第四話『青と赤の連続階調』

——赤紙。


 私は、机に置かれたその紙切れから、目を背けたかった。


 赤紙とは、つまりは召集令状、戦場への呼び出し状だ。もし地獄というものが存在するならば、赤紙は地獄からの死者の声、と呼んでも差し支えないだろう。私を含め全国の日本男児が、口に出しては言わなかったものの、心の内ではもっとも恐れていた存在。それが、憎き、赤紙だった。そのたった一枚のちっぽけな紙切れによって、無垢な青年は、問答無用で人を殺し、また同時に他人に殺され得る、小さな、だが確かな、殺戮さつりく兵器へと変貌するのである。


 赤紙を受け取った日、私はもう十八歳になっていたので、ずいぶんと背は伸びて、母の身長、そしておそらく父の身長も抜いていた。しかしそうは言っても、中身はまだまだ青臭い小僧だ。

 そして私は、この世の全てがどうでもよくなり……


 家を飛び出て、駆けた。


 町を抜け。

 両脇には、青々とした広がりを抱える畦道あぜみち

 昔、私がよく盗みを働いた、農家のおっちゃんの、トマト畑の前を通りがかる。


 真っ赤なトマト。


 闇夜の月明かりだけでも視認できるほどに鮮やかな赤い実が、たくさん木に成っている。

 私の足は、自然と、そちらへ吸い込まれた。

 畑に忍び込む。

 木のてっぺんは、私の顔よりも低い。


 ……背が伸びたんだな。


 どうやら先客がいたらしく、あちこちに、木に成ったまま実がえぐれて、赤い汁の滴るトマトたちの姿があった。

 きっと、野生動物に食い荒らされたんだ。

 そして私は無意識に、まだ誰の手もついていない、形のいい、最も赤い一つに手を伸ばす。

 それを、野球のボールのように握って、

 顎を外すかと思うくらいに口を大きく開き、 

 かぶりつこうとすると……


「坊主。遠慮せずに、食えや」


 農家のおっちゃんに見られていた。


「あ、おっちゃん! ごめんなさい!!」

 私は、自分の過ちに気づくと、大慌てして、すぐに謝った。


「いいがら、食えっで。いや……お願いだ、食っでくれぇ!」

 おっちゃんは……


 泣いている。


「赤紙……來だんだっでな。聞いたぞ」

 おっちゃんはそう言うと、私の頭の上に、ポンと、手を置いて撫でた。おっちゃんとは、今では仲良くさせてもらっている。たまに、畑の収穫も手伝ったりする。


「はい……」

 私は、赤い玉を握る手をぶらっと下げ、そう弱々しく返事した。


「まだまだ靑臭ぇ坊主が……まだ成熟し切る前に、摘み取られる。おれあ、まるで收穫前の靑いトマトを、全部盜まれちまったような氣分だよ」


 おっちゃんのその言葉を聞いて、私も、涙が溢れてきた。


 鼻水も、たくさん。


 トマトというのは、いくらか青いまま摘み取っても、時間が経てば赤く変化するものだ。しかし、そういうトマトは……不味いのだ。私は、おっちゃんに教えてもらったので、それを知っている。トマトは、木になってる状態で赤くならないと、甘く、美味しくならない。未熟な兵を戦地に送るのは……それに似ている。いくら青臭いガキでも、無理矢理戦地に送りこめば、になる。それは、返り血によってなのか、それとも未熟さゆえに生き延びることが叶わず、全身から血を吹き出して無駄死にするのかは、わからないが。

 また、トマトは、あまりに雨が多いと、甘く美味しいトマトに育たない。悲しみの涙で、人は、幸せには、豊かには、ならないのだ。


「さぁ坊主…………食え」


 私は、いただきます、を言うことも忘れて、

 赤いトマトにかぶりつく。


 美味い。


 そのトマトは……


 世界で一番、甘かった。


〈完〉



【結びに】

戦争により亡くなられた全ての方々に哀悼の意を捧げますとともに、ご遺族の皆様のご多幸を心からお祈り申し上げます。

二〇二四年八月十五日 

加賀倉 創作

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青いトマト、赤いトマト 加賀倉 創作【ほぼ毎日投稿】 @sousakukagakura

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