らさずにはいられなかった。
喫茶店を出たあとどうやって屋敷まで戻ってきたのか、エドワードはあまり覚えていなかった。なにやら隣でノアがぺらぺらと話し続けていたような気がしたが、それすらもよく覚えていない。
いくつかの必要な買い物を済ませ、ノアが快くすべての荷物を引き受けてくれたことは記憶にある。
ついでに婚約者探しがより複雑化したことも。
「エディ、荷物はここでいいか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
ノアが両手に抱えていた紙袋をダイニングテーブルに置くと、袋からはみ出ていたリンゴがぽろりと転がり落ちた。リンゴは床に落下する前に動きを止め、ふわりと浮き上がってノアの翳した手の中に収まる。
「エディ、リンゴばかり買い過ぎじゃないか。一袋分もなにに使うんだ?」
「え、そんなに買いました?」
「買っただろ、覚えてないのか? まったく、店主に勧められるまま適当な返事をしてると思ったら……」
「わ、ほんとだ。すみません、うっかりしていました」
紙袋を覗き込んだエドワードは、袋いっぱいの艶めくリンゴを見て肩を竦めた。果物屋の店主と言葉を交わした記憶があるようなないような。実に曖昧な記憶だ。これでは執事失格だ。
「リンゴなので、なんとかなります。ノア様はアップルパイとか好きでしょう。試しにいろいろ作ってみます」
すぐ隣でノアの視線を感じると、エドワードはいつになく声を明るくした。リンゴを袋から取り出し、特に理由もなくテーブルの上に並べていく。
「エディ」
名前を呼ぶ声と、ノアの指先がエドワードの髪を耳にかけるのはほとんど同時だった。つられるように見上げた先で、ノアの真剣な眼差しと視線がぶつかる。
「……なぁ、イーディス。俺の婚約者探しは、このまま続ける気なのか?」
久しぶりに耳にしたその名前に、エドワードの心臓は大きく跳ね上がった。愛しい者を呼ぶように静かに発せられた低い囁きは、エドワードに向けられたもので間違いない。
うるさいぐらいにどくどくと激しく脈打つ鼓動は、いったい誰のものなのか。
袋から取り出したばかりのリンゴが、動揺に震えるエドワードの手から滑り落ちた。
「あっ……」
鈍った反応でただ落ちていくリンゴを目で追いかける。しかし今度もリンゴは床に叩き付けられることなく、ノアのささやかな魔法によって空中で動きを止めた。
(魔法……ノア様は魔法使い……)
──ウィンター家の血筋に、非魔法使いの血が混じるなんて許されないわ。
エドワードの脳裏に、古い記憶が蘇る。いつまでも鮮明に残り続ける、忘れられない過去の記憶だ。
エドワードはぐっと一度唇を噛み締めると、魔法によってノアの手に戻ったリンゴを受け取った。
「……エドワード」
俯いたままそう呟いて、エドワードはゆっくりと顔を上げる。
「私はエドワードです、ノア様。婚約者探しはこのまま続けます。必ずノア様が結婚したいと思える女性を見つけますので、どうか約束通り、婚約者探しに協力してください」
毅然とした口調でそう伝えると、ノアの青い瞳がエドワードを見据えた。すべてを見透かすような深い青は、エドワードをいとも簡単に緊張の波に飲み込んでしまう。
リンゴを持つエドワードの手が、小さく震えた。ノアはそれに気付いているのか、僅かに視線をエドワードの手元に動かしたあと、深く息を吐き出した。
「分かったよ、エディ。最初からそういう約束だ。婚約者探しはこのまま続けよう。まずはお前の呪いを解くことが何よりも先決だからな」
お手上げとばかりに両手を上げるノアを見て、エドワードはほっと胸を撫で下ろした。
「私の呪いを解くために、適当に婚約者を選ぶのはやめてくださいよ」
「あーはいはい。真面目に考えればいいんだろ、任せておけ。末永くよろしくできる相手を見つけようじゃないか」
すでに適当な返事をしているノアを見て、エドワードは呆れたように眉を寄せた。
主人に気を遣わせている。それを分かっていながら、エドワードは気付かぬふりで目を瞑る。
(これでいいんだ……私はノア様に相応しくない)
微かに感じる胸の痛みには、名前を付けずにしまっておこう。
それがノアへの、ウィンター家への忠誠の証なのだから。
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