5
ベッドの中で母の言葉を思い出す。これから夫となる男とセックスして子供を作る。子供はすくすくと成長し、母の理想通りの女になる。私ではなく母に懐く娘。母に従順な私がもう一人、家族写真の中で微笑む。娘の中にも同じ血が流れている。儀式は母と娘の問答に変わる。きっと娘は私よりもにこやかに答えるだろう。私よりも母を喜ばせられる答えを手に入れる。
シュガーちゃんが、んぁあと小さく鳴いた。ケージの中から私の様子を伺っている。
私は起き上がった。ベッドから抜け出すと、シュガーちゃんがケージの端に近寄ってきて柵が揺れる。明日、シュガーちゃんを捨てなければならない。
ドアノブに手をかける。音が出ないようにドアを開け、身体を滑り込ませる。月に照らされた家の中は薄ぼんやりと発光しているように見える。体重の移動に気を付けながら足を踏み出す。階段の段差を一歩ずつ踏みしめながら、ゆっくりと下へ降りていく。
部屋に入ると、中央に置かれたベッドは真ん中が盛り上がり、上下している。母は深く眠っているのか、こちらの気配に目覚める様子がない。いつの間にか止めてしまっていた息を吐くと、部屋の隅にある机に手を伸ばす。慎重に引き出しを開け、取り出した携帯のライトで中を照らした。
母に対抗できるものが欲しかった。弱みを握れるようなもの、黙らせられるようなもの。写真でも文書でも何でもいい、それで母がシュガーちゃんのことを諦め、子供を諦めてくれるなら。引き出しの中身を机の上に出す。ヘアゴム、化粧品、書き途中のメモ用紙を見ても、買うもののリストや日付が書いてあるだけで有用なものはなかった。奥の方に手を伸ばすと、指先が硬い何かに触れる。手を突っ込んで引っ張り出すと、分厚い黒い冊子が現れた。ライトを表紙に近づけると、金色で印刷された「日記帳」の三文字が浮かび上がる。
私は携帯を持ち直し、手の汗をパジャマで拭う。一つ呼吸し、表紙をめくった。
三月五日
お母さんへ
今日は自分の部屋に掃除機をかけました。お母さんの言った通り、部屋の隅まで四角く掃除機をかけたし、床に置いたものを移動させて埃を取りました。その後はお昼ご飯を食べました。トーストにジャムを塗ったものと、ヨーグルトです。飲み物はコーヒーではなく紅茶にしました。お母さんの好きなダージリンティーです。洗濯物は色柄物をネットに入れ、白いものと分けました。ワンピースはそのまま洗うと劣化してしまうから、別にしてクリーニングに出すか手洗いします。
午後一時、テレビをつけて四チャンネルに回してワイドショーを見ました。出演者は六人でした。番組の途中でつけたから出演者の名前は分かりませんでした。二時間ほどワイドショーを見て、午後三時くらいに玄関のチャイムが鳴って宅配が届きました。送り主は県外に住む親戚からでした。箱の中に入ったメモに、頂き物があったからおすそ分けすると書いてありました。中身は箱いっぱいのみかんでした。私はこの量は食べきれないと思いましたが、もらいものを無下にするのも悪いし全部食べきることにしました。
夜ご飯は娘と親子丼を食べました。親子丼には三つ葉を散らさなければならないからスーパーに急いで買いに行きました。今これを書いているのは午後九時です。後一時間ほどしたらベッドに入って寝ようと思います。
三月二十一日
お母さんへ
今日は洗面台の掃除をしました。お母さんの言った通り、金属部分の掃除にはクエン酸を使っています。シンクを磨き終わったら水ですすぎ、タオルを濡らして鏡を拭きました。鏡は上の方から横にタオルを滑らせ、次に上下に拭いていきます。濡らしたタオルで拭き終わったら、乾いたタオルで同じ鏡を拭きます。
お昼は納豆ご飯を食べました。お母さんがからしは入れるなと言っていたから、からしを抜きました。食べ終わったら茶碗を洗いました。
午後一時にテレビの四チャンネルをつけてワイドショーを見ていると、庭の方から高い鳴き声がしました。窓を開けると庭に仔猫が入り込んでいました。汚れた動物は汚いから触るなとお母さんが言っていたから、娘に対応させました。病院に連れて行って綺麗になったら、娘に飼わせようと思います。可愛いから子供を育てる練習になりますし、これで娘も子供を産む気になると思います。お母さんが言った通り、女は子供を産んで育てなければならないのです。
夜は疲れていたから出前を取りました。醤油ラーメンが二つです。仔猫はシュガーちゃんと名前をつけました。白かったのと、お母さんが紅茶に砂糖を入れるのが好きだからそうしました。
今これを書いているのは午後十時十三分です。仔猫の受け入れ準備に手間取って、少し遅くなってしまいました。午後十一時には寝ようと思います。
三月三十一日
お母さんへ
今日は床を磨きました。全体に水拭きをして、その後に空拭きをします。リビング全部を拭いたら二時間くらいかかりました。毎日一つでも掃除をするのは、女は毎日家の仕事をしなければならないとお母さんが言っていたからです。
お昼はうどんを食べました。玉ねぎと溶き卵を鍋に入れて、醤油と出汁で味付けをしました。
娘と一緒に食べましたが、最近娘の様子がおかしいです。あの仔猫を飼い出してからというもの、何かを取り繕っている感じがします。私がいつものように報告させても、頭はどこか別のところにあるみたいです。それどころか、私に歯向かおうとする素振りを感じます。
女は従順であるべきなのに、お母さんがそう言ったのに、娘は従おうとしません。私は従順でした。お母さんも従順でした。お母さんのお母さんも、そのお母さんも、みんな従順でした。なぜなら私やお母さんや、お母さんのお母さんには同じ血が流れているからです。血と一緒に、お母さんが受け継いだ教えを、私も受け継いでいるからです。娘が従順になるには、子供を産むのが一番いいと思います。子供を産めば私と同じようになって、私の教えを子供に伝えるからです。
夜ご飯は野菜炒めにしました。キャベツと人参と玉ねぎを炒め
勢いよく冊子を閉じる。息が荒くなっていた。目がちかちかして苦しい。指に力を入れて日記帳を引き出しに戻す。ベッドを振り返ると母はまだ寝息を立てている。急激に身体が重くなり、部屋の外へと足を引きずる。自分の部屋へと戻るころには、脇と背中に大量の汗をかいていた。
声がうまく出せない。布団に潜り込んで横になった身体を縮め、膝を抱える。息はまだ整っていない。
全て無意味だった。
母もまた祖母に、「お母さん」に答えている。答え続けている。適切な娘になり、適切な女になり、適切な母親になる。「お母さん」という、記憶の中にいる亡霊の視線に晒されている。そして、「お母さん」の血は私の肉体に流れ込んでいる。私が子供を産み、娘が子供を産み、その娘がまた子供を産む。同じ血が流れていく。女の股から股へと、赤い線が引かれる。私たちは皆繋がっている。
明確な吐き気。胃袋をどんと下から蹴り上げられるような感覚。胃の中には何も残っていないが、身体はあるはずのないものを吐き出そうとしている。自分で自分の身体を抱きしめる。目から生理的な涙が流れ出す。私は咳込んだ。咳き込み続け、泣きながら指を喉奥に突っ込んでも、何も出ては来なかった。
それでも、何度も何度も、何かに駆られて指を突っ込み続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます