第3話 キコと雪女
「先生、お待たせしました。」
キコが座敷の襖を開けると、テーブルの上には桐の箱に納められた例の竿が置かれていた。伴は手元の継ぎ目の竿を手にして、グリップの握り具合を確かめている。
改めて見るとごつごつとした荒々しい造りが繊細な色彩と相まって独特の風合いが感じられた。やっぱり綺麗だ。その隣には分厚い 1万円札の束があり、古井戸は領収書を書いていた。
すごい…いったい、いくらあるの…
古井戸が書き終えたら領収書を伴に手渡した。キコは身体を傾けたが見えず、首を伸ばして覗き込んだが金額までは確認できなかった。
「覗くんじゃねえよ、キコ。」
伴は領収書の表書きを伏せて、財布に仕舞った。
「ごめん!だって気になるじゃん。そんな札束見た事にもないし、いくらぐらいしたのかなぁって。」
「おめえには教えねえよ。」
伴は口をへの字に曲げて、そっぽを向いた。
キコは不満気に一旦座敷を出ると、お酒とお盆を手にすぐ戻ってきた。
「先生、今日はこれを飲みませんか。」
日本酒の一升瓶だった。
「ほぉ、 いい趣向だな。」
白地のラベルにはウルトラマンに登場した雪の怪獣のようなシルエットが大きく描かれ、竹の籠を担いでいる。
「今日は【ゆきめ】の会だから、こんな時は雪男 かなぁって。」
「新潟の地酒、鶴齢の【雪男】か。うん、いいお酒だ。」
お燗で行きましょう、とキコはお盆からお猪口をを取り 古井戸と自分の2つ分をテーブルに用意する。
「おいキコ、俺の分はねぇのか。」
伴が割れ鐘のような声で言う。
「えっ、だって伴ちゃん、いつもウイスキーじゃん。」
「てめぇ、さっき言ったろうが。こんな時は、っな。だから俺だってそんな時は飲みてぇんだよ。」
「わかったよ、もぉ。ちょっと待っててね。」
キコは不満気に、再び座敷を後にした。
「珍しいな、伴。日本酒を飲むなんて。」
「まぁ、 別に飲めないわけじゃねぇ。だが【ゆきめ】の竿をもう1本拝めるなんて聞いたら、どうにも興奮して落ち着かねぇ。雪男なんて酒があるって知ったら飲まずにいられなくなっただけだ。」
「しかしまだ、【ゆきめ】の竿だと決まったわけじゃないぞ。彼女がそう言ってるだけだからな。」
「あの野郎、もし違ったら首絞めてやるからな!」
座敷の襖が開いた。
「ほら伴ちゃん、これセットして。」
両手に持ちきれる程の荷物を抱えて現れた。キコはその中のカセットコンロを伴に渡した。
「テーブルの中央に置いてね。」
そう言うとキコは手際良くトン吸いや菜箸をテーブルにセットしていく。伴は慣れぬ手付きでコンロを テーブルの中央にセットした。それを確認すると、キコはご褒美あげるように伴の前にお猪口を置き、鍋をコンロに乗せた。
「こんな雪の日はやっぱり鍋ですよね、先生。浜鍋です。」
鍋の蓋を取り 古井戸に中身を見せた。
味噌仕立ての鍋には、まるで手でちぎったような たっぷりの野菜と数種類の魚のざく切りと豆腐が入っていた。浜鍋の名にふさわしい豪快な鍋だった。キコは鍋の蓋を閉めて、コンロに火を付けた。
「おーいキコ。ここに置いておくぞ。」
襖の外で店主の声がした。お燗をした徳利を持ってきたようだ。キコは古井戸と伴にぬる燗の酒を注いだ。
三人は静かにグラスを合わせる。
「で、おめぇの竿はいったい何処にあるんだ。」
乾杯の音頭も早々に、伴が切り出した。
「もぅっ。せっかちだなぁ、伴ちゃん。あたしまだね、バイトも上がったばっかで何も食べてないんだよ。」
駆けつけ一杯とばかりにキコはお猪口の酒を一気に開けた。空になったお猪口に手酌で酒を注ぐ。
「うるせぇ。待ち切れねぇんだよ、こちとら。早くしろ!」
「わかったよ、もぉ。ちょっと待っててね。」
キコは三度、不満気に席を立つ。
土鍋の蓋のあるからは、ゆるゆると湯気が立ち始めていた。
「もう少し待ってないのか、伴。」
古古井戸が苦笑して言った。
「ダメだ。これ以上はもう待ち切れねぇ。」
味噌のいい香りが座敷に漂い始めた。
伴の腹がぐぅっと鳴ると、襖を開けてキコが戻ってきた。紫の布製の竿入れを手にしている。よいしょっ、と若年寄のような声を上げてキコは座布団に座ると、竿入れの縛り紐をほどき始めた。ゆっくりと丁寧に竿を順番ずつ出して、テーブルの上に並べていく。古井戸と伴は食い入るように身を乗り出して、継ぎ竿の一本一本に目を凝らし確認する。5本継ぎの竹竿だった。
伴の顔色が見る見るうちに曇っていく。
「お、おめぇ…言うに事欠いてこれが【ゆきめ】の竿だって言うのか。」
伴は上目遣いにぎろりとキコを睨らんだ。
キコは悪びれる様子もな、うんと頷いた。
細身ではあるが、ゴツゴツと荒々しい粗野な造りの竿だった。粗野というよりは造りかけと言ったところだ。表面は軽く塗装してはあるが、【ゆきめ】の竿のような装飾は一切されていない。まるで自分の子供に与える為に、竹藪から取ってきたさを5本にぶった切って即席に造ったような 竿だった。
古井戸は腕を組んで唸った。
キコの目は輝いていた。
「伴ちゃん、これ握ってみて。」
キコは5本継ぎの一番手元にあたる竿を手に取り、伴に手渡した。
「ん、あぁ…」
伴の顔に明らかに落胆の色が浮かんでいた。あからさまに面倒と言った仕草で、その竿を受け取る。キコの溌溂とした顔を見ていると無下に断ることも出来ず、仕方なくいつも釣りをするようにグリップの部分を握った。
「んっ…うむむ…」
「ねっ、同じだと思わない。」
「んん…確かにな…」
この感触…握った瞬間に竿の方から手に吸い付いてきて、ぴたりと収まるこの独特の感触。古井戸から買った【ゆきめ】の竿と同じだぜ。一見するとまるで子供の稚戯のような作りの竿だが、一旦グリップを握って竿を構えると不思議な躍動感を感じる。釣って、釣って、釣りまくりたくなる。しかし、だからといってこれが【ゆきめ】の竿とは…
「【ゆきめ】の竿…だな。」
古井戸は神妙な顔で呟いた。
「おい、本当か。間違いねぇのか。」
竿を握ったまま、伴は古井戸に迫る。
「印も無いし、装飾 もされていないから判断は難しいがね…」
古井戸は戸惑いを隠せなかった。
伴は古井戸の顔をじっと見た。
「おそらくは間違いない…【ゆきめ】の真鮒竿だと思う…しかし、未だに信じられない。」
「おいキコ。おめぇ、この竿を何処で手に入れた。」
伴が叫ぶ。
土鍋はいつの間にか煮えたぎり、蓋の穴からすごい勢いで湯気が吹き出している。キコはコンロの火を一旦止めた。
「七軒川ってあるじゃん。そこの地蔵橋で。」
「あの寒ブナの名ポイントか。」
古井戸はいたって冷静にに答えたが、伴はつい興奮を抑えきれずに叫んだ。
「どうやって!誰から!」
「そこで雪女がくれたの。」
「ゆ、ゆきおんな…だと…」
寒い朝だった。
吐く息は白く、部屋の空気はガラスのように固く 冷ややかだった。窓のカーテンを開けると外はまだ薄暗い。
キコは制服に着替えると、2階の洗面台の鏡の前で笑顔をつくる。そしてそのままの顔で階下に降りて、元気よく祖父におはようの挨拶をする。幼い時からのキコの日課だった。
鏡の前に立つまではいつも通りの朝だったが、今日は少し様子が違っていた。
学校に行けない…
特に何があった訳ではない。
だが中学校に入っても学校でのキコの立場は変わることはなかった。
人に弱みは見せたくない…
毅然とした態度で学園生活を送っていた。小学生の頃からそうして来たように。しかしいつの間にか少女の心には、いくら掃除しても積もるフローリングの床の塵のような 黒くモヤモヤした綿毛が少しずつ積もり、それはすでに少女の心の容積を超えつつあった。
制服のまま自分の部屋に戻った。
頭が重い。
キコは自分のベッドに横になった。
少し楽になる。
寒いけど少し 窓を開ける。ひんやりとした乾いた風が入り込み、淀んだ部屋の空気を入れ替えた。キコは少し心が浄化されたような気がして、急いで階下に降りた。祖父はいなかった。裏口から外に出るとそこは日陰になっていて、霜柱が立っていた。キコは音を立てて霜柱を踏みしめ、大きく深呼吸をする。冷たい空気が喉を通り、肺へと流れ込む 感触が心地よかった。
ふと裏口の倉庫が目に入った。
そういえばいつかもこんなことがあった。
気がつくとキコはのべ竿と道具の入ったバッグを手にして、自転車に飛び乗っていた。ガシャガシャと勢いをつけてメダルを漕ぎ、学校とは正反対の方向に走り出した。
「何か辛いことがあったらまた此処に来い。」
いつかの小菅老人の言葉を思い出した。
あれから何度か七軒川の地蔵橋に釣りに行ったが、 老人たちに会うことはなかった。元々は都内に住んでいる人達だし、毎週来ているわけでもないのだろう。今日は平日だが老人たちの年齢からはおそらくもう仕事はしていないと思う。平日も休日もないだろうから、もしかして今日は来ているかも…
しかし、その期待は見事に裏切られた。小菅老人たちどころか、川辺には他の釣り人の姿もない。キコはしばらくどんよりと濁った川面を見つめてい
た。
「せっかく此処まで来たんだから…」
キコは仕方なくバッグから釣り道具を取り出 準備を始める。極小の立ち浮きに短めのハリス。小菅老人に教わった 仕掛けだ。川辺は底冷えするほどに寒かったが、折りたたみ式のバケツで冷たい川の水を汲み、小菅老人直伝の練り餌を作る。
あの日、三郷老人から譲ってもらったポイントに立ち、今ではお手の物になった棚取りを行う。棚はすぐにつかめ、針に餌をつけてポイントに打ち込む。すぐに浮きに波紋が立った。 軽く合わせるとマブナの小気味良い振動が手に伝わる。キコは嬉しくなって、つい笑みを浮かべた。
釣れたマブナの数が20匹を超えたところで、誰もいなかったはずの対岸の奥の竹藪に人の姿があることに気が付いた。
白髪の髪の長い女の人だった。
髪は白いけど綺麗そうな人だった。
いつの間に居たのだろう。
さっきは誰も居なかったのに。
また浮きに 波紋が立った。合わせると良型のマブナが上がってきた。今日一番の大きさだった。口から針を外し、フラシに入れた。顔を上げると対岸の女性はもう居なかった。
なんだったんだろう…
立ち上がって辺りを見廻したが女の人の姿はない。
変なの…キコは針に餌をつけるとまた竿を振った。
その後4匹目を釣り上げた時にパチパチと音がした。誰かが拍手している?キコは驚いて魚を掴みそこねた。 魚は2度、3度と宙を舞い、キコの手に収まった。
小菅 老人と会って、初めて此処でマブナを釣った時と同じだ…まさか小菅老人が来ているのでは…
「上手だね。」
キコの背中越しに声が聞こえた。振り返ると先ほど対岸の竹藪に佇んでいた白くて長い髪の女の人が手を叩いていた。残念ながら小菅老人ではなかった。
「あ、ありがとうございます。」
キコは思わず口籠った。まさかあの女の人だと思わなかったので、どうしていいかわからずにペコリと頭を下げた。
よく見ると白髪ではなかった。真っ白だが艶のある綺麗な髪だった。顔や袖から覗く手も白く、肌艶も良い。年配の方かと思ったが間近で見ると全然若く、幼子の無邪気さを残した不思議な顔つきだった。何とも形容のしがたい服装も全体的に白を基調としていて、目だけが仄かに赤く充血していた。
白くて長い髪の女性はにこりと笑った。
どうしよう…コートを着てるとはいえ、制服のまま飛び出してきたのだ。中学生だとはすぐに分かる。 平日の朝方にこんなとこで釣りをしてるなんて、とても奇妙な光景に映っているはずだ。何か言われるかもしれない…
「お姉さん かっこいいね。」
かっこいい…学校をサボってこんなことしてるのがかっこいいのだろうか。しかもお姉さんって。私の方が年下なのに…20歳ぐらいのこの女の人の方が全然お姉さんって感じだ。
「ここで見ててもいい。」
白い女はスカートを捲って、膝を抱えてしゃがみ込んだ。
「あっ、はい。どうぞ。」
キコは竿を持ったまま、ぺこりと頭を下げた。女はまたにこりと笑って、どうぞと声を掛ける。釣りを続けるという事か。針に掛かったままのマブナを外すとフラシに入れて、キコはまた釣りを始めた。
何匹か釣ったとこでまた声を掛けられた。
「ねぇ、 釣りは楽しい。」
「はい、楽しいです。」
キコは針に餌を付けながら、白い女の人に背を向けたまま答えた。
「すごく楽しいです。何か嫌なことがあっても釣りをしてるとすぐに忘れちゃうから。」
竿を振ってポイントに仕掛けを送り込む。
「今日も何か嫌なことがあったの。」
「 はぁ…まあ…そうですね…」
キコはつい口籠った。
そうだ…嫌なことがあったから此処に来ていたんだ…釣りが楽しくてつい忘れていた。
「そうか…でも、もう大丈夫だよ。」
「えっ、大丈夫って何が。」
白い女はスカートの裾を直しながら立ち上がり、こちらにやって来た。
「これあげる。」
キコに向けて差し出した手の平には、小さな桐の箱が乗っていた。
いったい何処に隠し持っていたのだろう。バッグのような物は一切持っていなかったはずだ。
「ほら、開けてみて。」
はぁ、と言ってキコは桐の箱を手にした。サイコロのような正方形の立方体の桐の箱だった。木のいい香りがする…上蓋をそっと開けると、ふわふわとした白いものが見えた。
これって…綿毛…
白い大きな綿毛のようなものが入っていた。
「これって、何ですか。」
女はふふふと笑った。
「綿雪…かな。」
綿雪…と言われてキコはその綿毛に指を伸ばし、触れた。 当然冷たくもなく、雪のように溶けたりもしない。
「お姉さんが何か嫌な事があったら、この箱におしろいを入れてあげて。そうすればこの子がおしろいと一緒にお姉さんの嫌な事もどんどん吸って大きくなるから。」
この子…この綿毛の事を言っているのだろうか。しかも、大きくなる?この綿毛が?だって生きてる訳でもないだろうし、綿毛がおしろいを食べるとでも言うのか…
キコが戸惑っていると白い女は軽くしゃがみ込んで、足元の草むらに隠すように置いてあった紫の長い布袋を手にした。
本当に不思議だ…対岸に立っていた時は確かに何も持っていなかったのだ。
「後ね、よかったらこれ 使ってみて。」
はいっ、と白い女が 布袋をキコに渡す。1メートルほどの長さの布袋だった。何だろう。キコはおずおずと手を伸ばして受け取る。手にした瞬間、馴染みのある感触が伝わった。
竿だ。
ごつごつしとした節のある竿だ。
竹竿だ。
白い女がまたニコリと笑った。
ダメだ…中身が竿と分かったら、キコは居て立ってもいられない。
「あ、あのぉ、開けてもいいですか。」
白い女はこくりと頷いた。
キコはは丁寧に縛り紐を解き、紫の布の中から竿を取り出す。5本継ぎの竹竿だった。簡素な造りで これといった装飾 もされていない。見ようによっては造りかけといった印象さえも受ける。
「見た目は悪いけど調子はいいよ。今よりもっと釣れるよ。大事にしてね 。」
「えっ、大事にしてって…」
「あげるっていう事。」
確かに見てくれは良くないが、何と言っても竹竿だ。決して安いものではない。あげると言われても、出会ってまだ30分もたってない人なのだ。そんな初対面の人からこんな高価なものは受け取れない。
「いいんだよ。そんなこと気にしなくて。」
戸惑いを浮かべたキコの表情から何かを察したように白い女が言う。
でも…
でも…こんな高価なものは受け取れない。
「よかったら繋いで振ってみて。」
でも…
でも…
でも…降ってみたい。
身体の奥からふつうつと何かが湧き上がってくる。 居ても立ってもいられぬ衝動が込み上げてくる。
キコはこの竿の持つ不思議な魅力に勝てず、1本づつ継ないでいく。継ぎ終えるとその竿はまるで生きているかのようだった。大地から天に向け一直線に伸びる破竹、それをそのまま竿にしたかのようだった。一見荒い造りのようだが、そうではなかった。手にしていることを忘れる竿の軽さ、継ぎ口をはめる時の滑らかにすーっと入っていく感触、竿尻のグリップは握るとまるで竿と自分の手のひらが凸凹のようにフィットして、竿と自分が一体化したように感じる。
キコは居ても立ってもいられず川辺へ向かい、竿を構えた。
竹竿には仕掛けは付いていない。
しかしキコは川面に潜む魚に向けて、いつものように竿を振った。
冷たい空気を裂く感触が伝わってくる。
しなやかな弧を描いた竿がまっすぐ伸びる瞬間、穂先が揺れることもなくピタリと止まった。
すごい…柔軟な柔らかさを持つのに、芯はしっかりとしたそれ竿だ。これならどんなアタリでも見逃す事はない。
キコはしばらくそのままの姿勢で呆然としていた。
「良かった。気に入ってくれたみたいだね。」
白い女の声でキコは我に帰った。
「あのぉ、 やっぱりこんな高価なものは受け取れません。」
キコは断腸の思いで言った。
欲しい…欲しくてたまらない…でも振ってわかった。この竿はとても高価なものだ。初対面の人から頂くものではない…
「いいから。」
「ダメです 。」
「本当にいいって。」
「本当にダメです 。」
何度も同じ 押し問答を繰り返した。
でも…でもこれで釣ってみたい…
「困ったなぁ。あたしも一度あげた物は引っ込められないよぉ。」
白い女は小首をかしげて、眉間に皺を寄せた。
「じゃあ貸してあげる。」
「えっ、貸すって…こんな高価な物を。」
キコも 柳眉をハの字に曲げて、困惑する。
「でも、この竿で釣ってみたいでしょ。」
「…はい。」
キコはもう気持ちを抑えられない。
「じゃあ、来年の今日、また此処で会おう。その時まで貸してあげる。」
「えっ、本当にいいんですか。」
うん、と白い女は子供のように頷いた。
「あの…じゃあ、その時に何かお礼をさせて下さい。何がいいですか。」
こんな物をタダで借りるわけにはいかないが、中学生のあたしには二十歳ぐらいの女の人に何あげていいのかなんて分からない。
「お礼なんていいよ。」
「そうは行きません。」
畳み掛けるようにキコが言う。
白い女は小首を傾げた。
「そうだな、じゃあ約束して。来年の今日が平日でも学校 サボって必ず来ること。今日みたいにね。」
キコはバツが悪そうにはははと笑った。
「そして、もうひとつは…」
もうひとつ…
「1年後の成長したお姉さんの姿をあたしにちゃんと見せる事。」
キコの顔が今日のこ空のように曇る。
あたしは来年は成長しているのだろう…
キコは小学生の頃からずっと孤立して過ごして来て、気づいた事があった。休みの日の釣り、学校での読書、独りで絵を書いたり、詩を書いたり、ギターを奏でたり…そういった独り遊びはキコに自我というものを植え付け成長させてくれた。しかし、それでも限界があるのだ。
人は独りでは成長できない。
ずいぶんと長いこと独りでいて分かったことだ。
もう限界が来ていた。
これ以上、成長など出来ない。
出来ない。
出来ない。
あたしの1年後はいったい…
キコは悲しげに白い女を見上げた。
「約束ね。」
女は菩薩のような笑みを浮かべて言った。
すごくいい笑顔だ。
真似したい。
「さぁ、今日はもう帰りな。大雪になるから。」
「えっ、雪?」
雪って…確かに寒くて 曇ってるけど、天気予報では雪なんて一言も言ってなかった。
白い女が右手を差し出した。お別れの握手のつもりだろうか。キコは名残惜しそうにその白い手を両手で握った。ゾッとするほど冷たかった。冷たい女の手の甲にはらはらと雪が舞い降りた。
「ほらぁ、降ってきた。」
「ホ、ホントだ。」
「さぁ、早くお帰り。」
「はい。来年の今日、絶対ですよ。」
キコは冷たい手をもう一度強く握り返した。
「うん、分かった。分かったら早く帰りな。」
2人は土手の上にあがった。キコは軽く会釈をすると自転車に跨り、ペダルを漕いだ。雪は勢いをつけて降ってきた。すれ違う車とのタイミングを測りながら、キコは後ろを振り返った。白い女は手を振っていた。またタイミングを測っては、何度も何度も後ろ振り向く。 白い女の姿は段々と小さくなり、白い雪の中に消えていった。
そういえばお互い名前を名乗らなかったな…
帰り道、雪はどんどん積もっていく。
家はもうすぐだが、もうこれ以上は自転車で走れない。
押して帰ろう。
傘も持たぬキコは白い綿毛に包まれていた。
あくる日の昼休みの長い時間を、キコは教室の片隅で読者に費やしていた。
外は昨日の雪が積もったままで、乱反射が眩しい。クラスの男子は雪の中ではしゃいでいるが、ほとんどの女子は寒いからと教室の中にいた。
黒板の前には与野井(ヨノイが手下を引き連れて立っていた。
与野井梨花…漆黒の黒髪に大人びた顔つきで、クラスのリーダー格であった。純粋培養の花のような 怪しさを秘めた彼女は不思議なカリスマ性を持っていて、学校中の男女はおろか、先生さえも一目置いていた。痩せていてバレリーナのように手足が長く、 姿勢も良い。ダサくなりがちな 学校の制服さえ、彼女が着るとそのままファッション雑誌の一面を飾ってもおかしくないほどであった。
ヨノイの美貌は学年 1、いや学校1と言っても過言ではなかった。もしヨノイがいなければその座にはギンコが座っていただろう。
原吟子…ヨノイの側近で腰巾着とも揶揄されていた。
そのギンコが腰を屈め、探りを入れるようにキコに近づいてきた。
「キイイィーコちゃん。」
親しげに話しかけてきた…親しくなんかないのに。
「 昨日は何で休んでたの。」
「別に。具合が悪かっただけだよ。」
キコは本から目を離すことな、 無愛想に答えた。
ギンコはニィっと薄気味悪い笑みでキコの顔を覗き、猫など声で話しかけてきた。
「キコちゃん、イジメって虐められる側にも原因があると思うんだ。」
何を言ってるのか、すぐには理解できなかった。
ふざけるな!
虐められる原因などあるものか!
あるとすればそれは虐める側だ!
同じ土俵に上がるな…じいちゃんが店でよく口にする言葉だ。くだらない野郎と渡り合ったら自分も同じレベルの人間になる。質の悪い酔っ払いに対しての言葉だったが、キコはその通りだと思った。だからキコは意識してないそうならないように努めてきた。
虐める奴らと同じ行動は取らない。
非のある行動は取らない。
「キコちゃんから頭を下げれば、きっとみんな仲良くしてくれると思うんだ。」
気味の悪い笑顔を更に近づけ、ギンコは言った。
言葉の節々に悪意が潜んでいる…すぐにピンときた。こいつはあたしの事を心配してるんじゃない。懐柔してヨノイの手の下にしようとしているだけだ 。おそらくはヨノイに言われてしているんだろう。
私は人に頭を下げるような事はしていない。
その言葉を発するより先に手が出ていた。ギンコはうずくまって、両手で顔の鼻のあたりを抑えている。指の隙間からは朱の液体がこぼれ落ち、クラスの床を赤く染めた。本能的に手加減はしたものの、キコは幼い時から空手を習っている。握りしめた拳は人差し指の付け根の皮がすりむけていた。
後日、ギンコの両親が学校に怒鳴り込み、それに飽き足らず「外道屋」にまで押しかけた。しばらくは相手の言い分を静かに聞いていた店主だったが、突然「それは殴られて当然だろうが!」と凄みの効いた声で一括した。相手が悪かったようだ。ギンコの両親はすごすごと退散していった。
学校帰りのキコは店の出入り口から出て行くギンコの両親を横目に、裏口に自転車を止めた。制服のまま2階に上がる。頭が重い。キコはベッドに横になった。少し楽になる。
同じ土俵に上がってしまった…
何故あの時あんな行動を取ってしまったのだろう。言葉で講義するつもりが、つい手が出ていた。ギンコはあれから学校に来ていない。
そのことが気にかかっているわけじゃない。
あれから クラスの雰囲気は少し変わった。キコへのいじめは控えめになり、ヨノイは憑き物が取れたように大人しくなってしまった。一部の生徒に至って羨望の眼差しでキコを見るようになった。
キコは心の均衡がうまく取れなかった。急に親しげにに話しかけてくる一部のクラスメイトに対して どう接して良いかわからなかった。
憑き物が取れたのはあたしも同じなのかもしれない …
心の置き場所がわからない。
この不安定なまで気持ちが思春期ってやつなの。
それともこれが心の成長ってやつなのか…
あたしは同じ土俵に上がったのではない…初めて 対等に渡り合ったんじゃないか…いや違う…違わない…わからない…
キコは霧の箱におしろいを入れた。
3月に入り春休みとなったある日のことだった。
冬の間中ずっと冷たく強張っていた用水路の川面は仄かにに緩み、水面は柔らかな春の日差しを浴びてキラキラと輝いている。キコはいつものように其処で竿を振っていた。
「おい、楽しいか?」
キコの背後で聞き覚えのある声がした。
水路の土手の上にはヨノイがいた。
薄いサーモンピンクのモヘアのセーターにフリルの襟元に 黒いリボンタイ。ひらひらとした白いスカートにスエードの黒のロングブーツ。セーターに合わせて薄いピンクの帽子までかぶっている。いかにも良いとこのお嬢さんといった出で立ちだった。実際にヨノイの家は佐原の有名な゙名家ではあるのだが、しか 用水路のあぜ道に来るような格好ではなかった。一人でいることに見られないせいか、どことなく落ち着きがないように感じられた。
「うん、楽しいよ。」
キコこは努めて明るく言った。
「お前はいつもここにいるよな。」
「そうだね。」
「こんな小さい川でいったい何を釣っているんだ。」
「鮒だよ。」
「フナ?」
「そう、鮒。 今の時期の鮒を【巣離れ鮒】って言うんだ。鮒は秋になるとだんだん深場に移って行って、寒い冬の時期は川の一番深い所にみんなで集まって身を寄せているの。寒さも開けて陽が明るくなる春には、その巣からみんな散り散りバラバラに離れて徐々に動き始めるんだ。産卵に向けてね。」
「巣離れ…鮒か…」
そういったきりヨノイは口を噤んだ。
辺りには静けさが訪れる。
春野の穏やかで、風もない。
遠くの竹藪でピーピーと甲高い鳴き声がした。
ヒヨドリだ。
「やってみる。」
「えっ、な、何を。」
静寂を破ってキコが言うと、ヨノイは虚をつかれて思わず口淀んだ。
気のせいだろうか…ヨノイはおどおどしてるように見えた。
こんなに余裕のないヨノイは初めてだ。
「釣りだよ。」
キコは水中から仕掛けを上げて、その竿を差し出す。
ヨノイは一瞬迷ったが、キコのいる川辺まで拙い足取りで土手を降りてきた。卸したてのような黒いロングブーツが泥にまみれる。
ヨノイがあたしの土俵に降りてきた…
キコは何時ぞやギンコを殴ったその右手でヨノイに竿を手渡した。
ヨノイは恐る恐る手を伸ばし、竿を受け取る。
キコとヨノイがこれほどの至近距離で接したのは初めてのことだった。
これが 釣り竿か…初めて見るけど竹で出来ているんだな…随分と簡素な造りだけど、実際に握ってみると竹の温もりが気持ちいい…なんだか懐かしい温もりだ…小さい頃に母親に手を繋がられていた頃を思い出す…
その竿は白い女から預かっている竹竿だった。
「おい、これってどうやって持つんだ。」
強気な言葉とは裏腹に、ヨノイは不安げな表情を覗かせた。
初めて見る顔だ。
「竿尻を持って…そう…軽く握って…そうそう。人差し指を伸ばして、そう!竿に添えて…」
羽毛のように白くて柔らかいヨノイの手を取って、キコは丁寧に教えた。
キコの手は暖かいな…
少しほっとして、ヨノイはキコに身を委ねた。
「そう。じゃ 軽く振ってみて。」
竿を天に向けたまも、竿先を揺らしてみた。
ヨノイから甘いバニラの香りが漂う。
キコの好きな香りだ。
心が幸せになる香りだ 。
「じゃあ、釣ってみようか。」
腰のベルトに取り付けた木製の箱を開けて!キコは中からキジを取り出した。
それを見てヨノイは2歩3歩と後退りをした。
「それって…ミミズか。」
「そう、釣り用語でキジって言うんだけどね。」
「…キジ?」
「針に刺すと黄色 い血が出るからキジって言うんだ。」
ミミズってだけで嫌なのに、そんなことまで聞いたらもう絶対に触れない…
竿を持って固まったままのヨノイを見て、キコはふっと笑った。
「大丈夫、あたしが付けるから。」
キコは小さな針に器用にキジを縫い刺しにする。
針先から 余ったミミズがうねうねと動いた。
もうダメ…ただでさえ虫が嫌いなのに、こんなものが自分の近くてうねっているなんて耐えられない。 もしこの仕掛けを投げた時に少しでもそのキジってやつがあたしの身体に触れたらきっと死んじゃう…
「ゴメン…あたしにはやっぱり無理だわ。」
ヨノイは伏し目がちに下を向いて、キコに竿を渡した。
キコは悲しげに眉を顰めたが
「まぁ、普通は苦手だよね。女の子なら。」
と至って明るく振る舞い、ヨノイから竿を受け取った。
くるりと踵を返して、キコは川岸に向かった。
「意外と難しいもんだ…」
ヨノイが 寂しそうにつぶやく。
「えっ、何?」
振り向いてキコが聞くが、ヨノイは何も言わなかった。
釣り場にはまた静寂が訪れるた。
キコはヨノイなど最初から居なかったようにウキに集中している。
雀の群れが頭上をとびさった。
遠く自動車の排気音さえ、霞に包まれ優しく聞こえる。
実に長閑だった。
ムクドリがまた鳴いた。
「じゃあ…帰る。」
ヨノイは蚊の羽音のように呟いた。
その声は弱々しくキコの耳に届いた。
「…うん…」
ぬかるんだ土手を危なげに登るヨノイの不慣れな足音が不協和音を奏でる。卸し立てのような黒いロングブーツはもうとっくに泥まみれなのだろう。
足音が止まった。
土手は上がりきったのか…
辺りはまたしんと静まった。
ヨノイは去ったようだ。
「帰っちゃったか…」
ヨノイ…何しに来たんだろう…あんな綺麗な格好してきたのに、靴 だって泥だらけになって…でもまあ、普通の女子ならミミズなんてダメだろうし、帰るのも当たり前だよね…
ウキにあたりがあった。合わせると小気味良い感触が手に伝わる。水面を割って現れたその鮒をキコはつかみ損ねた。魚は2度3度と宙を舞いキコの手に納まった。いつかもこんな事があった…小菅老人と会った時と…白い女と会った時と…そう、あの時と全く同じだ…
キコはマブナを手にしたまま辺りを見回した。
もしかしたらまだヨノイがいるんじゃ…
しかしヨノイはいなかった。
マブナはフラッシュに仕舞い、すぐ 土手に駆け上がったが、その姿はどこにも見当たらなかった。
それから3日後の早朝のことだった。
「遅いぞ。」
いつもの用水路でしゃがんで仕掛けを作ってるキコの背後で声がした。
「えっ…なんで…」
キコが振り返ると、ヨノイが土手の上に立っていた。
今日もひとりだった
「もう、3日も此処でお前をまっていたんだ、キコ。」
ヨノイが初めてあたしの名前を呼んだ…キコって呼んだ…今までおいとか、あいつとか、あの野郎としか言わなかったのに…
「まったく。春とはいえ、早朝はすごく寒いんだぞ。」
いつものようにお洒落な出で立ちでとても川辺に来るような格好ではなかったが、靴だけは汚れてもいいように使い古したスニーカーに代わっていた。手袋はしていたが、それで 手がかじかむのか、白い息をかけて寒そうに擦り合わせている。
「あっ、ゴメン!」
反射的に謝ってしまったが、そんな約束もしていない。
「てゆうか、なんでヨノイがまた此処にいるの。」
「巣離れをしにきたんだ。」
ヨノイ はこすり合わせていた両手を偉そうに腰に当てて、大上段に構えて言った。
「巣離れって…釣りをしに来たの。」
「違う!」
即座にヨノイは否定する。
「あたしには釣りは無理だ。あんなキジなんて触れないし、そばにそれがいるってだけで嫌だ。」
「じゃあ、何しに来たの。」
「だから巣離れだ。」
「どういう事?」
「巣離れは巣離れだ。何回も言わせるな。」
キコは困惑して眉を顰める。
ヨノイは頼りない足取りで土手を降りてきた。
「あたしは巣離れをする為にここに来たんだ。だからキコ、巣離れ鮒とやらを釣ってあたしに見せてくれ。」
キコと向かいあったヨノイの顔は少し紅潮しているように見えた。
「巣離れ鮒を見たいの?」
真っ直ぐな瞳でヨノイはキコの瞳を捉え、こくりと頷く。
「いいけど…でも巣離れ鮒って言ったって、見た目は普通の鮒と変わらないよ。」
「それでもいいんだ 。」
あたしを見るヨノイの目はこれまでとは何処か違っていた。いつもの勝ち気な黒い瞳には、人を見透かしたような蔑んだような高慢な瞳は、その光沢を失い、どこか幼児の如く怯えたようなすがるような頼りない視線に変わっていた。一点の曇りが見える その黒い瞳を見てると吸い込まれそうな目眩を感じて、あたしは何故か胸の奥が切なくなってくる。いったいどうしたんだろう…今までヨノイのことなど何とも思わなかったのに、今その顔を見てると心が締め付けられる…まるで内臓は鷲掴みにされ、雑巾のように絞られているようだ…
絞った雑巾から今まで溜め込んだ汚れた水が大量に搾りを散るのをキコは感じた。
「釣ってくれるか、キコ。」
絞り出すような声でヨノイが言う。
「でもさぁ、ヨノイ。この間も言ったけど、寒鮒は冬を超す為に深い所でみんなに一緒に固まってるから、ポイントさえ分かればたくさん釣れるけど、巣離れ鮒はそこからみんな散り散りバラバラに巣立って行くから、鮒が何処にいるは分からない。釣れるかどうかは、やって見なきゃわからないよ。」
「もし釣れなきゃ、また明日来ればいいだろう。」
「えっ…明日?」
「そうだ、明日だ。」
「でも、あたしは釣りが好きだから別にいいけど、ヨノイはつまらなくない?」
「つまらなくはない!」
畳み掛けるようにヨノイは言った。
「キコと一緒なら…」
ヨノイは伏し目がちに弱弱しく囁く。
「あたしはなぜか…楽しんだ。」
その言葉にキコは一瞬驚いたが、すぐに菩薩のような笑みを浮かべる。
「うん…わかったよ…」
キコは大きく呼吸して言った。
自分の内に溜め込んでいたものを春の空に吐き出すように言った。
遠くで ムクドリがまた鳴いた。
古釣庵釣り雑記帳〜「釣りキチ三平」矢口高雄氏に捧ぐ 第一章【雪女の破竹竿】 @wachisanpei
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