第2話 外道屋

 いつもは薄暗い小野川沿いの道は、降り続く雪が積もったせいで夜だというのにほのかに白く輝いている。普段から見慣れた風景の佐原の街並みは、住宅の屋根や塀、川沿いの手すり、さらには街路樹の葉の1枚 1枚までが雪化粧によりその輪郭をはっきりと際立たせ、まるで初めて訪れた街のように新鮮に見えた。

 この雪では商売にはならぬと、店という店がシャッターを降ろしている。通りは住宅から漏れる灯りと街灯のみで薄暗く、人の出歩くような気配もない。街 はまるで死んだようだった。足のくるぶし

がゆうに隠れるほどに積もった雪道の先にぽつんと明かりが灯った店が見えた。


 【外道屋】だ。


 暖簾をくぐり格子戸を開ける。


 「おやっさん、すごい雪だね。」

 雪の積もった懐古趣味の赤い蛇の目傘を畳み、古井戸は肩にかかった雪を手で払った。

 「あぁ。この雪でもやってくる酔狂な客のせいで、店も閉めらんねえよ。」

 厨房の中でカウンターに背を向けて調理をしていた店主は、振り返って言った。店内にはちらほらと客の姿が見える。店主の歯に衣を着せぬ言動に、店内のそこかしこで笑いが起きた。

 「何を言ってるんだい、おやっさん。ありがたい事じゃないか。僕もそうだけど自営なんて日銭商売、店を閉めればその日の売り上げは全くの皆無だ。誰も保証してくれないからね 。」

 「おめえらの予約がなきゃとっくに閉めてるよ、 こんな日はな。」

 古井戸は苦笑する。

 「この雪だ。てっきりおめえからキャンセルの電話でもかかってくるかと思ったが来ゃしねぇ。 見てみろ、周りで開けてる店なんか一軒も無ぇぞ。」

 「ありがと〜、古井戸さぁ〜ん。おかげでこんな日でもなんとかお酒にありつけましたぁ。」

 酔客が良いに任せて軽口を叩く。店内にまた笑いが響くと、入り口の格子戸がガラガラと荒っぽい音を立てて開いた。

 「うるせえジジイだな。この雪の中、こうして来てやったんだ。感謝ぐらいしゃがれってんだ。」

 四角い馬鹿でかい弁当箱を2つくっつけたような頭と身体の大男が入ってきた。

 伴だ。

 傘も差さずに単発の短髪の角刈り頭に雪を積もらせている。 

 「全くもってついてねぇ日だな、こりゃ。ゴロツキまで入って来ゃがったぜ。」

 店主の悪態にまた笑いが起きる。

 伴は、ふんっと鼻を鳴らした。

 「おやっさん、奥の座敷でいいのかい。」

 「こんな日は座敷なんてガラ空きだ。好きな部屋を使え。」

 無愛想に答えると、店主は背を向けてまた調理へと取り掛かった。

 座敷に向かいながら古井戸はカウンターの上のネタケースの中を確認した。

 「おやっさん、これはボラかい 。」


 外道屋…千葉県は佐原にて、キコの祖父が営む地元密着型の居酒屋。この店ではマグロ、タイ、ヒラメといったいわゆる王道の魚メニューはない。釣りにおいて外道と呼ばれる、はぐれものの様な魚のみを取り扱う事がこの店の特徴であった。


 「卸してあるのに、よく分かったな。寒ボラだ。房州で取れたものだから臭みもない。後で刺身で出してやる。」

 店主が背中越しにそう伝えると、お座敷からキコが現れた。

 「先生、この雪の中をわざわざありがとうございます。」 

 何処ぞの高級料亭の女将のような振る舞いで、深々とお辞儀をする。

 「なんだ、おめぇ。今日もまたヘンテコな格好しやがって。メイド服ってやつか。」

 キコは普段はボーイッシュなショートカットだが、場面場面で付け毛をつけ、それに合わせた服装を楽しんでいる。大学に通う時はロングヘアーにいかにも 女子大生といった服、店で働く時は着物を着ている時が多い。本人はコスプレではなく変装だと言っている。

 「違うよ、伴ちゃん。今日のは割烹着。」

 女将のような淑やかさとうって代わり、普段の声でケラケラとガサツに笑った。キコは黒い着物に大きなフリルの白い割烹着を召していた。

 

 俺にはどう見てもメイド服にしか見ぇねえぜ…と言っても流行のメイド喫茶 なんて言ったこともねぇから、詳しくは知らねぇが…着物に合わせて髪をアップさせてるが、こいつはもともと髪は短けぇ。って事はカツラじゃなくて…何て言ったけなぁ…ウ…ウィ…そうだ…ウィックってやつを付けてるのか…



 「横浜のとあるケーキ屋さんの制服なんだ。少し大正モダンな感じでかわいいでしょ。店員さんと仲良くなって1着譲ってもらったの。」

 キコは茶目っ気たっぷりに片目をつむると、今度はがらりと態度を変え古井戸と向き合う。

 「先生、あと少しでバイトもあがります。それまで ごゆるりと飲んでお待ち下さい。」

 先ほどの女将のような振る舞いに戻り、憂いを帯びた艶のある声で古井戸にそう告げた。どうやら、お気に入りの割烹着に合わせて雰囲気を作っているようだ。

 「この野郎、古井戸と俺で態度を変えやがって。おいキコ、早くビール持ってこい。」

 はーい、といつもの20歳のキコの声で返事をすると、座敷を後にする。

 伴は軽く舌打ちをすると座敷の襖を開け、ドスドスと足音を立てて奥の席に向かい、ドスンと立てて座った。古井戸はを手にしていた桐の大箱を丁寧に畳の上に置くと伴と対座して座り、胡座をかいた。

 こんな雪の日は客もまばらで忙しくもないのか、キコはお盆を手にすぐにお座敷に戻ってきた。おしぼりとお通し、ビールグラスを2人の前に並べると、しなやかな手付きでグラスにビールを注ぐ。

 「キコ君、おまかせで3品ほど料理を運んでくれ。」

  古井戸は伴とグラスを合わせながらキコに告げた。

 キコはゆるりと頷き、座敷を後にした。

 「しかし古井戸、よく手に入ったな。」

 グラスのビールを一気に飲み干して伴は言った。

 古井戸は目を伏せて、ふふふと笑った 。

 「何だてめえ、何がおかしいんだ 。」

 「伴よ、今日はもっとすごい事が起こるかもしれんぞ。」

 「すごい事だと…」

 伴は空になった自分のグラスに手酌でビールを注いだ。

 「【ゆきめ】の竿がな、もう1本拝めるかもしれん。」

 「馬鹿な!」

 古井戸の言葉に、伴は思わず注いでいたビールの手を止めた。

 「古井戸、俺はこの【ゆきめ】の竿をずっと以前からおめえに依頼していたけどな、正直期待はしていなかったぜ。なんせ、幻の竿だ。手に入らなくても当たり前だと思っていたからな。それを言うに事欠いて、もう1本だと。」

 伴は瓶ビールを手にしたまま、興奮気味に捲し立てた。

 「まぁ、僕もまだお目にかかっていない。だから何とも言えないがね。」

 「ってことは何かい。これから誰か現れて持ってくるのか。」 

 伴はギロリと片目をひん剥いて古井戸を睨む。

 「あぁ、キコ君だ。」

 「は、はぁ…」

 伴は間延びしたような声で、喉の詰まり物を吐くように言った

 「あの小便臭ぇ小娘が 【ゆきめ】の竿をを持ってくるだとぉ…お前な、馬鹿も休み休み。」

 「しかし、本人がそう言ったんだ。」

 古井戸は真顔で答えた。

 「いったいどういう経緯だ。」

 「今日、伴に渡す【ゆきめ】の竿を見せたところ、 自分も同じ物を持っていると言うのだよ。まぁ今日はこの雪で客足も少ない。すぐにでもバイトを上がってこの座敷に来るだろう。その時のお楽しみだ。」

 座敷の襖がガラガラとガサツ の音を立てて開いた。

 「ほらよ、 まずはボラの刺身だ。」

 「おっ、おやっさんが直々に運んでくるってことは、お孫さんはもうバイト上がったのかい。」

 「あぁ、身内とはいえバイト代は払っているんだ。 こんなヒマな雪の日は人件費がもったいねぇってもんだ 。今、上で着替えてらぁ。」


  住居である 2階に上がり、フリルのついた割烹着と黒い着物を乱暴に脱ぎ捨てると、キコは下着のまま洗面台の前に立った。真っ白い洗面ボウルに細長い華奢な両手を付いて前屈みになり、鏡に向かって笑顔をつくる。菩薩のような柔らかい笑顔だった…



 

 少女は無理をしていたのかもしれない。


  その日はせっかくの日曜だというのに、とても寒く暗かった。空一面を覆っている冬特有の灰色の雲は、まるでキコの心の中にまで充満しているようだった。

 キコは起きると2階の洗面台に立ち、鏡の前で笑顔を作る。そしてその日の一番いい笑顔が出来ると、 そのまま店舗である1階に降りて行き、仕込みをしている祖父に挨拶をする。目一杯大きな声で「じいちゃん、おはよう!」と朝の挨拶をする。

 小学生のキコの日課だった。


 じいちゃんには余計な心配はかけたくない…


 しかし、今日は何故かうまく笑顔が作れない。まるで顔の右半分と左半分を同時に違う動きができるようになったみたいだ。鏡に映った自分の顔が気持ち悪くぐにゃりと歪む。キコはひどく驚いて、慌てて1階へと降りた。

 誰もいない。

 祖父はまだ早朝の仕入れの買い出しから戻っていないようだ。厨房はしんと静まり返っている。壁掛け時計の針が刻む機械音だけが店内に響き、キコの心臓の鼓動と共鳴した。


 息苦しい …


 なぜか急にうまく呼吸が出来なくなり、慌てて厨房の裏口に向かう。ドアを開けると外はひんやりとした新鮮な空気に満ちていた。キコは大きく深呼吸をした。何度も何度も…呼吸して少しずつ 気分が落ち着いてくると、店の脇にある小さな倉庫が目に入った。キコは倉庫の中から延べ竿と釣り道具の入ったバッグを手にすると、当てもなく自転車を走らせた。背後に広がる重たい鉛色の雲からは逃れるようにペダルを漕いだ。

 利根川の土手沿いは吹き晒しで、とても寒かった。 もう少し何か着てくればよかったと後悔する。足は自然と小鮒を釣っているいつもの場所へと向かっていた。

 はるか前方に、斜め左下へと土手を降りる道が見える。

 その先には田んぼが広がり、その間を利根川から流れ出す用水路が伸びていた。キコのお気に入りの釣り場だ。しかし今日は普段と様子が違っていた。小学生の集団が戯れている。どうやらキコをいじめている同級生たちのようだ。

 キコはイジメにあっていた。

 クラスのみんなから無視されていた。それは他のクラスにも伝わり同学年へと広がっていた。

 しかし いつものキコなら気にもせず「おはよう!」と返ってくることのない挨拶をキコからして、堂々と一人で釣りに興じられた。だが、今日は違った。ペダルの速度を緩めることができない。


 足が震えていた…


 キコは用水路には向かず、そのまま利根川沿いの土手の道を真っ直ぐに抜けた。少しでも早くその場を離れたいと、スピードを上げた。自転車は漕ぐ向かい風と 寒風が相まみれて自分の顔に吹きかかってくる。耳がちぎれそうに、冷たく痛い。


 ふいに涙がこぼれた。

 一度 こぼれると止まらない。

 またこぼれた。

 違う…違う…

 向かい風で目が乾燥したせいだ。

 そうに決まっている。

 冬の枯れた景色が度のきつい眼鏡を掛けたように 滲んでいく。

 慌てて手で拭った。

 どれぐらい走ったんだろう…此処はどこなんだろう…


 利根川から流れ出す用水路をもういくつも超えた、 そんな時だった。前方左の土手下に見える用水路の橋の袂には、たくさんの車が停車していた。白い小さなマイクロバスも見える。


いったい、何だろう…あんなにたくさんの車が…


 キコは自転車のスピードを緩め、利根川沿いの道から用水路へ向かう道へとハンドルを切った。緩やかな坂をゆっくりと降りてその橋を目指した。

 その用水路は真冬だというのにすごい釣り人の数だった。

 橋げたの護岸とその土手はコンクリートで整備され、水面には沈められたテトラが所々に頭を出していた。橋の四隅にある親柱にキコは自転車を立て掛けた。柱には【七軒川 地蔵橋

】と書いてある。護岸には無数の年老いた釣人たちが竿を振っていた。

 「寒ブナを狙っているんだ …」

 寒い時期のフナは水深のある障害物の中でじっとして春を待っている。このテトラは越冬には好都合 なのだろう。橋の下で釣っていた老人の竿がしなった。良型のマブナだ。手慣れた動作で針から外、 魚が溢れるフラシへと入れた。


 すごい…50匹は釣れている…


 キコは急にワクワクしてきた。

 橋の下周辺は老人たちに占拠されている。キコは少し下流に釣り座を構えた。餌は昨日使った赤虫が残っているはずだ。バックから 道具を取り出し、仕掛けを作って餌をつける。寒さで手がかじかんで、小さな赤虫をうまく針につけられない。 5匹ほど房掛けにするとキコは竿を構え、水面から頭を出して テトラの脇に仕掛けをそっと 送り込んだ。色とりどりの小さな玉浮きが8つほどの等間隔で取り付けられたシモリ仕掛けだ。しばらくアタリを待つが反応はない。竿を少し上げてポイントを右に移動する。やはりアタリはない。同じ動作を何度か繰り返したが、同じ事だった。橋の下の老人たちは頻繁にマブナを釣ってるというのに。


 「嬢ちゃん、下手くそだな。」

 何度か仕掛けを振り込んでると、突然声を掛けられた。キコが振り向くと、1人の老人が立っていた。白髪が寝癖のように飛び跳ねていて、街で会ったら浮浪者と思ってしまうかもしれない 。失礼だけど… 

 「竿裁きは一丁前に決まってるんだがなぁ。 どれ、 ちょっと仕掛けを見せてごらん。」

 子供のように無邪気に微笑んで老人が近づいてきた。

 キコは仕掛けを水面から抜いて、竿ごと老人に渡した。

 「あぁ、 これじゃダメだ。」

 渡すなり、いきなりダメ出しを喰らった。

 「な、なんでダメなんですか。」

 キコは小学生独特の舌足らずな゙声で聞き返した。

 「しもり仕掛け何か使ってる奴なんていねぇぞ。」


 フナは底を釣れという格言がある。しかし水底は必ずしも真っ平らじゃない。川の中心に向かってだんだんと深くなっていくし、窪みなどもある。テトラなどあれば尚更だ。小さな玉浮きがたくさん付いてれば、その深さに応じた浮きが対応してくれる。しもり仕掛けとはマブナ釣りの為に考え出された釣り方なのだ。


 「この時期のマブナのアタリは小さいんだ。こんなに浮きがたくさんあったら、浮力が強すぎてアタリがあってもわからないぞ。」

 老人はキコの竿の長さを確認すると、腰に巻いたバックからそれに対応した仕掛けを取り出してキコ

の竿に取り付けた。

 「ほら、この仕掛けでやってごらん。」


 仕掛けは極小の立ち浮きを使ったごく普通の仕掛けだったが、1点変わってるのは、針を結ぶハリスという糸が極端に短いことだった。浮きが1つしかないということはその都度、深さに終わって水深を測るのか…しかし、 この川はどんよりと濁っていて水底は見えない。そして無数のテトラが沈んでいるのだ。水底だと思った場所がまだテトラの上だったりすることもあるだろう。水底に餌が付いていなければマブナは釣れない。


 「少し面倒だが、あちこち探りながら仕掛けが1番深くまで届くところを見つけるんだ。 そこがテトラの隙間をぬって水底まで届くポイントだ。この時期のフナはそんな所に固まっている。それさえ見つければ大漁間違いなしだ。」

 老人がキコの頭の中を見透かしたように言った。

 「ハリスがやけに短くないですか。」

 「 嬢ちゃんのが長すぎだ。さっきも言ったが、この時期のマブナのアタリは小さい。ハリスが長いと伝わりにくいだろう。」

 なるほど、と頷いてキコは餌の赤虫を針に付けようとした。

 「ちょっと待った。」

 老人はまたしても腰に巻いたバッグから何かを取り出した。プラスチック製のオレンジ色の太い注射器だった。当然先端に針は無く、中には練り餌が入っていた。

 「この寒いのに、そんなかじかんだ手で小さい赤虫を針に付けるのは大変だろうが。それに赤虫をつけて出た赤い液が付いた汚い手で、握り飯なんか食いたくないだろう。」


 意外だった…そんなことを気にするほどデリケートには見えない。落ちたオニギリだって平気で食べそうだ。失礼だけど…

 

 「これはな、俺が作った特製の練り餌だ 。小麦粉にクロレラとにんにくパウダーとか色々入れてある。人間だって食べれそうだぞ、嗅いでみろ。」   

 老人の手にするオレンジ色の注射器にキコは鼻を近づけた。

 「バニラの香りがする!」

 キコの好きな香りだ。

 心が幸せになる香りだ。

 「分かったか 。バニラエッセンスを入れてるんだ。」

  ハイカラだろう、と老人は高らかに笑った。

 「じゃあこっちに来てごらん。」

 老人はキコに背を向けて護岸を歩き、橋の下へと向かった。キコはその後をついて行った。橋に近づくにつれ、釣り人の数が多くなる。キコは邪魔にならぬよう、すいませんと小さく頭を下げながら老人たちの脇をすり抜けた。

 「なんだい、小菅のじいさん。今日は孫でも連れてきたのか。」

 「いや、孫じゃなくてひ孫だろうが。」

 あちこちから軽口が飛ぶ。

 「馬鹿野郎、俺の彼女だよ。今そこでナンパしたんだ。」

 「ずるいなぁ、俺が先に声をかければ良かった。」

 橋の下は老人たちの笑い声が残響のように響いた。


  あたしの初めての彼氏はこんな老人だったんだ …そんな事、夢にも思わなかった…


 悲しむのは失礼なのだろう。だが、嬉しくはない。キコはどんな顔をしていいか分からなかった。


 「三郷さん、悪いなぁ。ちょっと此処で釣らせてもらえないかい。この娘に釣らせてあげたいんだよ。」

  老人はどうやらこの辺では顔のようだった。三郷 という老人はふたつ返事で承知した。

 「よし、嬢ちゃん。頑張れよ。小菅のじいさんの餌じゃダメかも知れないけれどな。その時は俺の餌を貸してやる。」 

 三郷 老人はオレンジオレンジ色のプラスチック製の注射器を手にして、キコの背中をポンと叩いた。 「馬鹿野郎 、その餌だって元はと言えば俺が教えてやったんじゃねえか。」

 小菅老人はすぐさま反論する。

 老人たちは本当に楽しそうだった。

 キコもつられて笑った。

 「それじゃ 嬢ちゃん、このポイントの棚は…」

 「ありがとうございます。でも自分でやってみます。」 

 三郷老人が喋りかけたところでキコが言った。

 老人は、ほぅっと唸った。

 「そうか、自分でやることは良いことだ 。それじゃあ、お手並み拝見と行くかね。」

 三郷老人はキコの後ろに回り、小菅老人と並んだ。キコは棚をとるべく、竿を構えて振った。

 「おいおい、なんだよ小菅さん。この娘、素人 じゃねえな。」

 「繊細でキレイな竿さばきだろう。俺も遠くから見てびっくりしたんだ。」

 「これじゃあ特に教えることもないな。すぐにコツをつかんで釣っちまう。」 

 数回竿を振って棚も取れ、ポイントが定まったようだ。一呼吸入れてキコはまた構えた。周りのことも目に入らぬ様子で水面をじっと見た。

 「すごい集中力だな。」

 三郷老人が唸った。周りの釣り人たちもキコの一挙手一投足に目を奪われていた。キコはしなやかに仕掛けをポイントに送り込んだ。浮きがすうっと流れ立ちこむ。竿を少し上げて、竿先から浮きまでの糸のたるみを取る。

 「おっ、ちゃんと分かってるな。寒ブナのアタリは小さい。その小さいアタリで合わせるには、糸がたるんでいたら合わせが送れるからな。」

 「そうだろう。何と言っても俺の彼女だからな。」

 小菅老人が軽口を叩いた瞬間、キコの浮きに小さな波紋が立った 。

 「来たな!」

 三郷老人が叫ぶよりも早く、キコは竿を合わせた。水底より気味良い振動が伝わる。この瞬間!キコは生命の躍動を感じる。自分も魚も生きてるんだと感じる。

 水面を割ってやや小ぶりのマブナが上がると同時に周りから拍手が起きた。キコは驚いて魚を掴めそこめた。魚は二度、三度と宙を舞い、キコの手の中に収まった。まだ拍手は鳴り止まない。キコはマブナを手にしたまま、辺りを見回した。


 なぜかみんな私に注目している…なんで…いつから…キコは恥ずかしそうに頭を下げてお辞儀をした。


 「嬢ちゃん、昼飯は持ってきたのか。」

 何匹か釣ったところで小菅老人の話しかけてきた。


  そういえば朝食も食べていないのだ…言われたら急にお腹が減ってきた…あれ、お腹が鳴った…キコは慌てて腹を抑えた。お腹も減ったが、じいちゃんには何も言わずに出てきたのだ。今頃、心配してるかもしれない…


 「あ、あたし…」

 小菅 老人は にっこりと笑った。

 「そうだな、そろそろ帰った方がいいだろう。」

 この時期には釣りに来るには 少し薄着で部屋着のようなキコだった。まして 釣りに来ているのに昼飯も用意していない。この辺にはこれといった店も一軒もない。昼飯を買える場所もないのだ。

 老人は何かを悟ったようだった。

 「あっ… はい、すみません。あの、あたしキコっています。」

 キコははにかんで言った。

 そういえばまだ名前も名乗っていなかった。

 「俺は小菅だ。まぁ、もう知ってるだろうけどな。」

 そう言って老人は土手の上に停車してある白いマイクロバスを指さした。車の側面に黒字で【亀戸真鮒同好会】と書いてあった。


 亀戸…東京の亀戸から来てるんだぁ。


 「俺たちは冬場はよく此処に来ている。寒ブナの名ポイントだからな。今此処にいる人たちは同好会の人たちだけじゃない。地元の人や、茨城、埼玉 辺りから来てる人もいる。此処ではみんな友達だからな。キコちゃんも此処でこうして出会えたから、もう友達だ。だからいつかまた此処で会えるといいな。」

 老人は右手を差し出した。

 友達…キコは呟いた。

 「友達じゃなくて彼女ですよね。」

 キコは大人びた声で悪戯っぽく言うと、老人の手を握った。

 「そうか、そういえばそうだったな。」

 小菅老人は笑った。

 キコも笑った。

 「キコちゃんはいい笑顔をするな。何か辛いことがあったらまた此処に来い。」

 何もかも分かっているかのように小菅老人は言った。

 

 ずっと忘れていた言葉だった。

 私には縁のないと思っていた言葉。

 友達…友達…

 その言葉はペダルを漕ぐリズムと調和して、頭の中を何度も何度もぐるぐる 駆け巡った。  


 私の笑顔はそんなにいいのだろうか。

 なんだか早く帰って鏡を見たくなった。




「おぉ、寒い!」

 雪の夜は底冷えする。

 「さぁて、着替えて下に降りなくちゃ。お座敷で先生も待っているし。」

 下着姿のキコは洗面台の鏡に背を向け、上着を羽織って自分の部屋に向かった。






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