6
玄関先に置かれた段ボールを見て、シュガーちゃんは不思議そうに鼻をすり寄せる。匂いが危険なものではないとわかると、開いた蓋の端を少しかじってみる。口から段ボールの欠片を吐き出し、小さな手で弄び始める。箱の中には古びた雑巾とバスタオルが入っていて、以前シュガーちゃんを病院に運んだ時に使ったものだと気付く。シュガーちゃんは箱の中に飛び込んで、タオルに頭をこすりつける。
「ご近所に見られるとあれだから、どこか離れたところに行きなさい。人目につかないところね」
箱を持ち上げても、シュガーちゃんは安心しきっているのか、動揺を見せない。それどころか、そのまま箱の中でくるりと尾をまるめ、身体を横たえた。
「早く行ってきなさい」
母の顔を見る。こちらを見つめる二つの目の形に、黒々とした穴が開いている。その中には、私がいる。昨晩母の机を漁って日記帳を盗み見た私。母に抗おうとした私。母に答える私。母もいる。祖母もいる。祖母のお母さんも、そのまたお母さんもいる。揃って私を見ている。
私はドアを開けた。車に近づき、後部座席に段ボールを載せる。シュガーちゃんは閉じていた瞼を動かし細目でこちらを見ていたが、すぐに前脚の上に顎を載せて目を閉じた。
運転席に乗り込み、車のエンジンをつける。唸り声とともに座席が小刻みに震え出す。シートベルトを引き出し、金具を差し込む。手は震えていなかった。ハンドルを握り、アクセルを踏む。
家を出てきたのはいいが、目的地を決めていなかった。近所ではいけない、母の言葉に従ってできるだけ遠くへと車を走らせる。カーナビを見るのをやめ、当てもなく目についた交差点を曲がり、陸橋を渡り、国道に出た。シュガーちゃんは物音を立てずにいる。眠っているのか、箱から飛び出してくることもない。この状況だけを見れば穏やかなドライブに違いなかった。
ペンキで赤く塗られた橋を渡っていると、眼下に広々と広がる野原が見えた。幅の広い河川敷だった。釣り客やバーベキューをしている家族連れもいない。
なんとなく、あ、ここにしよう、と思った。
どうせなら、広々とした場所に置いてこよう。人通りもないし、草原みたいで気持ちがいい。風に吹かれてそよいでいる背の低い草の中から、飛び出して跳ね回るシュガーちゃんの姿が浮かんだ。ここでなら、シュガーちゃんも生きていけるのではないかと何の根拠もなく考える。国道から逸れ、細い道路を通って河川敷に降り、橋の下に車を停めた。
川の方からぬるんだ匂いが流れてくる。後部座席を開けて段ボールを運び出す。シュガーちゃんは振動で目を覚ました。細く開いた目の中で、湿った金色が鈍く光る。
箱を草むらの中に置いてみる。河川敷の端ではなく、橋の下、歩道沿いの場所だ。釣りや散歩に来た人が目につきやすいように。もしかすると、案外すぐ誰かに拾ってもらえるかもしれない。
シュガーちゃんは恐る恐る、箱に手をかけた。頭だけを箱から出して、周りの匂いを必死に嗅いでいる。知らない匂い、乾いた草と土と、それに排気ガスの匂い。トラックが過ぎ去っていく轟音、水の流れる音。いきなり放り出された音と匂いの渦にシュガーちゃんは怯えていた。
箱の傍に座り込む。日が傾き始めている。
シュガーちゃんが怖くなくなるまで、箱の外に出られるまでここにいよう。箱の中に手を突っ込んで、せわしなく息をするシュガーちゃんの背を撫でる。指先に変わらない温度と毛の感触がある。
強い風が吹きつけてきて、一斉に草むらが揺れた。土埃が舞い上がって顔に当たる。饐えた匂い、砂の粒子、乾燥した空気が押し寄せてくる。
目の前に夕陽がある。丸々と肥ってオレンジに輝く光が、もうすぐ消えていこうとしている。手の中の感触が大きく震えて、いなくなった。
シュガーちゃんは、恐る恐る踏み出したのだ。強風に煽られ、整えられた毛並みはてんでばらばらの方向に飛んでいく。初めて肉球に感じる土の手触り、草が毛に触れる感覚、シュガーちゃんはゆっくりと辺りを見回した。長い髭が草と同じ方向に流れる。
私は、シュガーちゃん、と呼ぶ。シュガーちゃんは反応しない。
もち、と呼んでみる。もちは振り返りもしない。
私は手を伸ばす。もちは指先をすり抜けていく。風の吹いてくる方に、夕陽の方に、歩き出していく。
夕陽は落ちようとしている。輝く円の三分の二が川の果てへと消えている。夜が来る。ここを呑み込んでいく。
私は立ち上がる。もちは足を止めない。
もちを追おうとするが、足が動かない。何かが絡みついていて、引きちぎって前に走り出すことができない。草が揺れる。風は吹き続けている。
草の中に母がいる。私を見ている。
母の視線が私の肩を、腿を、腹を射抜き、串刺しにする。後ろに引っ張られ、身体が大きくのけぞる。首筋に手をやる。首が痛む。息が吸い込めない。
母の力は強くなる。頭を振って手を伸ばす。指が目の前の見えない肉壁を引っ搔く。
母がいる。祖母がいる。みんながいる。
「お母さん」がそこら中にいる。
誰もが私を見つめている。見つめて、私を行かせまいとしている。自分の側に引き戻そうとしている。
私は首に手をかけた。そこにはぬるっと湿った感覚があり、もがいた足は液体を踏み、吐き出した空気は泡となって砕け散っていった。私は羊水の中にいた。首には臍帯が巻き付き、赤黒く光るそれは母の股から長々と延びてきていた。
さいたいけんらく。
苦しい。苦しくて生きていけない。
母の声がする。母の声が私を呼んでいる。
生まれてくる私に、何度も話しかけている。
お母さんがいなければ。お母さんがいるから。お母さんのおかげで。お母さん。お母さん。お母さん。お母さん。
もちの姿は見えなくなろうとしている。
もち。
金の目がこちらを振り向いた。
右足が動く。左足を踏み出す。体重を前に押し出す。よろけて倒れ込み、土の上に両手をつく。土の匂いが喉奥に入り込んできた。起き上がって駆け出す。遠ざかってしまった距離を縮めようと走る。
もちは目を見開いて逃げ出した。
胴に回そうとした手が空を切る。眠っていた時からは想像できないほどの俊敏さで、もちが草の中を潜り抜ける。白い後ろ足が土を蹴り、毛並みに茶色の土が飛ぶ。もう一度掴む、もちが身を捩ってすり抜ける。私はバランスを崩して土の上に投げ出された。パーカーのフードに土が入り込み、背中へと落ちる。パーカーの前面が茶色く汚れる。ズボンも、スニーカーも土塗れになる。もちの背や腹にも土が大量についている。
抱っこ、とかいう生易しいものではなく、ただ捕まえるために腕に力を込める。再び胴を掴み、暴れる身体を押さえつけ、上半身を前に倒してもちを覆う。もちは足を何度も私に押しつけ、何とか通り抜けられる空間を作ろうとしたが、私はそれに対抗するようにもちを締め上げる。
奥歯を噛みしめて、唸り声を上げる。もちの柔らかく脆い腹に爪を立てる。目の前にあるふわふわとした首のあたりに噛みついて、息を吐く。この歯が毛の層を抜けて、皮膚まで達したら、やっぱり血が出るのだろうか。赤々として新鮮な血液がいくつもの筋になって流れ出すだろうか。白い毛に赤い血がゆっくりと染み出すさまはさぞ美しいだろう。血の流れは枝分かれする川のように複雑な模様を描くだろう。もちの肉は美味しいだろうか。引きずり出したはらわたは?
やがて、もちの身体から力が抜ける。腕の中を覗き込むと、抵抗を諦めたもちが私を見ていた。
さあ、帰ろう。
もちを段ボールに入れ、車に積み込む。箱の中に入っているタオルが茶色に染まる。もちは箱の隅に蹲る。
運転席に座る。尻から落ちた土がシートに広がったが、気にせずエンジンをかける。
もちが箱の中で動く音がする。
私はうっとりしながらハンドルを握り、アクセルを踏む。
簡単に揺れて形を失い、部屋の中に流れ出していく朝の光が、もちの柔らかな毛並みを照らし出している。
入り込んできた風にカーテンが揺れる。ひときわ不安定で細かい毛が並ぶ腹に手を添えると、もちはごろごろと喉を鳴らしながらぐるんと転がり手足を曲げ、天井に無防備で弱い部分をさらけ出した。
もち。
私は呼び掛ける。
もち。
もちは返事をしない。しかし、私の声が届いていることを私は知っている。
もち、かわいいね。
もちは金色の目を細めて、微笑む私の顔を見ている。もちは褒められて嬉しいと思っている。そうに決まっている。そうでなければならない。
もちが頭を上げる。その下、喉の部分は真っ白で何にも巻きついていない。河川敷でもちが逃げ出して捕まえた際、首輪は取れてしまったのだ。
私は傍らから新しい首輪を取り出し、もちの喉元に持っていく。私の動きに気付いたもちが手や足を突っ張って抵抗するも、やがてそれが意味もないことであると分かったようだ。
金具を留め、手を放す。そこから延びる長い紐は、赤い色をしている。
赤い首輪の猫 汐見 杳 @kiritotirik
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