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その日もすぐ儀式が始まると思っていたから、母から玄関に呼ばれて困惑していた。私の家は玄関扉に窓が無く、明かりをつけないと何も見えない。私の指がスイッチを探し出す前にか細く高い声がして、しかもそれは人間の発する定型の言葉ではなかった。猫だ。明かりがついて急に照らされた土間の上に、白い毛並みを泥や砂ぼこりで薄黒く染め上げた仔猫が横たわっていた。

「庭に今朝迷い込んでたのよ。鳴いてしょうがないからとりあえずここに置いたけど、どうすればいいの」

 母は仔猫に近づこうとすらせず、鼻と口元を抑えて私の後ろに棒立ちしていた。私だって、ペットショップやホームセンターのペットコーナーで売っているきちんと管理された猫しか知らない。スマートフォンを取り出して開いた検索画面には、鮮やかな黄色のポップ体でまず身体を洗って動物病院へと表示されていた。画面を母に見せると、後はあんたがやれと言わんばかりに居間に戻っていってしまった。

 私は途方に暮れた。立ち尽くして仔猫を見下ろしても、都合よく天から解決策が降ってくるわけがない。目の前の仔猫は今この瞬間も弱っていく。仔猫がやがて目を閉じ、鳴かなくなったところでようやく我に返り、風呂場に飛び込んでシャワーからお湯を出し、仔猫をそっと持ち上げた。こちらに気づいていないのか、目やにでいっぱいの目は開かない。抵抗する気力も残っていないらしく、爪を出した前脚は私の腕にたどり着かないまま宙に浮いていた。弱くしたシャワーのお湯をあてると、仔猫はわずかに身じろぎするだけで、立ち上がることもできない。猫用の石鹸など無かったから、私は自分が使っているボディーソープを手に付けてひたすら毛並みをこすった。やせ細った脚や腹を洗えば洗うほど警告音が頭の中で膨張していく。

 車借りるよ、と居間へ叫んでも母は返事をしなかった。先日届いていた飲料水の段ボールを無理やり空け、使い古していた雑巾やタオルケットを数枚押し込んだ。仔猫をゆっくりと真ん中に寝かせて、段ボールを車の後部座席に積み込む。もう仔猫は生きているかどうかも見かけでは判断できなかった。鼻先に手をあてると、かろうじて細い呼吸がある。スマートフォンの画面を弄り、グーグルマップで一番近い動物病院を表示させ、カーナビモードに設定した。座った腿の上に放り出したせいでぬるい熱と振動が伝わってきて気持ちが悪い。指が震えてまともにシートベルトを締められず、舌打ちしながらそのまま車を発進させた。

 診療時間が終了する間際でも、私の様子を見て取った医師はすぐ仔猫を処置室へと連れて行った。呆然と椅子に座り込んでいると女性スタッフがやってきて、いつ頃拾ったのか、その時の状況は、母猫は傍にいたか、近所に猫探しのポスターは貼っていないか、拾ってから何か食べさせたかなど矢継ぎ早に投げかける。私はじっとスタッフの顔を見上げるだけで、質問に答えることができなかった。スタッフはまったく使い物にならない私にため息をつき、医師がいる処置室へ消えていく。 あの仔猫は死んだのだろうか、手遅れだったのだろうか。私がもっと早く対応していればこんなことにはならなかったのだろうか。見つけたのが母ではなく私だったら。私のせいであの仔猫は死ぬんだろうか。頭蓋に反響する私の声は母の声に変わり、頭の後ろ側から私を見下ろした母が繰り返し呟く。お前のせいであの仔猫は死ぬ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。

 「この子はしばらくうちで対応します。ただうちも里親を待っている猫がたくさんいて、長くは預かれないんです。だから、元気になったらご連絡します。その時、うちに引き取りに来てもらえますか。ワクチンとか薬とかで、ちょっとお金かかっちゃうんですけど」

 ざらついた低い声に母の姿が掻き消される。頑丈そうな厚底のサンダルと灰色の靴下を履いた幅広い爪先がにゅっと現れて、視線をあげると太い黒縁眼鏡の中にある目にぶつかった。私がはいと答える前に医師は踵を返してまた処置室に引っ込み、先ほど私に質問したスタッフが診察椅子から私を立ち上がらせる。スタッフの目は邪魔だからさっさと帰れと言っているようにも見えた。背中を丸めて動物病院の戸をくぐると、夜になっていた。

 仔猫が回復したと連絡があったのはそれから二日後だった。受付の時に記入した連絡先に知らない番号から電話がかかってきて、母はじっと私のスマートフォンの画面を見つめた。スーパーの業務連絡みたいなそっけない声で、引き取りに来てください、と女性の声がして、あの時の女性スタッフではないかと考える。私は答えながら安堵していた。仔猫が生きていたことではなく、仔猫の死が私のせいでは無くなったことに。電話を切って前に行った動物病院だよ、と言うと母はあの目を止めた。腰を浮かせた私の背中に母の声が乗る。

「あの仔猫、綺麗になったの」

「そうみたい。病院でよく洗ってもらったみたいだし」

「じゃあ、あんた飼いなさい」

聞いた傍から母の声が耳の中でぼやけて、頭に届いた後に形を取り戻す。あの仔猫を飼う。今まで犬猫はおろかカブトムシやメダカさえ世話したことのない私が。飼うという言葉を口の中で転がすと、小学校の校庭にぽつんと建っていたウサギ小屋の赤茶けたトタンが目の奥に浮かんだ。

「だってあんた、あの時熱心に面倒見ていたじゃない」

「あの時は仔猫が死んじゃいそうだったから。それに、トイレもケージもない状態でしょ」

「そんなの今すぐホームセンターで買ってくればいいじゃない。自分のせいで仔猫が死ななくて良かったでしょ。病院に届けたんだから、責任持って最後まで面倒見なさいよ。じゃなきゃなんで助けたの? 」

 なんで助けたの。その問いに答えることができない。耳に入ってきた言葉が溶けて、頭の中にがんがんと反響している。このまま仔猫を見知らぬ誰かの家に送ってしまえば、何か重大な罪を犯してしまうように思えた。

「首輪買ってきてね。あと、名前考えておきなさい」

結局、私はアクセルを踏んで車を発進させながら、白い仔猫に似合うような名前を考えていた。今度は、シートベルトを一回で締めることができた。

 これまで一度も入ることのなかった、ホームセンターのペット用品棚に近づく。

こちらの背丈を超える高さのキャットタワーがいくつも聳え立っていた。複数の段差や曲がりくねったパイプを組み合わせたコース。猫というより子供が遊ぶ公園のアスレチック遊具に似ていた。横にある棚は一面おもちゃや首輪、ペットフード、ケア用品で埋め尽くされている。

 店員を呼び出し、言われるがままにケージとトイレ、餌用の皿を買った。

 最後に首輪コーナーを訪れ、赤い首輪を選ぶ。あの仔猫の白い毛並みには、きっと赤い色が映えると思った。

 病院に入ると受付のカウンター脇に仔猫が入った段ボールが置かれていた。必要な注射を打たれ薬を処方され、汚れを念入りに洗い流された仔猫は以前玄関で見た姿とまるで違った。乾かされた毛並みが綿毛みたいにほわほわとしていて、目やにはきちんと取り除かれ、綺麗な金色の瞳がせわしなく動いている。その時初めて、仔猫の小さな逆三角形の鼻が桃のようなピンク色であることに気付いた。仔猫は拾った時に入れていた段ボールの隅に手足を隠し身体を丸めて捻じ込み、もうここからは一歩たりとも動かないという決意を滲ませていた。

 正月の餅みたいだ、と思った。

 いびつに丸くて白くて柔らかくて、ちょっと触れば伸びていく。もちがいい。短くて呼びやすいし口に馴染む。

 「は?何そのセンスのない名前。シュガーちゃんにしなさい」

私が差し出した提案を母は首を振って一蹴した。仔猫のぴかぴかになって家に連れ帰られた姿を見た母は、それまでの態度をかなぐり捨てて黄色い声をあげた。可愛い可愛いこの仔猫の姿に、もちなんていうダサい名前は相応しくないのだという。仔猫の名前はシュガーちゃんに決まった。シュガーちゃん、と母が名前の通り砂糖をかけた声で呼びかけても、シュガーちゃんは睨みつけるだけで何の反応も示さなかった。

 おしっこをしたからトイレに混ぜてあげてください、と病院から渡された砂を、帰る際にホームセンターで購入したプラスチックのトイレに振りかけて、揃えて買った黄色いスコップでかきまぜた。こうすることで自分の匂いがして安心するのだと医師は言っていた。実際シュガーちゃんは、私の家に来てからずっとトイレの上に陣取って決して動こうとしなかった。かわるがわる覗き込んでは動き回る私と母を、自分を拉致して知らない場所に放り込んだ憎き敵だと考えているのかもしれない。シュガーちゃんは甲高い声で始終鳴きながら、お前たちには屈しない、と訴えていた。

 「首輪買ってきたの?早くつけてやりなさいよ。」

母の声で首輪を思い出した私は、ケージを開けて懸命に自分の存在を主張するシュガーちゃんを抱き上げた。柔らかくてささやかな肉と内に潜む小さな背骨の感触。短い前脚が何度も空を引っ掻き、私の皮膚を引き裂こうとする。母が恐る恐るシュガーちゃんの腹を両手で抑え、早くしてと喚いた。

 首輪は接合部が金属と磁石で出来ていて、首にかけた後にかちりとくっつける仕組みだった。親指と人差し指だけで簡単に折れてしまいそうな細い首に取り付けて、暴れるシュガーちゃんの身体を抑え込んで金具をくっつける。白い毛並みに赤い首輪が映えてよく似合った。おめでたい紅白の垂れ幕みたい。これで、シュガーちゃんもうちの子になったわね、と母が弾んだ声を上げた。

 シュガーちゃんはケージに戻そうとする私の手から飛び出して、トイレの砂の真ん中に蹲り、また鳴き始めた。その姿を見ながら私の口が「も」の形に開く。息が流れ出て声帯を震わせる前に、母の視線を恐れて口を閉じた。

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