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最初の一週間、シュガーちゃんはほとんど全ての時間をケージの中で過ごした。自分の匂いが染みついたトイレからようやく小さな身体を引っ張り出せても、硬くて確かな金属たちで覆われたその箱型の世界を自分の全てと定めて、そこに何があるのか、構造も名前も残らず認識できるようになるまでは決して出ようとしなかった。私は五分おきにみぁぁ、みぁ、という高い声が鳴り響くケージを頭がおかしくなりそうになりながら見つめた。シュガーちゃんの現在の状態を知るために、鳴き声が必死に訴えてくる欲求を叶えてやるためにはどんな些細な動きも見逃せなかったのだ。

 空になった餌皿の前で座り込んでいれば慌ててキャットフードを入れてやり、一日三回は水を替えて清潔な水道水を飲ませた。小指の先ほどしかない薄桃色の舌が透明な水を器用に掬って口へと戻っていくのを私はぼうと眺めていた。後ろ足を突っ張り尻尾を震わせたひたむきな排泄が終わると、すぐさまビニール袋を持って行ってスコップで排泄物を回収した。生まれて初めてみるシュガーちゃんの排泄物は人間のものとそう変わらず、ただサイズが縮んだようなものだと思った。朝から晩まで同じキャットフードしか食べていないはずなのに、たったいま砂の上に落とされた排泄物は鼻の奥に残るほど臭い。

 シュガーちゃんはいきなり連れてこられて閉じ込められたこの世界を、そろそろと注意深く見分し冒険した。白く薄い金属でできた踊り場が一、二段。今のシュガーちゃんの脚力では、一番上には二番目の踊り場を経由しないと飛び上がれない。天頂には金属が格子状に張り巡らされていて、夜になるとその格子はふわふわした薄いオレンジ色の繊維で覆われてしまう。その繊維は古くなっているらしく、ところどころほつれて切れた繊維が飛び出している。その繊維はシュガーちゃんが爪をひっかけて遊ぶのにちょうどよく、二本足で立ち上がれば楽に手が届いた。夢中になって遊んでいるといきなり繊維が消え、代わりに格子が現れる。

 深夜になるとシュガーちゃんが落ち着いて眠りにつきやすいよう、使い古したバスタオルをケージにかけていた。私がバスタオルを取り去ってやるとシュガーちゃんは不思議そうに瞬きをした。たった今までそこにあった遊び道具がいきなり遠くに行ってしまい、何か得体のしれない大きな生き物がこちらを覗き込んでいる、とでも思っているのだろうか。ケージの隙間から時々指を差し込んでシュガーちゃんの頭や背中をそっと触ると、シュガーちゃんはそれまで認識していた世界に知らない物体が入り込んできた恐怖に身を震わせ、素早くトイレにもぐりこむ。そこがシュガーちゃんにとって一番安心できる場所だった。

 私はあの日から一度もシュガーちゃんをもちと呼んではいなかった。シュガーちゃん、と呼びかけるたびに口の中にざらざらした細かな粒子が入り込んで舌の裏に溜まり、少しずつ蓄積していく。

 シュガーちゃんがいよいよケージを出ようという意思を見せ始めた時、私はひたすら息を詰めて部屋の隅に座り込み、足を抱えて、シュガーちゃんの踏み出す世界の脅威とならないように努めた。シュガーちゃんがケージの外で認識する世界はすべて柔らかく清潔で、害のないものであるべきだったし、私がその帳を破るものであってはならない。細心の注意を払ってシュガーちゃんがけがをしそうな刃物や誤飲しそうな小さなボタンや食べかす、イヤリングをしまい込み、後はただシュガーちゃんの一挙一動を見つめる。

 シュガーちゃんはその白く不定形で今にも崩れそうな前脚を、そっとケージから出してフローリングの上に置いた。その固い木材の感触を肉球で感知して、驚いたように目を見開く。この固い物体がいったい何なのかシュガーちゃんは知らない。踏みしめた足に小さな鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅ぐ。何か自分が知っている匂いがないか、馴染みのあるものに似てはいないか、鼻の奥の器官に広がる感覚を慎重に探り、答えを探している。

 呼んであげなきゃ、と唐突に思う。

 もち、と口を突いて出た。瞬間、間違えた、と思う。

 でもシュガーちゃんは、もちと呼ばれて私がいる方向に顔を上げた。耳をぴくぴくと動かして、声のした方向をじっと見つめる。もち、シュガーちゃんが反応を示すのはシュガーちゃんではなくもちという名前だ。私がつけた名前。母ではなく、私が考えた名前だ。私の。私の、もち。

 辺りを見回す。ここは二階の寝室だし、近くに母の気配はない。私の声を聞かれた可能性はおそらく無いだろう。それでも、脇の下がじっとりと湿り、頭の奥で異様に早い鼓動が木霊している。こめかみからすっと血が下がり、目の前の光景が瞬時にぼやけて遠ざかり、全身を尖らせて母の存在を探る。私は今罪を犯している。母の意思に背くという罪、私の肉体の底を今も流れている血に抗うという罪。ドアをそっと開けて外に母の姿が無いことを確認して、私は長い息を吐いた。

 なぁ、というか細い声が足元から聞こえ、シュガーちゃんが私の爪先に片足を置いてこちらを見上げている。小さな顔の大部分を占めている二つの金色の瞳がまっすぐに私を捉え、限りなく細い瞳孔はぴたりと動きを止めていた。足からはじんわりと薄い熱が靴下を通して皮膚に伝わる。

 もち、ともう一度呼んでみた。

 薄桃色に上気した耳がこちらへ向けてくるりと回り、髭がふっと揺れる、シュガーちゃんは、シュガー、いや、もちは、その柔らかくつきたての餅のような腹をせわしなく上下させながら、ただじっと私を見上げている。この部屋には私ともちしかいない。その事実に私は恍惚とした。

 私はゆっくりと膝を折ってしゃがみこみ、もちを怯えさせないよう細心の注意を払ってその脆い身体に手を伸ばす。もちはびくりと大きく身体全体を震わせたが、そこから逃げようとはしない。そっと持ち上げた感触はあまりにもちっぽけで、簡単で、単純で、泣きそうになるくらいにあたたかく、脈打っていた。鼓動していた。この部屋の空気を吸って、吐いて、目を見開いて、私を認識して、生きていた。

 生えたばかりの白い毛が、もちの呼吸に合わせてそよいだ。あるはずのない風を生み出し、その軌跡を私に見せている。羽虫が花の蜜にふらふらと吸い寄せられるように私は鼻を寄せ、鼻の穴の中に毛がみっしりと入ってくるのを気にも留めず、思い切り息を吸い込んだ。もちは砂糖の甘いにおいなどしなかった。もっと饐えた匂いがして、乾いていて、細かな土が舞っている、それははるか遠くの荒野の匂いだった。

腕の中の存在がひたすらに身をよじり、長い時間の拘束に耐えかねて飛び出した。掴まれたせいで乱れた毛の流れを執拗に舐めて胸から尻、背中、尾の方へと揃える。もち。急にぴたりと合った焦点に頭のほうが追い付かない。

 「呼んでるんだけど。早く来なさいよ」

冷やされた声が私の背中に押し当てられ、ふつふつと茹っていた意識が急速に固まった。母が部屋のドアを押さえてこちらを見ている。壁に取り付けられた時計が目に入り、いつもの儀式の時間を過ぎてしまっていたことを知る。私はシュガーちゃんをケージに戻し、母の後について階段を降りた。

 シュガーちゃんがソファの布地の上で身じろぎをし、白い毛に包まれた腹を天井へと向けた。金色の光に包まれているこの部屋は酷く居心地が良い。もともと一つの線だったものは、カーテンを通り抜けると柔らかくうねって解けて小さな粒子になり、部屋の中の空気に溶け出して分散し、上から降り注いで床に降り積もっていく。シュガーちゃんが動けば舞い上がり、上部と混ざってやがてはこの空間全体に充満していく。あれから、シュガーちゃんの世界はケージから私の部屋へと拡大した。未知への恐怖、不安が消えてしまうと、シュガーちゃんはそこを征服できることに気が付いたのだ。足をつけ、踏み均し、自分の領土とする。簡単なことだった。窓際に置かれたソファも、布団がめくりあがったベッドも、あまり本が入っていない本棚の中も瞬く間にシュガーちゃんのものになった。シュガーちゃんは悠々と部屋の中を闊歩し、周りを見渡すと物音を立てずに布張りのソファに飛び乗り、手足を折り込んで身体を丸める。

 シュガーちゃんと部屋に閉じこもるのは心地よかった。シュガーちゃんの世話をしていれば母は話しかけては来なかったし、部屋にも近づこうとしなかった。シュガーちゃんがいれば私は母の視線から、詰問から逃れることができた。四角形の繭の中で手足は伸びやかに呼吸し、余計な力が抜け、肺の底まで息が入っていく。

 「三分遅刻」

椅子に腰かけた母の向かい側に座る。母の声は明らかに私を咎めていたが、それでもよかった。いつも母に感じていた、実体のない罪悪感がだんだんと薄くなっているのが分かった。

母の棘は鋭さを無くし、私に刺さる前に零れ落ちていく。

 私は母を真正面から見た。

 母の目元、口の端、額には、うっすらと皺が刻まれていることに気付く。唇や肌は乾燥し艶がなく、髪も乾ききってしなやかさを失っている。私は母の目を見据える。こげ茶色の円の中に映る自分と向かい合っている。組んだ指は、爪の部分がひび割れて白い筋が走っている。白いカーディガンの袖はほつれ、手首の脇から糸が飛び出している。

 それは空洞だった。人の形をした黒い洞穴、質量を持って塗りつぶされ、声も光も底に届かず落ち続ける完全な闇だ。明るいリビングの中でそこだけがぽっかりくり抜かれて、置いてあったデータが消去されてしまったかのような違和感がある。それまで、自分を覆いつくす空であった母が、急にしぼんだように感じた。母の周りに漂うぎこちなさ、立体感の無い平坦な映像。

 私はあらかじめ決まっていた答えを繰り返す。今日の洗濯物はパーカーとワンピース。それとグレーの靴下。昨日干したブラウスのボタンが外れそうになっているから、後で繕わなければならない。掃除機は明日かけることにする。洗剤と柔軟剤はこれくらい、投入口に溜まった水は捨ててある。身体の表面に張り付いた「母親用の私」の粘着力が弱くなっている。もう少し力を入れれば取り外せそうなほど。

「シュガーちゃんの様子はどうなの」

「元気だよ。ケージから出たらすぐに散歩し始めたし、今じゃソファにもベッドにも上るようになった。たまにカーテンで爪とぎをするからぼろぼろになっちゃって」

「そう」

母は湯呑の茶をすする。私の視線から顔を外し、少し俯いた。目を窓の方に向ける。

「そんなに世話ができているなら、子供が出来ても大丈夫ね」

 子供。その二文字が耳にぶつかっていつまでも入ってこない。耳の穴を通り抜けるには大きすぎるのだ。異物感を耳に感じたまま私も茶をすすったが、熱いだけで味が分からない。

「子供? いきなり何の話? 」

「仔猫なんて人間の赤ちゃんみたいなものでしょう。シュガーちゃんをちゃんと面倒見られているなら、赤ちゃんでも同じじゃない。きっとあんた良い母親になるわよ」

母親が微笑む。その華やかな笑顔を見て、飲んだ茶が胃からせりあがってくる。

「子供作りなさいよ。男の子はあんたの体力じゃ無理そうだから、女の子が良いわね。女の子はお洋服も着せがいがあるし、おもちゃだって壊さないから安心よね。そうだ、いい助産院調べておくから、お産の心配はしなくていいわよ。タオルだってガーゼだってうちに揃っているし」

 母は机の横に手を伸ばすと、臙脂色のビロードに包まれた冊子を取り出し、こちらに開いて見せた。腹周りが少しだぶついたスーツを着て、古めかしいペイズリー柄をあしらった生地の椅子に腰かけた男がこちらに向かってぎこちなく笑っている。両ひざの上に置いた手はシュガーちゃんの手みたいにまん丸で、パン屋の商品棚に置かれている焼きたてのクリームパンそっくりだ。きつそうな首元に絡まったネクタイはうすぼんやりとしたレモン色でやけに見える画面から浮いて見える。

「お母さんが見繕ってあげたから。あなたには十分すぎるほどの相手よ。経歴にやましいところはないし、務めている会社は中小だけど経営は安定しているし、稼ぎもあなたを養えるくらいある。歳はちょっと上だけど今時そんなのも珍しくないから。」

茶は喉元にまで迫ってきていた。喉奥がぎりぎりと痛み出す。鎖骨の辺りを手で押さえたが、痛みは変わらない。口を大きく開いて息を吸おうとするが肺まで入っていかない。身体の重みがなくなり、視界が薄暗くなり始めた。

 私の子を捕まえる気だ。私が使い物にならなくなったから。

「だから、シュガーちゃんはもういらないのよ。段ボールは用意しておくから、明日捨ててきて」

冷たくなった足で椅子から立ち上がると、私は階段をよろめきながら上る。ドアを乱暴に開け、その大きな音にシュガーちゃんが身体全体を戦慄かせる。その目は大きく見開かれ、瞳孔は切り込みを入れたように細く縮こまっていた。

 震えるシュガーちゃんに近づき、強い力で抱き上げる。背中に顔を埋めて大きく吸い込み、吐く。シュガーちゃんは困惑して手足をばたつかせたが、やがて動かなくなった。震えているのは私も同じで、震えを抑えるためにできるだけ大仰に呼吸をする。シュガーちゃんの体温で少しずつ指が温められ、自由に動かすことができるようになる。指先の皮膚に毛の感触が戻ってくる。シュガーちゃんは深呼吸を続ける私の口元に鼻を寄せ、くんくんと茶と胃液の匂いを嗅いだ。

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