融けよ昇れよアイスクリン

山形在住郎

MELT EVAPOLATE ICECREAM

<注>

この小説は人の死、その後の葬儀に関する直接的な描写を含みます。苦手な方はそのままブラウザバックすることをお勧めします。









MELT EVAPOLATE ICECREAM

溶けよ 昇れよ アイスクリン




大バカ者に捧げる 


否 頭の上からぶっかけてやる

















「本当に申し訳ありません。ごめんね、汐里しおりちゃん、痛かったよね」


 俺の隣で母親が頭を下げていた。お気に入りの白いコンバースではなく黒いパンプスを履いた母親の目を覗き込もうと顔をあげた拍子に、ぐいと俺の肩は下に引っ張られ、俺は母親同様正面の女の子とその隣で恐縮する女の子の母親に深く頭を下げる形となった。俺の俊足の靴はと俺をあざ笑うかのようにやたらとキラキラ光っていた。


「...ごめんなさい」

 

 俺はこの女の子をぶった。正確には、そいつは俺が箒の柄を折ってしまったのを見ていて、「いけないんだ」だの「せんせいにいってやろ」だのと言って俺にまとわりついてきたものだから、彼女を振りほどこうとしたらその手が彼女の顔に当たってしまったわけである。悪いのは100%俺だ。しかし小学2年生の俺はうだうだと言い訳をして謝罪しなかったため、ことが大きくなってしまった。だからああして俺は漢字の宿題もそこそこに家から引きずり出され、女友達に涙目で謝る羽目になった。


 俺はカッとなりやすいタチだった。考えるよりも前に体が動いてしまうから、ひどい暴言を言ったり、叩いたり、突飛ばしたりしてしまう。要するに俺は気の小さい子犬のような人間なのだ。自分を守ろうとして周りが見えなくなる。ひとりで殻にこもって暴れて、気付いた時には周りの人間を傷つける、どうしようもないガキだったのだ。


 母親の手が背中から離れたので顔をあげると、口を真一文字に結んだ汐里と目が合った。彼女の眉が困り眉になったように見えた俺は今更申し訳ない気持ちになって、がっくりと項垂れるようにもう一度頭を下げた。


 その後の経過は深く記憶していない。ただ、ひとしきり謝り倒したあと汐里と公園で一緒に遊んだことだけはよく覚えている。黄色のヘアゴムで髪を二つ結びにした明朗な少女といつも泥だらけ汗まみれの俺は何故だか仲が良かった。汐里を泣かせるのが俺なら、汐里を笑わせるのもまた俺だった。


「それなあに?かわいい!」


 鉄棒で遊んでいたとき、汐里は俺が左腕につけているブレスレットを見て興味津々といった様子でそう訊ねた。


「パワーストーンのブレスレットだよ」


 それは父親に買ってもらった青いビーズ・ブレスレットだった。父親がいつもつけている腕時計をうらやましがった俺に母親は100円均一のチープな腕時計を買ってきたのだが、俺は全く別物じゃないかとごねた。見かねた父が買ってきたのが、そのブレスレットだったのだ。


「へー、すごーい」


 汐里はキラキラした表情で俺の手を取り、ブレスレットを眺めた。それはオーデマ・ピゲの洗練された意匠とは似ても似つかないカジュアルなグッズだったが、昼下がりの陽光に照らされて深い海溝のように体を一度浸せば沈み込んでしまいそうなな魅力を放っていた。


「たたいてごめん」


「ううん、いいよ」


 鉄棒を離れて飛行機型のジャングルジムに登ったあと、操縦席に座って公園と呼ぶには整備の行き届いていない雑木林の方に舵を取る汐里に、俺は後ろの座席から声をかけた。汐里はゼロ戦を操縦中にもかかわらずよそ見をして、にっこりと微笑んでみせた。そして兵士たちの帰還を告げるゆうやけこやけが流れると、俺たちは密林にひっそり佇む小さな小屋で準備を済ませ、散策通路を抜けて故郷に凱旋するのだった。しかし生還した特攻兵を歓迎するのは木陰の内包する冷ややかな空気のみであった。


 俺たちが連れ立って公園を出て、青々と茂る桜の樹の影の下から抜け出したとき、ビーズ同士がこすれてかちり、と音がして、俺たちが仲直りをした瞬間を小さな擦れ傷としてその身に残した。その夏の終わり、俺は引っ越した。


 本条に帰ってきたのは俺が中学二年生になった春だった。かつて転校することを汐里に伝えたとき、彼女は俺に会いに来るといったし俺は俺で手紙を送ると約束したが、それらの言葉は守られなかった。小学生の約束などその程度、と言ってしまえばそれまでだが、半年に一度か二度思い出しては、俺と汐里とは存外乾いた関係だったのだなあと諦め主義的悲観に浸ったものだ。いま、俺は引っ越しがなければ入学するはずだった中学校に転入生として入学する。


「――小学2年生まで本条小学校に通ってましたが、転校して、今年また仙台に帰ってきました。趣味は読書です。一年間よろしくお願いします」


「あ」


「どうしました?南さん」


「なんでもないでーす」


 廊下側前方の席で黄緑色のクリアファイルで顔の下半分を覆ってにやついた顔を隠しながらこちらを向いている女生徒が誰であるかは、髪型がハーフアップに変わっていても間違えようがなかった。ホームルーム後、そいつは紺色のブレザーとは悲劇的に相性の悪いモスグリーンの指定かばんを抱えてこちらに向かって突進してきた。


「久しぶり」


「小2以来?」


「そうだね。ほんとさ、急に転校するって言われてびっくりしたんだよ?」


「ごめん、父親の転勤でさ」


「もうパパって言わないんだ」


「うるせ」


「お父さんのことなんて呼んでるの?」


「黙秘」


「沈黙は肯定だよ」


「勝手にしろ」


「パパってよんでるんだあ。かわいー」


「やめれ」


「やん。...えーん、ぶたれたあ」


「それは無理があるんじゃない?しろり...」


「しろり?」


「白々しいと汐里が混じっただけ」


「すごいね。言い間違えの才能あるよ。私が保証する」


「もう帰ろうか」


 俺は青いG-SHOCKの腕時計を人差し指で素早く2回叩き、遊び甲斐のあるおもちゃから目線を逸らさせた。彼女は一瞬俺の腕時計に目線を落とした後、物足りなさそうに「はあい」と答えると鞄を背負った。知識がたっぷり詰まって見た目以上に質量の大きい指定かばんが大きく跳ね上げられたときにふわりと香ったのは、夕日に照らされた青いブレスレットの匂いだった。


「そんな...私と同じくらい馬鹿だったはずなのにっ」


 転入からひと月、5月に行われた実力テストで俺が学年4位だったを知ると、汐里は俺があたかもラプラタ川の対岸に立っているかのように遠い目線で俺を見やった。確かに小学生の頃、俺と汐里は漢字テスト追試の常習者だったが、それは単に全く勉強をしなかったからである。


「中学校のテストは勉強したらした分だけ点が取れるようになってるんだよ。馬鹿でも100点とれる」


「私は馬鹿以下だっていうの?」


「勉強不足を棚上げするんじゃない」


「私は棚ぼたで生きてるの」


「南さん、さようなら」


「ま、待って」


 冬の南半球から飛行機で日本に戻ってくるときの寒暖差を思わせるほど急速に季節は夏に遷り変わった。前期に実施されたすべての試験でクラス平均点を下げ我がクラスが学力最下位の栄誉を獲得することに貢献した汐里は、後期中間試験で巻き返しを図らんと俺を自宅に招いたものの、暑さにうだる動物園の水牛よろしく浴びるように麦茶を飲んでテーブルに突っ伏している。彼女の額に滲む汗をコースター代わりにしていたタオルでぬぐいつつ俺は問いかけた。


「次の実力(試験)ではせめて平均点以上取りたいんでしょ?ほら、顔上げれ」


「んー、なんかいずいなあ」


「椅子の上で立膝してるからに決まってる」


 手持ちのハンカチでグラスに付着した結露をさっとふき取ったとき、グラスを持っている左手親指と人差し指の間から水滴が零れ、わずかに浮き出た血管を伝ってレザーベルトの腕時計の文字盤に達した。II の位置で止まった水滴は、白と黒の間の稜線をぐいと押し広げ、しまいには屈折の具合で湖の下側を白い海につなげてしまった。


「あー、腕時計濡れてるよ」


 そう言って露を服の袖でふき取った汐里は中学三年生になっていた。


「よそ見してる場合か。D判定だったんだろ?このあいだの模試は。高校浪人なんてシャレにならないぞ」


 中学三年になっていきなり「私は本条第一受けるんだ」などとのたまうものだから、俺は「地方とはいえ混一色ホンイツは県最難関高の一角だぞ。冗談で言ってるわけじゃないんだな?」と尋ねた。うん、とうなずいた時の汐里の目は確かに、全教科平均点以上を取るという決意――正確には、平均点を一教科超えるごとにハーゲンダッツをひとつ奢るという俺にメリットのない口約束――を伝えたときの力がこもった目と重なるものがあった。


「いいよね、前期試験でするっと合格うかっちゃってさ。最後まで一緒に勉強できると思ってたのに...」


 俺は当時まだ本条市の高校入試で行われていた前後期日程制のうちより倍率の高い前期試験で本条第一に合格し、汐里を待つばかりとなっていた。


「最後まで付き合うよ。それに、首席合格者は後期試験合格者から選ばれる。学年一位以上の名誉を得られる絶好の機会だ!」


「え...要らな」


 汐里の反応を見た俺はふんと鼻から息を出して青チャートのページをめくった。単位円上のθ= π/2 を満たす定点がかちりと音を立てて微動し、θ= π/6 に限りなく近づく。その点の各成分を答えるだけの簡単な問題に、俺の手は止まる。鉛筆をロゴが見える向きで、シャープペンシルと同じくテーブルの淵に対して垂直になるように置くと、グラスに 1/4 ほど残ったぬるい麦茶を喉に流し込んだ。


「違えな、そうじゃない、もうちょっとこう...」


 意味もなく呟くと、汐里は「この苦悶の表情をオカズに記述問題練習しーよお」と儲けたという表情で言ったので、俺は彼女の頬をつねってやった。その後汐里は嬉しそうな表情で苦手な科学の記述問題に取り組んだ。


 勉強会を終えて外に出ると霧雨が降っていた。汐里の家からならいつでも見えるはずの電波塔の赤い障害灯さえ視認することができなくなるほど濃い霧は、夢の中で我々が陥る思考の狭窄同様、世界を認識することを著しく制限している。


「傘、いる?」


 汐里が俺にフリル付きのフェミニンな白い傘を差しだした。傘立てには他に数本のビニール傘とシックな黒い傘が刺さっている。


「その傘のチョイスはなんなの...。いや、いいよ。小雨だから。それに鞄には折り畳み傘も一応入ってるし」


 汐里は俺が風邪をひかないか心配しているのか困った顔をしたが、俺は「家に帰ったらすぐに風呂に入るから問題ない」とだけ言って霧の中に飛び込んだ。


 霧雨はまとわりつくように俺を濡らした。はじめは髪の毛を、次は肩を、その次は胸、そして腹、脚を湿らせる。だんだんと息苦しくなってきて、僕は肩で呼吸し始める。左側をモダンなランプ風LED街灯が、右側を素朴な蛍光灯が交互に横切り、そのたびに俺の視野の上側に赤い残影が刻まれていく。そして濡れて真っ黒に染まったアスファルトの舗道の奥から誰かが歩いてくる。俺はその人と同じく道の真ん中を歩いているから、避けなければぶつかってしまうだろう。俺が道を譲ろう、そう思って左側に寄ろうとすると、体が動かないことに気付いた。否、正しくは自分の体が制御下に無いことに気付いたのである。僕の体はひとりでにずんずんと道の真ん中を進む。正面の人影が近づいてくる。男だ。僕は怖くなった。辛うじて動かせる手と足の指をけいれんさせると、じっとりとした湿気の感触が伝わってくる。小鼻の脇を流れてきた雨水が半開きの口に入り込み、喉を能動的に動かせない僕は1センチメートルほどの水に溺れかける。耳から入った水がぴちょん、ぴちょんと音をたてて溜まり、徐々に体に染み入る。男はもう20メートルほど先に迫っている。しかし顔が見えない。そうか、俺はメガネをかけてないんだ。しまった、汐里の家に置いてきてしまったんだ。戻ろうか、でも今は一刻も早く家に帰りたい。俺は腕をズボンのポケット部分に押し当て、固い鍵の感触を確かめた。あとはコンビニ正面の三差路を右に曲がるだけ。しかし男との距離はもう10メートルもない。僕は過呼吸に陥りながらも、鍵、鍵とつぶやいて心の平静を保とうとする。


 街灯の残像と男が重なるかというところで、男が目の前で立ち止まった。そして俺も立ち止まった。


「うわああああああああああああ!」


「あーくん!」


 俺は後ろから抱きしめられていた。そのとき水が着用しているジャケットから染み出してきたことで、俺は思ったよりも自分がびしょ濡れになってしまっていたことに気付いた。雨の日特有の樹の匂いに交じる汐里の優しい香りで体の自由を取り戻すと、限界まで水を蓄えた礼服の重さを支える気力が今の俺にはなかったのだろう、俺は膝から崩れ落ちた。


「大丈夫だよ。あーくんのママも、ハセも、みっちぃも、るんるんも、私のパパとママもいるから」


 僕は無意識にポケットをまさぐったが、そこには何もなかった。胸を締め付けられる気がして、俺は左腕のブレスレットをぎゅっと握りしめた。石が腕にめり込む痛みも気にせず、全力でその存在を確かめた。


「わたしもここにいる」


 俺はわずかに首を右に傾けて、右肩に乗った汐里の顔を見た。ブラックフォーマルに身を包んだ汐里は街灯に照らされた頬骨が浮き出て、物語に登場する薄幸な佳人を彷彿とさせた。僕はブレスレットを強く握りしめていたせいで縦に深く溝が入った右手を汐里の手のひらに重ねた。雨に濡れたその手のひらは冷え切っていたが、自身の鼓動の裏拍として打たれる彼女の鼓動に確かな暖かさを感じた。


「だから安心して」


 汐里の色素の薄い唇が動いて耳に届いた声を僕は反芻した。


「ありがとう」


 その言葉をきっかけに雨脚が強まり、本条の街を覆う霧が一気に晴れた。腕時計を手繰り寄せて月光にあてると、時計の針は3時30分を示していた。日付はとうに変わって14日になっていた。ただしこの腕時計は買ってから一度も日付を直していないせいで5日前を示している。今日は19日、僕は今日、5年ぶりに仙台に帰ることになっている。


 ここ数日僕は寝床に入っても眠れずただ目を瞑って朝を待つということを続けている。ベッドサイドテーブルの上の眼鏡とタオル、スマートフォンをがばっとまとめてつかみ、眼鏡をかけて汗でぐっしょり濡れた顔と腕、脚を拭く。手に持っていたスマートフォンが滑り落ちてベッドの上で点灯した。画面にはLINEやメールの通知が数件表示される。


***

通知センター


ヒロコ:

じゃ、仙台駅でね(cony okidoki)


MY Suica:

¥1,980(支払い)

新しい残高は¥6,549 です。


自分,Satonaka:

ORS土間 学会欠席の連絡

土間さん、了解しました。8月27日に...

***


「へんな絵文字つかってんじゃないよ...」


 僕は8時間前に届いていた母からのライン通知をタップして開き、白うさぎコニーがOKサインする絵文字にツッコミを入れる。その後バスの電子乗車券をチェックした僕は画面をオフにして枕元に放り投げた。そのとき画面に一瞬映った僕の顔には怪士あやかしの面が張り付いていた。


 僕は歯をぐっと噛みしめてカーテンレールに引っ掛けたピンチハンガーから下着とタオルを引っ張って取り、汗を流すためにシャワーを浴びようと浴室に向かう。


 まるで大雨の中何時間も突っ立っていたかのように濡れたTシャツと半ズボン、下着を脱いで洗面台で絞り、洗濯槽に入れる。洗面台下から洗濯洗剤を取り出して洗濯機に注入し、元栓を開けてスタートボタンに中指をかけたところで一瞬躊躇したが、今日くらいは許されるだろうと洗濯を開始した。


しおりか...いまどうしてるんだろうな」


 シャワーを浴びながら僕は先程のストーリーを思い出した。栞は俺が岩手県の二戸にのへに住んでいたころの友人で、小学生時代の友達グループに入っていた唯一の女子だった。活発な女の子で、やんちゃな男子生徒に交じって一緒に畑の中を走り回ってとんぼを捕まえるような子だったことを覚えている。たしか名字は坂本、あるいは阪本だったかもしれない。そうだ、実際のところ僕が栞に関して覚えているのは、彼女と一緒に畑で虫捕りをしたこと、公園で水切りに使えそうな石を探したこと、誰かの家でWiiのマリオブラザースをプレイしたこと、あとはなぜか栞が泣いていたこと(たぶん僕が原因というわけではなくて、先生に怒られたからとかそんな理由だったと思う)くらいしか覚えていない。たいした記憶もない幼馴染をに使った自分の醜悪さに身震いしたが、それもまた今日なら許されるだろうと自分を納得させた。


 浴室を出て体を拭いた後、もう一度眠る気にもならなかった僕はクローゼットから無地のTシャツと黒いスラックスを取り出して軽く手で払ったあと着用した。道すがら冷蔵庫から麦茶を取り出して紙コップに注ぎ、ついでに笹かまぼこを取り出してから冷蔵庫を閉める。肘で部屋のドアを押し開けるときに左手に持ったコップからお茶がこぼれたが気にせず部屋に入り、ドアを足蹴にしてデスクの前に座った。ノートパソコンに電源を入れ、充電コードを差し込んだタイミングで背後のベッドから通知音が聞こえた。


ウェザーニューズ:

今いる場所の停電のリスクは?

関東は段々と風が強まってきました。事前にご確認ください<詳細はこちら>


「チッ。なんでこんなくそ忙しい時に台風が来るんだか...」


 笹カマを噛みちぎりながらスマートフォンをデスクの上に置いた僕は気を紛らすようにsumatraPDFを開いて心理学のサーベイに目を通す。アブストとイントロに軽く目を通すだけのつもりだったが、スマートフォンのアラームが鳴ったことで、朝日が昇るまで読み続けてしまったことに気付いた。そして今更眠気が襲ってきたので、一口も飲まないうちにぬるくなってしまった麦茶で笹カマの最後の一口を飲み込んでパソコンを閉じた。同時に、またしても洗濯物を取り出すのを忘れていたことに気が付いて天を仰いだ。くすんだ天井には小さな蜘蛛が一匹張り付いており、僕はそいつに向かってふうと息を吹きかけたあと、孤独な虫畜生を無視してキッチンに向かい、昨日のシチューを火にかけ、洗濯機から生乾きの衣類を取り出した。




「さて、電気消した、エアコンついてない、パソコンスマホ持った。...換気扇ついてる、電気消した。...電気消した、元栓どっちも、おっけー閉まってる」


 僕は家を出る前に指差し確認をする。出かける前に必ず声を出して持ち物や照明オフの確認をするのは几帳面な母親の影響だ。


「おっといけない。腕時計、腕時計――」


 枕元に腕時計を置きっぱなしだったことに気付いて部屋にとりに戻ろうとしたとき、クローゼットにもう一つの腕時計が置いてあることを思い出した。


――一高に合格するなんて、凄いなあ


 高校合格祝いに父が買ってくれたG-shockの腕時計。運動部に所属していた高校時代は毎日つけて登校していたが、いかんせんスカイブルーという派手な色合いはジャージを除いて合わせるのが難しく、大学生になってからはタンスの肥やしになっていた。


「まあ、どうせ外すもんな」僕は鮮やかな腕時計をひっつかんで部屋を出た。




「次は、大手町です。丸の内線、千代田線、半蔵門線、都営三田線、JR線はお乗り換えです」


 僕はアナウンスを聞いて念のためにSuicaの残高を確認しようとスマートフォンを取り出した。


Moovit:

Moovitの便利な新機能をチェックしてください(look below)


ヒロコ:

お昼は駅でウマいもんでも食べてきなよ

あんたどうせ安物ばっかりでしょ


 ラインを開くと親族や友人たちからのメッセージが30件以上来ていた。一番下までスクロールすると、一軒のメッセージ通知が入ったともだちのアカウントに行き当たった。


どま:

日本語でお願いします(please)


 5か月以上前に届いたそのメッセージを、僕は既読にしていなかった。なんということはない。直接会って答えたからラインで返答する必要がなかったというだけのことである。しかしこの一件の未読は、僕と「土間」が5か月もの間一度も、少なくともメッセージのやり取りでは、連絡を取らなかったことの証左である。「土間」は僕の父だ。5日前に死んだ。

 父がガンだと分かったのは5月だったという。伝聞調なのは、僕がその事実を知ったのは父の訃報と同時だったからである。


――お医者さんもびっくりしたって、言ってたの。ついさっきまでぴんぴんしてた人が、急に体調が悪化して、それで死んじゃったって。


 父のガンは他臓器に転移しているとか、ステージ4だとか、そういう絶望的な状態だったわけではなくて、回復の見込みがあったという。だというのに、急に――それはまさしく青天の霹靂というにふさわしいであろう出来事だったのだ――父は息を引き取った。父は愛煙家だったから僕らはいずれこうなるであろうことは覚悟していたし、だからこそ両親は早期に見つかったガンについて僕に伝えて無駄に心配させまいとしたのだろう。結果として、僕は闘病中の父と一度も会話することはなく、言葉を交わす機会を永久に失ってしまった。


「大手町。出口は右側です」


 塊となって一斉に動く乗客の流れに身を任せて僕は電車を降りる。かつて祖父母の家に行くために父と乗り込んだブルーラインの電車を見送ると、八重洲南口のバス乗り場を目指して歩を進めた。このとき寝過ごしたわけでもないのに降りる駅を2駅も乗り過ごしたことは誰にも言うまい。

 

 お盆明けかつ台風が近づいているということもあってか、待合室は思いのほか空いていた。僕は家族連れが座っている長椅子の空いている側に腰掛けて、僕の連絡に対する返信を確認していく。友人たちはみなそれぞれ忙しいだろうに、僕を気遣い仕事を代わってくれるという。


ヒロコ:

暑いから、ふつーの白Tとかにしときな

平服スタイルにしたから


 そう言われてもな、と僕は黒に統一した略礼装一式の入ったリュックサックを地べたに置いて心の中で呟いた。いくら家族葬&平服っていったってお焼香の場にジョブズよろしく白Tジーンズ姿で登場したら皆ぎょっとするだろうさ。僕は「華美じゃない服装にしたよ」と返信した。この場合、ひょっとすると有言実行した母親だけジョブズよろしく白Tで登場することになるのだろうか。それは喪主として正しいふるまいなのだろうか。僕は訝しんだ。


ORS連絡用グル:

お悔み申し上げます。来月のことに関しては自分たちで進めるから、気にせず任せて...


 僕は申し訳ない気持ちになりながらトークリストの見出し文章だけを確認してラインを閉じ、イヤホンをつけ、Braveのプレイリストに登録した音楽を再生する。この音楽は合計で3時間強だから、全部聞き終わる頃には到着していることだろう。




「わーっパパ凄い、見て見て、あの新幹線二階建てだよ!今度あれに乗ろうよ!」


 既に現役引退した新幹線、通称Max やまびこはE4系で2階建て構造が特徴的な車両である。2階建て車両 Max (Multi Amenity eXpress)のなかでも、やまびこ系統のイエローのラインが白と青の車体に良く映えており、とかく間抜けに見えがちな Max の中でも比較的優美な顔とプロポーションをしていると個人的に思う。それは幼少期の僕も思ったことであり、僕の中のランキングでははやて、こまち、はやぶさを抑えてトップに位置していた。


「上と下ならどっちがいい?」


「上!」


 約束通り翌年に乗車した Max は僕にとって最初で最後の E4系に乗車する機会となった。残念なことに二階席が取れず一階席で我慢することになったが、それはそれで目線が人の足元になる半地下状態を楽しめたと記憶している。


 Max の二階席からの景色はどんなだったのだろうか。高速バスとどちらがよいだろうか。そのようなことを考えながら、僕は頬杖をついてバスの車窓の外を眺めた。父が単身赴任してから、僕は新幹線に乗らなくなった。新幹線のほうが高いというのもあるが、一番は東北新幹線の車内放送にある。あの心地よい音色のチャイムと堺正幸氏の落ち着いたアナウンスを聴くたびに、隣の座席でほほ笑む父の存在を感じざるを得ないのである。


♪ターンタララターンタララタラララララタラララララタラララララララトトトトトロロリン


♪ターンタララターンタララタラララララタラララララタラララララララトトトトトロロリン


♪ターンタララターンタララタラララララタラララララタラララララララトトトトトロロリン


 僕は車窓から目を背け、深くため息をついてぼんやりと座席上方の通風孔に目をやり、音楽に集中した。


 昼頃に勿来ICを通過した。SAでの休憩時間を含めて一時間ほど眠っていたようだ。踵を上げぐいと胸を張ると、骨が軋みこちりと十二時半を告げる音が鳴る。窓に映る風景は刻一刻と変化し農村の小さな家々が通り過ぎたかと思えば大きなホームセンターやボウリング場が現れる。僕は背もたれの傾斜を元に戻し、ペットボトルと眼鏡を取って正面の折り畳みテーブルをしまう。ペットボトルの蓋を開けて水を飲もうとしたとき、車両が揺れてその拍子に水がこぼれた。モスグリーンのTシャツに水が染み込み、僕は思わず小さく呻き声を漏らした。あーあー何をやってるんだ。僕は鞄からタオルを取り出して急いで水を拭う。しかし時すでに遅く、水の染み込んだ綿のTシャツは体に張り付いてじっとりとした不快な感触をもたらした。


「ご乗車お疲れ様でした。あと10分ほどで仙台駅駅西口に到着いたします。――連日のように忘れ物が事務所に届いております。お忘れ物ございませんように今一度、身の回りの持ち物のご確認よろしくお願いします」


 僕は空のペットボトルを――つい癖で足で踏んで潰しそうになるのをぐっとこらえて――鞄のポケットに突き刺す。そして一瞬右隣の空席に目を落としたあと、バスが到着した後にすぐ出ることができるようにその座席に座りなおした。丁度僕が寝ていた間に強風のせいでバスの運行に遅れが生じていたようで、20分ほど遅れて仙台駅に到着することになるとのことだ。スマートフォンを起動すると、乗る前に聞き始めた音楽はいつの間にか再生停止していた。


「スマホ持った、網の中ない、座席の下、OK。背もたれ」


 前方の座席を取っていた僕は到着と同時に素早くバスを降りた。そして息を吸うよりも早くペットボトルを取り出してぺしゃんこに潰した。


「さて、西口で飯を食うか先に東口にいくか...」


 僕はバスプールからまっすぐ仙台駅ペデストリアンデッキに向かった。以前はもっぱら地下鉄を使っていたものだから、仙台駅構内に外から入るのは新幹線に乗るときぐらいだった。


 駅構内に入ろうとしたとき、ペデストリアンデッキ上でOH!バンデスのテレビクルーが取材をしていることに気付いた。ミヤギテレビ(通称ミヤテレ)の長寿ニュースプログラムであるこの番組には何度か出演したことがある。出演、といってもインタヴューに答えたとかプレゼント企画に当選したとかそういうことではない。小学生の時は学校に有名スポーツ選手がやってきて特別授業を行ったときに、中学生の時は学年委員として参加した何かしらのイベントで、高校の時は割と多く、合格発表・入学式・学内行事で何度もテレビに映った。そういえば合格発表の時はインタヴューを受けたんだったか。僕がテレビに映る可能性があるときは、同時録画できないレコーダーと巧みなチャンネルローテーションを活用し僕の雄姿を確かめたものだった。


――なんか寒そう、震えてる、だっさ


――そりゃ合格発表見てさっと帰るつもりだったのに知り合いに呼び止められて、そのあとでインタビュー受けてるんだから


――何やってんの、ニュース?


――インタビューに答える雄姿を目に焼き付けてるんでしょうが


――唇真っ青なんだけど、あははは


 受け答えしているのはカジュアルな服装の女性二人。市近郊のヤングが遊ぶ場所といえば仙台駅か八木山ベニーランドの二択――あるいはアンパンマンミュージアムも候補に入るだろうか――と言っても過言ではなく、当たり前のことだがアクセスのよい仙台駅は最もポピュラーな若者の溜まり場だった。彼女たちは東北地方の玄関口でウィンドウショッピングに興じているのだろう。そんな輝かしい青春の真っただ中にある彼女たちを尻目に、喪服とぺしゃんこのペットボトルが詰まった鞄を背負う青年は強いフレグランスの臭気がリンガーするPARCOを通り抜けた。


 カナンの幸福の岸辺で懐かしき東口との再会を果たした僕は、ヨドバシカメラを通り抜けて宮城野通に出た。母との合流は3時過ぎということになっているから、約束の時間までにはあと1時間半ほどある。あまり食欲が湧かなかった僕はふらふらと辺りを歩き回った。


――ルカリオ


――お?オニスズメ


――メタング


――く、かあ。クサイハナ


 いま下っている宮城野通の仙台駅から見て右側の歩道は、父と一緒に西口のポケモンセンターに行くときに通った道だった。東京に行くたびに楽しみにしていたポケセン巡りがポケモンセンター東北の開店によって毎週でもできるようになると知り、当時の僕は感動したものだった。僕の影響でポケモンファンになった父は元凶である僕がポケモンから離れた後もポケモンを続け、個体値厳選に余念のないガチ勢に変貌した。その熱量を逆輸入した僕は最近何故かフィリピン出身の厄介オタクとPokemon Mystery Dungeon: Explores of Sky を並走している。ところで「空」の攻略wikiのURLがwiki.grovyle.net なのは熱すぎないか?


 そうこうするうちに僕は宮城野通から横道に逸れて、当時頻繁に訪れていたなか卯まで歩いてきていた。もう2時近いというのにあまり食欲は湧かなかったが、とりあえず腹を満たしておこうと入店した。


ヒロコ:

ご飯食べたの?


土間晶斗:

いまなか卯


ヒロコ:

なか卯なんてあったっけ

もっといいとこあるでしょなにしてんの


 親子丼を腹に流し込みつつ母からのメッセージに返信する。自分含めて3人しか客のいない店内では東京の繁盛店よりもむしろ他者の目が気になるという皮肉な心理に邪魔をされながら、通知とバイブレーションの止まらないスマートフォン片手に飯を食う。約1週間ぶりの外食はいつもよりも味が濃く感じた。




 ヨドバシカメラ一階のアウトドア用品エリアで母親の土間寛子は待っていた。


「なか卯ってさ、もっと選択肢あったでしょ。駅のおしゃれなレストランとかで食べなさいよみっともない」


 母は開口一番に先ほどまでいやというほど聞かされたお小言の続きを展開した。


「遊びに来たわけじゃないしさ...」


「来るのに四五千円くらいかかったんだから、元取りなさいよ」


 移動費用の元を取るという斬新な発想はさておき、母は明朗快活という言葉がしっくりくるひとだ。夫の葬式だというのに僕にはこうして全く不安を感じさせない態度で接してくる。母は以前傘選びで困っていると相談した僕に風に強いアウトドア用の傘を購入することを勧めてくるが、僕はその元気さにあてられて逆に萎れてしまいそうだ。


「今日は、もうご飯作る気ないから。夜は外で食べる。あんた何食べたい」


 僕はアウトドア用の懐中電灯を意味もなく点灯しながら「この辺何あった?」と尋ねた。


「じょうばん屋とかどう?」母は焼き肉屋を提案してきた。


「ああ......縁起悪くない?明日、焼くんでしょ?」


「かーんけいないって。あんたもあたしも疲れてるでしょ。疲れてるときは焼肉たべたいじゃない」


 葬式前日に焼肉を食うのは保険金殺人に成功した寡婦かDV夫が死んでせいせいした妻ぐらいのものではないだろうか、と思ったが、焼き肉など上京して以来一度も食べていない僕は二つ返事で了承した。そのときふいに鼻がムズムズし、両手が懐中電灯と荷物で埋まっていたために我慢できずくしゃみをした。その拍子に指がボタンに触れたようで、懐中電灯のライトは消えてしまった。


 その後、必要な小物やのど飴などの適当な菓子を買いそろえて日も傾いできた5時ごろ、先ほど話していた焼き肉屋に入店した。始め母は最近導入されたらしいオーダー用タッチパネルの反応が悪くあーだのうーだの言いながら肉を選んでいたが、生をカートに入れたところで「あんたも選びな」と言って僕が操作することを促した。


「うち社宅だからさ、もう今月中に家を引き払わなきゃいけないのね」


 中ライスをカートに入れた僕は10年以上住んだ家でのことを思いだした。懐かしい。唐辛子と間違えてなめくじをつかんじゃったリビング、「お姉ちゃん」と一緒におままごとをして遊んだけど後にその「お姉ちゃん」は母には見えていなかったと知った和室、「足」が布団で眠る父親をまたいで横切りそのまま歩き去っていくのを目撃した寝室...。すべてが思い出深い。


「ほんであいつの部屋を片付けてたらさ、借金が見つかったの」


「しゃ、しゃきん?」僕は吃驚してお冷を溢しそうになった。


「そう。200万円入ってたゆうちょの口座はすっからかんで、会社で契約してた積み立てとかも勝手に解約して使い込んで、クレジットカードいっぱい作って。もう凄いの。上限金額をさ、600万円までに引き上げてたの。そのうち200万はもう使われててね」


「え、200万円の借金ってこと?」


「そう」


「じゃあバレなかったら600万全額...」


「たぶんね。しかもさ、なーんかよくわかんないサブスクとかも入っててさ。もうどうすればいいかわかんないの。あいつ隠してたから探すのも大変だし、もしひとつでも見つけ損ねたら、どんどん膨れ上がるでしょ?パスワードとかも全然わかんないし」


 僕はお通しのシャキシャキキャベツを焼肉のたれにちょっとつけてもしゃもしゃと食った。2時になか卯で飯を食ったからそこまでおなかは空いていなかったはずなのだが、充満する焼肉の匂いのせいかぐるぐるという音が響いた。お冷でキャベツを流し込んだ僕はぶはぁと盛大にため息をついた。


「だいたいの手続きは行政書士さんがやってくれるけど、そんな家探しみたいなことは自分でやるしかないし」


「あ、ハラミはここで...。はい、どうも」


 なるほどどっと疲れるというのは斯くも唐突に人間を襲うものなのである。「憑かれる」と「疲れる」が同音異義語であることは日本語の妙で、我々は死後、生者に災い為す悪霊にしまったというわけだ。僕は徐に眼鏡をはずして居酒屋・焼き肉屋特有の冷たいタオルで顔を拭き、ついでにグラスに付着した結露を拭った。


「あとさ、あいつ名義の口座が凍結されちゃうから、大学の事務室的なやつに相談して、口座変更の手続きして頂戴。あ、でも事務所いま閉じてるかな」


 網の上では動脈瘤が破裂して吹き出した鮮血のように赤いカルビがじりじりと焼き付けられ、じわじわとを流しながら褐変していく。


「いや、それは大丈夫。一応調べておいたけど、オンラインでできる」


 僕はチリチリになったタン塩をレモンだれにつけて食い、間髪入れずコメを口にぶち込んだ。母は相変わらずへらへらした表情でハラミとキャベツを交互に食べている。


「笑うしかないね」


 僕が冷ややかに笑いながらそう言うと、母はこびりついたカルビの油に引火し激しく煙る網に氷を当てて鎮火しながら、「ほんと」とだけ答えた。僕は最後に残ったカルビを新しく出したレモンだれに浸けてから食べたが、これならハラミをもう一皿頼んだ方が良かったと思った。


 食事を終え、母の車で間もなく引き払うことになる実家に帰った僕は、今は共有のパソコン部屋となっている僕の部屋に荷物を置いた。一人で住むにはいささか広い3LDKの借家を見回すと、そこかしこに懐かしいポケモングッズが飾られている。そのうちの一つ、クッキーの入っていた緑のカンカン(もりトカゲポケモンのジュプトルが描かれている)を開くと、その中にはいくつかのビーズとセピア色になったナイロンテグス、そして僕の宝物の一つがあった。


「ブレスレット...」


 僕がその青いビーズブレスレットを手に取った瞬間、それぞれのビーズをつなぐ紐が切れ、蜘蛛の糸を伝ってするすると落ちる水滴が湖面に落ちる瞬間をストロボ撮影したように、次々とビーズが手の中から零れてフローリングに当たって弾けた。しばらくとビーズの跳ね転がりまわる音が鳴り続けて、やがて多くはフローリングの溝に引っかかって止まった。手の中には青いビーズと無色透明のビーズの二粒だけ残った。


「あーもう何やってんの?あーそれね。もう中のヒモ腐ってたんだね」


 音楽番組に夢中の母は居間とダイニングを分けるふすまの向こうから、音を聞いただけで状況を理解し、やや声を張って言った。


「うわーもう、棚の下に入っちゃったよ。拾うの大変だこりゃ」


「ちゃんと全部ひろってよ」


 僕はしゃがみ込んで一粒ずつビーズを拾っていく。青、青磁、青、透明、青、青磁、青、透明......青。最後の一粒まで拾った後、仮止め用の黄色い糸をビーズに通していった。着用するには細すぎると感じた僕は缶に入っていた余りのビーズを追加し、ついにブレスレットの復元に成功した。


「全部拾ったの?明日は9時半から納棺だから、早めに風呂入っときな」


 僕はふすまの奥で座椅子にもたれかかっているだろう母に向かって小さく頷くと立ち上がった。そのとき不意に足の裏に鋭い痛みを感じ、両手で支えながら左脚を持ち上げると、足の裏には透明のビーズがくっついていた。


 この晩、俺は母と一緒にぼんやりとテレビのサマーソング特集に耳を傾けていたが、9時を回った頃には睡魔が襲ってきたのでさっさと布団に入ってしまった。たぶん、夢も見なかった。




「軽くしなよ」


「折り畳みとお茶くらいしか持ってない」


「電気」


「消した。というかさ」


「なに?」


「ほんとにその格好で行くわけ?」


 朝4時に目覚めた僕は隣の部屋で寝ている母を起こさないように新聞をとり、歯を磨きながら新聞の見出しにさっと目を通しつつ鞄から着替えを取り出し準備をした。そして6時過ぎ、自室から出てきた母の白T姿はてっきり寝間着のままなのかと思ったら、着替えを終えた後だった。僕はスラックスのポケットに黒ネクタイを入れていたが、取り出すのをやめた。


「いいんだよ。あんまりね、人呼んでないの。会社の人もお断りしたし。今日来るのはパパの伯父さんと伯母さん、あとひょっとしたらユミちゃんもくるかもしれない。でも会社の人ももしかしたら来るかもね」


 ユミちゃんとは父の妹である由海のことだ。年末に祖父母の家を訪ねるときはたいてい彼女とその旦那も一緒だったから、僕にとっては気の置けない相手だ。


「大伯父さんか...。会ったことあるのかな」


「知らん」


 大伯父夫妻は現在山形の男鹿に、ユミちゃん夫妻は千葉に住んでいる。どちらもかなり長距離の移動になるだろう。


「あんた、これ持っときな」


 母は僕の鞄に魚肉ソーセージを突っ込んだ。真意を測りかねた僕が訝し気な目線を送ると、母は「おなかすくから」と言って二本目をペンホルダーにねじ込んだ。


「忘れ物ないね、出るよ」


 僕はYシャツの袖を、カフスの部分を折り込むように丁寧にたたんで捲り、ポケットから不格好に魚肉ソーセージがはみ出した鞄を持ち上げ、ぴょこんと飛び出た赤い頭を人差し指でぐいと押し込むと無言で頷いた。


「式場の人なら骨を見て『これはスカスカですねー、不健康ですねー』とか分かるかなー」


 母は葬祭場に向かうタクシーの車内で不謹慎が過ぎる発言を繰り返した。僕は無言を貫く運転手さんに申し訳ない思いを抱きながら、「不健康って言っても50代だしスカスカってことはないんじゃないかな...」などと適当に返事をした。


 9時前に葬祭場に到着した僕たちはスタッフの案内で広い待合室に通された。この手の施設に入るのは初めての経験だったが、外観、内観共に静かではあるが決して暗鬱とした雰囲気があるわけではなく、思ったよりは明るい印象を覚えた。だだっ広い待合室に置かれたロングデスクは会議室で用いられる一般的なもので、もしすべての席を礼装に身を包んだ参列者が埋めたならばそれはさながら役員級による厳粛なディスカッションに似たものになるだろうか、などと想像した。僕は入口近くのデスクに荷物を置き、母がスタッフから受け取った香典に目を通す。


――もし長宗我部晶斗だったらどうしよう


――同僚に香宗我部ってひとがいるよ


――ほんとに?すげー


 香宗我部氏から届いた香典を手に取った僕は、「早いな、まだ4日しか経ってないのに」とつぶやいた。すると、香典返しのカタログを選んでいた母が顔を上げて、「ほーんとに。みんな噂してたのかな『土間さん、亡くなったんだってぇ』『えぇ~、そうなのぉ?』とかさ」と言った。もし噂が広がっていたとしたらその噂は良い噂ではなかっただろう、と思いながら僕は香典の束の間に香宗我部氏のそれを挟み込んだ。そのときにわかにロビーにざわめきが響いた。僕が母に代わって様子を見に行くと、礼服姿の5人の男女がこちらに向かって来ていた。彼らは父の職場の同僚だった。律儀にも、仕事を抜けて葬儀に参列してくださったのだ。互いに挨拶を交わし、喪主である母を紹介すると、僕は待合室を離れてお手洗いに向かう。


 用を足して戻ると、件の大伯父夫妻とユミちゃん夫妻が既に見えていた。


「こんにちは、晶斗です」


「アキくん大きくなったねぇ。私たちのことは、わからないかな、わからないよね」と大伯母。


「最後にあったのは...小学校1年生ぐらいのときか」と大伯父


「ええ、ちょっと...」


 十年以上前に会ったことがあるという大叔母は祖母そっくりだった。


「男鹿からいらっしゃったんですよね。今日は遠い中本当にありがとうございます」


「うーん、ほんとにね、びっくりしたの。アキ君もびっくりしたよね」


「はい。本当に、寝耳に水というか」


 大伯母は手提からハンカチを取り出して赤らんだ目元を抑えた。その後ろには神妙な面持ちの大伯父、悲しそうな目でほほ笑むユミちゃん、そしてこちらに手を振る旦那のふっくんが控える。僕は笑顔を作った。






「あー、私無理かも、見れないかもしれない」


 僕にとっての初めての死はなんだろうか。ハリー・ポッターでハリーの名付け親として亡くなった親の代わりに彼を支えた脱獄囚シリウス・ブラックの最期だろうか。ONEPIECEの主人公ルフィの義兄、エースが弟を庇って死んだシーンだろうか、あるいは湯煙殺人事件で被害者が刺殺される場面か。


 しかしこれらの「死」がこれほど鮮烈で、生々しくて、しかし現実から遊離したようなものであっただろうか。もみあげの白んだ石膏像。ぞわり。


「ねむってるみたい...」とは父の同僚の女性の言。今にも起き上がって云々などという表現では事足りない。あれは生きている。そうでなければおかしい。間もなくこの世から無くなる存在は、どうしようもなく生きている。


 籠手をつけたひんやりとした両手、水を口に含ませたときの薄桃色の唇、膝を折り曲げ窮屈そうに棺の中に横たわる姿、それら全ては証明、生の証左。震えた。


母は「大丈夫、できる?」と聞いてきたが、僕は父の旅の準備を手伝った。






「たった6文か...生きてた時は600万使ったのにな」


 大柄の男は旅の衣装としては少々不安なとろみのあるぺらぺらの着物のうえから藤色の上着をまとい、「まあないもんはしょうがないよなぁ」と不満げに瓦の腰掛け石から立ち上がり、杖を突き突き次の目的地目指して歩いていく。


 やがて男は一人の老人にであう。老人は白装束に身を包み、路傍の石に腰掛けて握り飯を食っている。男を一瞥すると左手で右頬をポリポリと掻き、5秒かあるいは1分間経った後右手に残った飯を舐めとるようにきれいに食べた。


「あんた、ずいぶん若いな。何歳だ」


「51です」


「......まだ、戻れるんじゃないのか?」


「戻れるんでしょうか」


「川向こうに誰かいたか?」


「......いなかったと思います」


「......そうか。家族はいるのか?」


「妻と息子が」


「親は」


「どちらも存命です」


「親より先に死ぬのは最悪の親不孝だ。これから先の旅は厳しいものになるぞ」


「......」


「なんちゅう顔しとんじゃ。ほれ、さっさと往かんかい」


 老人が手にした杖で男のふくらはぎを数度突くので、やれやれと言った様子の男は腰に提げた水筒の水を飲んでのどを潤すと、促されるまま果ての見えない道を歩き始めた。





「もぉー、馬鹿!なんで私よりっ、先に逝くのっ!馬鹿、馬鹿」


 祖母が古いテレビ台の上に安置した骨壺をぽかぽかと力なく叩き、ぺたりと倒れこみながら掻き抱く。その姿をただ見つめる僕とユミちゃんとふっくん。父の子ども部屋はレースカーテンが閉め切られて空気がこもり、月光と街灯と駐車場の「空」の字が差し込み薄明い。母から受け取った骨壺はずしりと重く、テレビ台に申し訳程度に敷かれた清潔な白い布の歪みを直すことすら許さない。仙台から東京への長旅は、これから父がその脚で歩む道。故郷の土の上で、閻魔の審判を受ける。これで、なんの苦労もせずに天国に行ったら俺は許さないぞ。


「......俺たちは出よう、今は、そっと......」と僕に向かって言うふっくんの悲痛な表情。この何も知らぬ優しい人たちを泣かせた者にどうか厳しい説教を。体罰ではだめだ。言葉で叱るのが一番効く。


「お義父さんは、いまああいう状況ですから、まあ、隠す、じゃないですけど、伝えるタイミングは慎重に......」


 数日前に転倒して現在入院中の祖父は息子の死をまだ知らない。体の弱っている状態でそんなことを伝えられたら身が持たないだろうという判断の下、訃報は祖母の下で止められた。


「息子さん、帰ってきましたよ、こうして」


 僕がテーブルの上に骨壺を置くのに合わせて、ふっくんは義兄の帰郷を義母にそう報告した。そして決して祖父の目に入ることのない2階にそれは一時的に安置されることに決まり、僕がふらつきながら2階に運んだ。僕は祖父に人生で初めて嘘をついたことになる。優しいおじいちゃんを守るための嘘とはいえ、罪悪感は拭えない。




「Amazon.musicで夏歌検索してよ」


「これでいい?」


「おー、いいね。ぬーすんだバーイクではーっしりだす、ゆきーさっきぃも、わかーらぬぅまま......あっくんこれ分かる?」


「15の夜ですね、あれ、ジョッキーの豊って何豊でしたっけ」


「えーっと......あれ、なんだっけ。すぅーっ。いや、あれ?あじゃあ相棒の右京さんの名前は?」


「水谷豊ですね...。うーん、ゆたか......」


「分かった」


「答え何ですか?」


「思い出してみて」


「ぐむむ」


 運転はふっくん、助手席にユミちゃん、後部座席に僕とホネ。ホネ君は律儀にシートベルトを着用している。ホネ君は残念ながら今や石灰ラインパウダーとほぼ同じ粉状の物体だが、ひときわ頑丈だったホネ君は2時間近く焼かれてなお頭骨の原型を留めていた。骨壺の隣に頭骨と下顎骨を組み立ててディスプレイされた頭蓋骨を観察したとき、これが本物のしゃれこうべなのかと感心したものだ。この骨壺には、多少砕かれてはいるものの髑髏がほぼそのまま入っている。ひょっとするとホネ君は今も僕らの他愛もない会話に耳を傾けているかもしれない。運転席から漂うメロンサイダーのむわっとする甘ったるい香りは、メロン味の菓子特有の似非メロンフレーバーであり、僕は好みではない。しかも僕は車の中の形容すべからざる密度の高い臭気も苦手としていた。飲食店でメロン味のメンコちゃんゼリーやメロン味の飴玉をもらったときは必ず父に押し付けたものだが、これら香りは僕を抱っこする父の口元から香った似非メロンの香りにそっくりだ。


「たけ...ゆたか?なんか違うかな」


「あ、正解」


「あー武ね。武士のって書いて、たけって読むんだ」


 友部SAだかで休息をとっていたとき、通り雨が降った。雨は僕が仙台に着く前からずっと振っては止んでを繰り返していた。火葬上へ向かう霊柩車の車内から緑豊かな道を眺めると、女狐が群れを成して嫁入り合戦しているのか見事な晴天にもかかわらず土砂降りであった。


 しかしいざ火葬上についてみると地面は全く濡れていないのだから驚いた。「ここだけ雨降ってなかったのかな。すごいね」と母も驚いていたが、しかし実際のところはそう不思議な話でもないかもしれない。こうなるのも当然、新妻化け狐は雨雲に化けて僕らを謀ったのである。




「こちらの部屋でお待ちください」


 そうスタッフさんに言われたのに、やれ骨壺は誰が持ち帰るか、やれ納骨堂はどうするか部屋を出て話し合う若人3人。僕は止めたよ、だってスタッフさんはこの部屋から出ないで待っててと言っていたからね。そんな視線を白くて分厚い扉の向こうに送った後、僕はしっかり部屋の後ろで待機している大伯父夫妻のもとに行く。スタッフさんが遺骨を運んできたとき、部屋には3人しかいなかった。さっきまで散々、2時間以上も話し合っていたのに、である。


「あの人は」僕は親族会議のなかであえて母と同じ呼称を用いて発言した。「寂しがりなんですよ」


「寂しがり?」とふっくん。


「そう、さみしがり。僕も母も、コドクを好むタチなんですけど、たぶんあの人はそうじゃなかった。違う人種なんですよね」


「へへへ、あっそうなの」


 これは俺ができる父の尊厳を保つための精いっぱいの好意的な表現である。




「そんな3か月で200万って......どうすれば使えるのさ」と母に尋ねたのは焼き肉屋だったが、正直言ってその答えは聞くまでもないことだと思っていた。


「キャバクラ。『○○ちゃん今日は楽しかったよ、はあと』、『――さん、知らない女の子と歩いてるの見たよ』、履歴にいーっぱい残ってた。パパ活もやってたんじゃない?」


「タクシー代1万円渡してたわけだ」


「そーね」


 母は俺が覚えているとは思っていないかもしれないが、父のこういう金にルーズで酒とたばこと女に魅せられていた一面は、ずっと見てきた。


 幼稚園かそこらのころの断片的な記憶。ふすまの奥、俺は寝たふりをしてリビングで行われる父と母の喧嘩に耳を傾ける。ふすまに映される男女の影絵は、痴情のもつれからはじまる破局の物語。母がメールの文面について指摘する。女性から送られてきたハート付きのメールを震えた声で指摘する。それに対して父は何やら弁解をしているようだったが、だんだんと母の糾弾がヒートアップしてくると、カッとなったのか父の体がぐいと動き、母の手からソフトバンクで契約していたガラケーをひったくる。そして次の瞬間ガシャーンと盛大な破壊的音声、父と母は同時に発狂、父は雑貨を投げつけ、母は物に当たるなと叫ぶ。


 俺はたぶんそのとき怖かったはずだ。でも、いま思い返すと、あの時の俺は恐怖を感じると同時に興奮していたのではないかと思う。泣いて弱った母、激高した父、初めて見る両親の一面に俺は衝撃を受け、身が打ち震えるほどの興奮を覚え、その光景をまるで甲子園中継の画面を食い入るように見つめるオヤジのごとく手に汗握って目に焼き付けていたのではないかと思ってやまない。


 それから母がこういうふうに感情的になることは無くなる...ことはなくしばしば俺との間で邪魔だあっちいけうるせえなどと母と息子との間によくある相互排斥活動を行ったが、父の単身赴任もあって母は感情を制御する強さを手に入れた。だから父と母の間に喧嘩がなくなったのは、父の放蕩が無くなったというよりは母がそれを気にしなくなった、あるいは諦めたことによるところが大きいだろうとみている。その証拠に、父の寝室(父と母は俺の部屋を挟むような位置取りの部屋を寝室としている)からは無呼吸症候群特有の不規則な呼吸音・いびきとともに、ときおり女の子の名前が聞こえてくるのである。どんな夢を見ていたのでしょうね。


 泣いている職場の同僚、ハンカチで目元を抑える大伯母とその背をそっとさする大伯父、急なことにもかかわらず香典を送ってきた香宗我部さん他、明るい話題で俺を気遣う義叔父と叔母、今も年末に息子と会えるのを楽しみにしているだろう祖父、彼らはみなイノセントである。俺はただただ罪悪感で押しつぶされそうである。それは骨壺よりはるかに重い。いますぐにこのパウダースノーのように細かく砕かれた灰をぶちまけたら、いくぶんかきれいに、無垢に、見えるだろうか。




「いやー、あっちいな。ユミちゃん何飲みたい?」


「えー、これかな」


「メロンソーダ?あそう。あっくんは?」


「うーん、僕はいいかな......」


「いやー、暑くてとけちゃうよ?なんか冷たいの飲みなよ。あ、ずんだアイスあるじゃん」


「ずんだアイス」


「あ、これにする?」


「...じゃあ、お願いします」


 ずんだアイスは喜久水庵のやつしか認めない派閥の俺がどこのメーカーのものとも知れないカップずんだアイスを食うことなどありえないと思っていたが、俺は叔父のおごりでこのてらてらと怪しげに光る黄緑のアイスをちびちびと食っている。フードコートの端っこ、隣でメロンサイダーを飲む叔母と正面でコーヒーを飲みながら渋滞情報の掲示板を遠めに見つめる伯父、楽し気に喜多方ラーメンをすする家族に囲まれている俺は、表面が程よくとけつつも冷気によって霜の降りた芝生のような緑のアイスにプラスチックのスプーンを突き立てる。かつて父、母と訪れた三井アウトレットパークで食べた喜久水庵のアイスにはとうてい及ばないこのアイスだが、なんとなくもったいないような気がした俺は芝を刈るように薄くアイスをこそげ取っては舐めること繰り返し、最後にカップの底にのこった緑の液体とひきわり枝豆をカップに口をつけてごくりと飲み込んだ。


「うし、じゃあ往きますか」


――はい、とうつぁーく


「ふふふ、ごみ捨ててきまーす」


 あの人が、持ち込んだ貴重な食糧である雑穀を質に入れて借金し、600文で牛車をレンタルして旅人を悠々と抜き去っていく姿を思い浮かべている僕はいま、どんな顔で笑っているのだろうか。







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融けよ昇れよアイスクリン 山形在住郎 @aritomo_yamagata

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