古釣庵釣り雑記帳〜「釣りキチ三平」矢口高雄氏に捧ぐ 第一章【雪女の破竹竿】 

@wachisanpei

第1話 古井戸とキコ

 白い綿毛が舞った。

 はらはらと舞った。

 結露した虫籠窓のガラスの外を舞った。

 キコは思わず声をあげた。


 反射板の銀色を燃焼筒の炎が煌煌と赤く染めている。

 中古釣具の中でも年代も古くデザインの美しい物を厳選して取り扱うアンティークな店、古釣庵。その店舗の奥にある小上がりは板の間で、とても冷たかった。部屋の済においてある一昔前の反射式石油ストーブは、懐古趣味のある店主の古井戸のお気に入りではあったが、小上がり全体を暖めるには少し難があるようだ。キコは毛羽立った使い古しのブランケットに身を包み、寒さをしのいでいた。たっぷりと水の張ったやかんがストーブの上で湯気をくもらせ、乾燥した小上がりに適度な潤いを与えている。

 膝を抱え背中を丸めていたキコはこれと言ってやる事もなく、重たい曇り空の窓の外をぼぉっと眺めていた。

 その矢先の事であった。


 「ほら言ったでしょう、先生。今日は必ず雪が降るって。」

 天気予報では関東近郊の平野部はおろか、山間部でさえ降雪確率は0%だった。朝の冷え込みは厳しかったが、冬独特の乾いた晴れ間からは雪が降る事など想像もつかなかった。気が付けば、いつの間にか空は鉛色に塗り替えられていた。

 「別に僕は否定も肯定もしていないよ。ただ、今日は大学はどうした、と聞いただけさ。」

 古井戸は舞い降りる雪をしばし眺めたが、すぐに顔を背けて作業の続きを始めた。

 「だから、今日は雪になるから行っても無駄です、と言ったんじゃないですか。」

 キコは不服そうに頬を膨らませると、再び窓の外を見た。ふんわりとした綿毛のような雪は先程よりもその数を増している。


 今年初めての雪だ…この分だとやはり積もるのかもしれない…


 小さい頃は雪が降ると嬉しかったものだが、大人になると具合の悪い事ばかりが先立って子供の頃のようには楽しめない。それでも、雪の振り始めはいくつになってもワクワクしてしまう。大気の塵を吸った少し薄汚れた雪はいよいよ本降りとなり、次から次へと綿雪が舞い落ちる虫籠窓のガラスは、まるで映画のスクリーンのようであった。時の立つのも忘れる程にじっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうだ。

 古釣庵の目の前の道路も、薄っすらと白くなっていた。

 この雪で人々が外出を控え始めたのか、あるいは雪が大気の塵と共に街の喧騒も吸い込んだのか、いつの間にか辺りはしんと静まり、古めかしいストーブの上のやかんが奏でる水蒸気の音だけが小上がりに響いている。

 「先生…」

 キコがぼそりと呟いた。

 いつの頃からかキコは古井戸の事を先生と呼ぶようになっていた。歳がうんと上という事もあるが、理由は他にある。古釣庵は今は中古釣具屋ではあるが、その前は古井戸の父親が営む古本屋であった。幼い時から玩具代わりに本を手にしていたその博学に対してキコは古井戸を先生と呼ぶようになっていった。

 「雪女って本当にいると思いますか。」

 窓の外の雪を眺めながら、キコは消え入りそうな声で言った。

 「いるよ。」

 突拍子のないキコの質問に、作業中の手を止める事もなく古井戸は至極当然といったように答える。

 「やっぱり!やっぱりそうですよね。いますよね!」

 先程まで魂を抜き取られたような表情で窓の外を眺めていたキコは、息を吹き返したように叫んだ。

 作業中の手を止めて、古井戸は顔をあげた。

 「キコ君のいう【ゆきおんな】とは、いわゆる妖怪の雪女の事だろ。」  

 こくりとキコは頷く。

 古井戸は姿勢を正し、腕を組んで中空を見つめると静かに語り始めた。

 「そもそも雪女とは室町時代の連歌師、宗祇法師による【宗祇諸国物語】において初めて文献に登場した言葉だ。越後、つまり今の新潟に滞在している時に見たと記述された事が最初と言われている。」

 「れんかしって何ですか。」

 中空を見つめながら古井戸が記憶の奥底から探るように語りだすと、キコには初めて耳にする言葉が次から次へと飛び出してくる。

 「連歌とは鎌倉から室町時代にかけて、和歌に強い影響を受けて形成された伝統的な詩型だよ。俳句はここから派出したと言われるね。」

 「はぁ、なるほど…」

 解ったような、解らないような返事をキコは返した。 

 「それよりも宗祇が雪女という概念がまだ一般的に広まっていない時代、つまり初見にてだ、いったい何を見て雪女と思ったのかに興味を惹かれないかい。」


 思わずキコははっとした…言われてみれば確かにそうだ。白い着物で長い黒髪の美しい女性、雪女といえばそんな姿がすぐに思い浮かぶ。宗祇が何を見たのかは分らないが、何の概念も無い所にそのような女性を見たとしてすぐに雪女などと思うものだろうか…


 「キコ君にとっての雪女とは、いったいどんなイメージだい。」

 「えっとぉ…」

 ブランケットに包まったまま、キコは小首を傾げた。

 「雪山で遭難した人の前に現れて…髪が長くて黒くて…最後はその人を凍死させる…的な…」

 「それは雪魔型だね。」

 雪魔…型、とキコが呟く。

 「雪女にそんな、なになに型なんてあるんですか。」

 もちろんだ、と古井戸は当たり前のように頷いた。

 「雪魔型はもっとも原始的な本来の意味での雪女だ。吹雪の中で出会い、人に害を及ぼす。極限状態に置かれた人間が生み出した幻覚という解釈が成り立つタイプだ。この手の話しは岩手、宮城、茨城県に分布するね。」

 「先生、じゃあ他にも雪女の型が存在するのですか。」

 「他には小泉八雲型。これは現在もっとも有名なタイプで、雪女と出会った男が他言しない事を約束に生かされてまま里に返される。数年後、男はとある女を嫁として迎え子供を授かるが、うっかりその雪女の事を嫁に話してしまう。すると嫁は、自分が以前男と出会った雪女である事を告げてその正体を現し、子を置いて去っていく。話しの出所は武蔵国、今の東京から埼玉県にかけての山間部、つまり秩父あたりだね。他には新潟、富山、長野県でも聞かれる話しだ。なぜか東北ではあまり確認されないようだがね。」


 小泉八雲 なら知っている …元々 ギリシャ人の新聞記者であり小説家だ 。日本研究家、 日本民族学者といった顔も持ち、明治の頃には 日本国籍を取得し 小泉八雲と名乗るようになったと、以前【怪談】という本を読んだ時に先生から教えてもらったことがあるからだ。 古釣庵は以前古井戸の父親が経営する古本屋だった。先生の膨大な知識は幼い頃から読む本に困らなかったからだと本人は言っているが、はたして読んだだけでこんなに何でも覚えているものかといつも思う 小泉八雲町の怪談という本もその頃に扱っていた中古本のひとつだった。その本は八雲が日本人妻から聞いたいくつかの不思議な話に独自の解釈を加えた短編の集まりで、【むじな】や【ろくろ首】などが掲載されていたのは覚えているが、【雪女】があったかどうかは記憶にない…


 「次に歳神型。正月神に雪女の姿を与えたもので、正月にたくさんの童子を伴って人里に降りてきて、その年の卯の日に帰っていく。これは津軽を中心に分布している。」


 津軽は東北だ…雪女といえば 山深い東北の豪雪地帯というイメージを持っていた。岩手、宮城辺りならまだわかるが、さきの小泉八雲型に関しては 秩父 あたりだという。東京から割と近いそんな所にも 雪女の話は存在するものなのか…


 「そして最後は産女(うぶめ)型だ。赤子を抱いた姿で雪中に現れ、通りがかりの者にその赤子を抱かせようとする。拒否すれば 吹雪に巻かれ凍死、抱けば赤子は重くなり最後は自分が潰されてしまう。南方から流れてきた「姑獲鳥(うぶめ)」という赤子を抱いた妖怪の話や、おんぶお化けの話しが口伝  されるうちに雪女の話と交ざったのだろうね。」

 「先生、本当にそんなたくさんの種類野雪女が存在するんですか。」

 キコは眉を顰め、困惑した表情を浮かべる。

 「もちろんそんな雪女なぞ存在しない。全てが空想の産物さ。」

 「えっ…だって先生、さっきは居るって言ったじゃないですか。」

 言っている事が違う…キコは思わず身を乗り出して古井戸に迫った。身体を覆っていたブランケットが肩からずり落ちる。 

 古井戸は手のひらをかざしてキコを制止した。

 「今話した4つのタイプは雪女という雛形となる伝説があって、それが人づてに口承されるうちに様々な要素が加味され形を変えていったものだ。つまりは人の手によって創造されたものだが、雪女という言葉を最初に書物に記した宗祇が見たことは事実じゃないかと僕は思うんだ。」


 やっぱり…やっぱり雪女はいるんだ…


 「それで、その宗祇はいったい何を見たんですか。」

 キコは更に身を乗り出す。

 「僕はね、宗祇が見たものはサンカじゃないかと思うんだ。」

 サンカ…サンカ…とキコは呟いた。


 何処かで聞いた事がある…いつ…何処で…そうだ。


 「サンカって、かつて日本の山に住んでいたと言われるあのサンカですか。」 

 ほぅ、と古井戸は感嘆の声をあげた。

 「よく知っているな。そのサンカだ。」

 「詳しくは知りませんが、以前に柴さんから聞いた事があります。」


 柴さんとはキコの祖父の友人で、古くからの釣り仲間でもある 今は目を患い、釣りは断念している。整体を生業としていて【めくらの按摩】の通称でその筋では名の通った有名人だ。故障を抱えて行き詰まった 著名なスポーツ選手が、最後の望みを託して訪れたりするという。


 「柴さんのお父さんが、それらしき人達と出会った事があるって言ってました。」

 「なるほどなぁ。」

 古井戸は2度、3度と頷いた。

 「確かにサンカは戦後の昭和20年代までは存在していたという説があるからね。」

 「そのサンカがどうして雪女なんですか。」

 好奇心を抑えきれす、キコは更に身を乗り出す。

 「その前に、まずサンカについて説明しようか。」

 古井戸は腕を組み、再び中空を見上げる。

 「サンカとはさっきキコ君が言った通り、日本において過去に存在したとされる、山地や里山周辺を住居として定住もせず、浮浪漂白する山の民のことだ 。」

 「なんか、ジプシー みたいですね。」

 「まさにそうだな。戸籍も持たずに山という異世界に住み、独自の隠語を操る集団。その言葉は古事記や日本書紀 などの古い言葉に極めて近いと言われている。山地や河原を転々として瀬振りという独自のテントのようなものを張り、そこで生活してたという。」

 「自給自足で、ということですか。」

 「そうだ。」

 「 でも先生、昭和の20年代までは存在していたんでしょ。大昔なら自給自足でなんとかなるのかもしれないけど、昭和あたりなら生活費は必要じゃないですか。いったい、どうしていたんですか。」

 「竹細工や川魚漁をしていたようだ。」

 「竹細工…ですか。」

 「 夏場は川魚漁、冬場は竹細工を主たる生業として生計を立てていた。定住している村人相手に商取引をして野菜や穀物、時にはお金と交換していたようだ。笊、籠、帽子、昔は身の回りの物は大概が竹製だったからね。竹は木材より入手しやすく、加工するにも たいした資本もかからず、ちょっとした道具があれば製造は可能だ。高度な技術は必要だがね。 サンカは明治初期でも20万人 昭和に入り終戦直後でさえも1万人はいたと推定される。歴史から忘れられた幻の古民族だよ。」

 「忘れられたって、どういうことですか。」   

 古井戸はキコの目をじっと見据えて、ゆっくりと口を開いた。

 「正式に研究された事がないのだよ。」

 「研究されたことがないって…じゃあ先生が今しゃべった事をはどこから得た知識なんですか。」

 「あくまで 正式には、ということだ。民族学者の柳田國男を筆頭に、三角寛、宮本常一 、清水精一、 後藤興善などがサンカについて研究し、いくつかの書物を残している。しかし、それによって誤解も生じた。」


 誤解が生じたとは、いったい…う〜ん…ますます解らない…


 「三角寛の残した サンカに関する書物の多くに虚偽があったのだよ。三角氏はサンカについて書かれた本に彼の名前が登場しない本はないとまで言わしめた人物で、彼抜きではサンカ語れないと言われていた。しかし 筒井巧氏が【サンカの真実 三角の

虚構】という本で、三角氏の書は実は虚偽であったと 名指しで暴いているのだよ。」

 「虚偽…つまり真実では無いという事ですか。」

 「そうだ。そもそも 当時から三角氏の著書には彼の書物でしか発表されない独自の研究成果が多かった。なぜ他の研究者を差し置いて彼らにこれだけの真実を知れたのかは、当時から疑問視されていた。虚偽の一例を挙げるなら彼の著書に掲載されていた サンカの写真だ。」

 「写真が一体どうだったんですか。」

 「この著書には地域ごとのそれぞれのサンカの集団の写真が数枚掲載されていた。しかしその写真には地域的に離れているはずの傘下の集団の中になぜか同一人物は写っている写真があったのだ。」

 「それってつまり写真は偽造だったってことですか。サンカの人たちをたくさん集めてグループ分けして写真を撮った。それをそれぞれ全国各地に出向いて撮影したことにする。しかしグループ分けのミスで違う地域の写真なのに同じ人が写っていた…あれ、でもおかしいですね…だって本当のサンカを写しているなら、わざわざ地域別になんかせず1箇所で撮影でもいいはず…って事はまさか…」

 「その通りだ。堤氏はその同一人物なる女子を特定してインタビューまでしている。つまり偽のモデルを用意していたということだ。その子に限らずその写真に写っていた日本各地のサンカと言われる人たちは実はサンカではなく、みんな三角氏があらかじめ用意したモデルだったのだよ。」

 「モデル…つまりサクラですか。」

 「まぁ、そういう事だ。三角氏は小説家でもあったから、三角氏の作品は結局は創作小説だと認識される事になった。」

 「はぁ…そんな事があったんですか。」

 キコは溜め息まじりに答える。

 「しかし、だからと言ってサンカそのものが否定された訳じゃない。確かにサンカは存在したと僕は思っている。少し話がそれたが、僕が問題にしたいのはそのサンカの起源だ。それが宗祇の【雪女】と結びつく。」


 そうだ…知りたいのはそこなのだ…


 キコは身体が冷えてしまい、床に滑り落ちたブランケットを手に取り、再び身をくるんだ。燃焼筒と反射板による一昔前のストーブでは、冷たい板の間の小上がりを暖めるには、やはり役不足だった。

 古井戸は「サンカの発生に関する説は大きく3つに分かれる。」と言って右手の人差し指、 中指、薬指の3本の指を仰々しく立ててキコの目の前にかざした。

 「まずは古代 難民説。これはサンカが原日本人、つまり縄文人であり、ヤマト王権によって山間部に追いやられた異民族だという説。しかしこれは根拠に乏しい仮説と言われ、現在ではこれを主張する研究者を探し出す方が難しい。」

 古井戸が3本指の一つ、薬指を折る…う〜ん、また小難しい話になってきた…

 「そしてひとつ飛んで、近世難民説。これは江戸時代末期の飢饉から明治維新への移行の混乱の中で 山間部に避難したという人々という説。もともとサンカが初めて 書物に表記されたのは幕末の広島で、天保の大飢饉が最も過酷だったのは中国地方であったことを元に研究者の沖浦和光氏が主張している。」


  ひとつ飛ばしてということは古代からいきなり 近世と来たわけで、つまり 次の中世が正解なのか… 古井戸は中指を折った。


 「そして最後に中世難民説。動乱の続いた室町時代の遊芸民、職能集団がサンカとなった説だ。サンカが文献に登場したのは幕末からだとさっき述べたが、この説の欠点は室町時代からサンカが存在したなら、幕末になってようやく書物に登場するのは不自然だということだ。」

 「確かに不自然ですね。あたし歴史は詳しくないけど室町から幕末なんて かなり時代が開いてますよね。江戸時代は文化が発達したと言うから、何かしらの書物にサンカが出てきてもよさそうなのに。」

 「ところがね、サンカを表す漢字【山家】や【坂の者】といった言葉の語源となると、話は変わってくる。古くまで遡る事になるのだよ。」 

 「さ、さかのもの?」

 古井戸は手元にあったメモ書きに【山家】と【坂 の者と書いてキコに渡した。包まったブランケットから寒そうに片手だけをを出して、キコはそれを受け取った。

 「あの先生、【山家】はなんとなくわかりますが、【坂 の者】は一体どういう意味ですか。サンカと何か 繋がりがあるのですか。」

 「そうだな、どこから話そうか。」

 古井戸は顎に手をやり俯いた。

 「まず、山中の坂は超日常的な事象の起きやすい世界だという概念がそもそもあったのだよ。山はただでさえ異界と捉えられているからね。そして古代末期から中世を通じて、京都や奈良での街道の坂道に流浪人が集住した。彼らは【サンカモノ】と呼ばれていた。それは【坂の者】が訛ったものだと言われている。どうだい、こう言えば繋がりが分かるかな。」

 ブランケットから亀のように首を出してキコは頷いた。

 「今言った3つの説はそれまでにそれぞれに異論が唱えられているが、僕この中世難民説に賛同するね。そして雪女の概念のまだ無い室町の時代に宗祇は雪の中でサンカの女性と出会ったのだ。」

 「えっ…でも…」


 即座に疑問が浮かんだ …家を持たない流浪の民 が極寒の山中で生活など、いや、そもそも生活どころか生きていけるのだろうか…


 「サンカはね、通常は山地や河原に住んでいるが、寒い冬の時期は暖かい海辺へと移動したというね。」

 キコの思惑を察したかのように古井戸は言った。

 そして中空を見つめ 宗祇の【宗祇諸国物語】の一文を語り出した。

 「その頃の越後は毎年深く雪が積もり、去年の名残雪が消えかかる頃にはもう今年の雪が降り始める。 その年の雪はとりわけ多かったが、宗祇が雪女と出会ったの 雪が一番降り積もる1月を超えて2月を過ぎた雪の消え始める春先のある日の未明、便所に行こうと枕元の戸を開け東の方を見ると、10mあまり先の竹藪の端に不思議な女が立っていた。」

 キコは黙ったまま、古井戸の次の言葉を待った。             

 「今のは【宗祇諸国物語】の一部を要約したものだ。サンカの移動は村の者が知らない独自のルートを持っていて、移動する姿は目撃されたことがないという。ルートもそうなのだろうが、僕は村人が寝静まった頃に移動したというのも目撃されなかった理由ではないかと思う。そして春先になり海辺から山間に移動する途中のサンカの女性に宗祇は遭遇した。」

 「でも先生、山には雪が残ってるじゃないです か。どうせ移動するならもっと暖かくなってからするのでは。」

 「 1月を超え 2月を過ぎた雪の消え始める頃の春先と【宗祇諸国物語】にはある。おそらく 3月ぐらいなのだろう。その頃になれば山にはフキノトウといった山菜が出始める頃だし、ヤマメやイワナの動きも活発になる頃だ。つまり食料を求め移動したのだろう。しかしキコ君野言う通り、春先とはいえ越後だ。まだ雪の相当残る時期、そして夜中という非日常的な時間と山中という場所で遭遇したからこそ、宗祇は人間とは思わず雪女と思ったのではないのかな。」


 確かにそうだ…当たり前の話だが、当時は街灯などといったものは全くない時代だ。日が暮れれば外は暗い。真っ暗闇なのだ。外に出る者などいないだろう。ましてや雪の積もる時期の真夜中に外にいる者など考えられない。この世のものでは無いと思っても当然なのかもしれない…


 「まぁ、今話したことは全て僕の馬鹿馬鹿しい憶測だ。何かの余興だとでも思ってくれればそれでいい。兎に角、これが僕の言った1人目の雪女だ。」

 古井戸は自虐的にはにかんで笑った。

 「えっ、1人目…」


 キコは目を丸くした…一人目と言うからに2人目がいるのか…


 「ここからが、本題だ。」

 古井戸は真顔に戻り、先ほどからメンテナンス作業を進めていた中古の釣り道具の全貌をキコの前に披露した。

 「これがもう1人の雪女だ。」


 竹竿だった 。

 一見ごつごつとした男っぽい造りだが、何処かが繊細で美しい竹竿だった。5本継ぎの竿はどれもが 4つの節を持ち、横一列に並べると節の位置は横一直線に揃った。野生的な趣を残してる竹肌をそのままに漆で塗り固めたようで、【江戸和竿】のように光沢のある飴色を出すために何度も漆を塗った芸術品のような工芸品ではない。質実剛健という言葉がしっくりとくる竿だが、江戸時代の初期に生まれた名竿【京竿】に使われていた横笛のような【笛巻き】という雅な装飾は施されていて、どこか女性的な香りがした。 


 「キコ君、これを見たまえ。」

 古井戸は5本継きの手元にあたる竿を取り出し、竿を操るための握り部分をキコに向けた。細い筆で流れるように文字が書いてあった。

 「雪女…ですか。」 

 「雪女と書いて【ゆきめ】と読む。僕も若い頃、日本全国を釣り歩いてる時に、1度だけお目に掛かった事がある。」

 古井戸はゆっくりと慎重に手元の竿を仕舞い箱に戻した。

 「いったい何ですか、この竿は。」

 「ヤマメ 竿だ。全長が14尺2寸の5本継ぎ。【ゆきめ】の竿は正確な製造時期も作者も不明だが、大正から昭和の初め頃に出回った竿だと言われている。数は少ないがね。ずっと以前から伴に依頼されていたのだが、つい先日なんとか手に入った。メンテナンスもほぼ終わったので、今日これから渡す予定だ。」

 餌を待つ子犬のような姿勢で冷たい 板の間に両手をついて 竿を眺めていたキコは、突然「あれっ。」とすっ頓狂な声あげた。

 「先生、この竿ちょっと持ってみてもいいですか。」

 「あぁ、かまわんが。」

 古井戸は再び仕舞い箱から手元の竿を取り出し、キコに手渡した。

 キコはゆるやかに丁寧にそれを受け取ると、実際に釣りをするような手つきで竿を握 構えた。


 思った通りだった…この竿のように繊細な装飾はされていない作りかけのような竿だが、根本的な作りが何処かと同じだと感じていた。今こうして握ってそれは確信に変わった。竿を握る瞬間、まるで磁石のように吸い寄せられ、自分の体と同化したように ピタリと嵌まる感触…やはり同じだ。


 「先生、あたしこれと同じ竿を持ってます。

 「馬鹿な!この僕でさえ、やっとの思いで手に入れたというのに。」

 「あたしの竿はこんな綺麗な装飾はされていませんし、作りかけのような竿で作者の名前も入っていませんが…多分、同じです。」

 キコは真剣な目つきで古井戸を見る。冗談を言ってるとは思えない 。

 古井戸は険しい顔で腕を組み、黙り込む。一度だけ「それは…」と口をを開いたが、それっきり言葉が出て来ず、また黙り込む。

 冷たい小上がりにはしばし沈黙が続き、古井戸は微動だにもしなかったが、ふいに頭を捻りウェーブのかかった長髪を片手でガリガリと掻きむしった。

 「今日この竿を伴に渡すつもりだが、君も参加するか。」

 「はいっ!」

 古井戸が喋り終える前に、キコは待ちきれず叫んだ。

 「その竿を持って、行きます!」

 キコの目はきらきらと輝いていた。

 「行きますと言っても 会合場所は【外道屋】だ。 どうせ君の家だし、どちらにしたって君はいつも通り勝手に参加してくるのだろうがね。」

 古井戸は再び頭を捻り、長髪の髪をガリガリと掻きむしった。




 


 


 





 



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