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「昭島さん、さっき書いてくれた解約記録書、抜けてたみたいなんだわ。ちょっと来てくれる? 」
自席から呼び掛けた係長の声が署内のざわめきを貫いて耳に突き刺さる。立ち上がって係長の席に近づく際、耳の穴の入口あたりがそっと痛んだ。
「これね、このお客さん。今の部屋借りる時に、一緒に駐車場も契約してたの。でも解約の電話をしたときに聞かれなかったから、駐車場の契約はそのままになっちゃっていた。部屋の解約を受け付ける時には、駐車場を一緒に借りているかどうかも一緒に聞かなくちゃいけない。前に言ったからわかるよね?」
係長は「前に言ったから」の部分をことさらに強調して言う。私は滔々と流れ込んでくる説明を上手く掬いあげて頭の中に残しておくことができず、ただ頷くことしかできない。同じようなミスを以前も犯して、係長に一言一句同じ言葉で注意されていた。係長だけでなく、同僚の話す言葉を聞いているときですら、気を抜くと頭の中が灰色になってしまう。私がミスを重ねるたび、社内での陰口も同じように積み上がった。
「昭島さんのミスってどうにかならないの? 」
「さあ、もうどうしようもないんじゃないですか。今日の事だってもう五回目だし。もうみんな匙投げてますよ。」
「フォローでまた電話するこっちの身にもなってほしいよねえ。何度人に迷惑かければ気が済むんだか。入って四年目だよ?」
「そんなんだからあの歳で事務員なんじゃないの。経歴がそれを物語ってるでしょ。」
「ああ、わかる。あんな人正社員になんか怖くてできないですよね。」
休憩室で一番人気の話題はその日の私のミスだ。内容が初歩的であればあるほど、重要な場面で失敗すればするほど白熱する。
そういう時は、休憩室には入らずにドアの横に座り込んで昼食をとる。仲間と一緒に愉快に踊っているキティちゃんのイラストが描かれたアルミの弁当箱を開け、海苔が萎びたおにぎりを一口かじる。今日の具は鮭と梅干しだが、塩辛い味も酸っぱい味もしない。ただかじりつき、咀嚼し、飲み込む。食物から栄養を摂取し、空っぽになった胃を米と野菜と肉とお茶で満たす行為。最初は主食から、次に副菜、主菜は最後に食べる。日によって口に入れるものが異なるだけで、順番に大した違いはない。また頭蓋を抜け出して上ろうとした意識をほうれん草の煮つけにかじりつくことで押しとどめる。
「昭島さん。」
終業間際になって、係長が不自然なくらいに眉を八の字に下げて私の方を見つめていたので、次に何が起こるかは想像するまでもなかった。
「昭島さん、ちょっと。」
係長の席に呼ばれるのは本日二度目だ。また休憩室での陰口大会がぶんぶんと加速するのだろう。
「あのね、昭島さんもうちに務めて三年半、いや四年だったかな?それくらい経つじゃない。もうだいぶ、一通りのことは教えてきたと思うんだよね。
私は頷く。頼むから一方的に話さないでほしい。けれど、そのことを口に出せない。またすぐ頭が灰色になってしまう。
「うーん……俺の言いたいことわかるよね?もう少しちゃんとしてほしいっていうかさ……ミスを減らしてほしいというか。……ねえ、話聞いてる?」
「は、はい、聞いてます。」
濁流に流されまいと、俯いて頷くことで自分を床の上に留まらせる。
「お母さんの紹介で入ってもらったんだし、ほら、お母さんの期待にも応えるつもりでさ。頑張ってほしいんだよね。」
お母さん。
係長の口から滑り出た一言で、上りそうだった私の意識を母が瞬時に捕まえ、にらみつける。
あなたはとにかく要領が悪いのよ。要領が悪くて仕事のやり方を掴むのが遅い。入って五年目なんて、もう会社の戦力にならなきゃいけない年代でしょ。それが簡単な電話や書類仕事でミスをするなんて、恥ずかしいと思わないの。恥ずかしいと思わないから、そうやってのうのうと会社に顔を出せるんでしょうね。情けないったらありゃしない。ほらまたそうやって俯いて、そうしていればやり過ごせると思っているんでしょう。お母さんを馬鹿にしようたって、そうはいきませんからね。隠さないで全部話しなさい。そうしなきゃお母さんは許しません。ああ、気持ち悪いわその目。こんな気持ち悪い子だったら産むんじゃなかった。どうせへその緒が首に絡まってたんだから、そのまま死ねばよかったのよ。
「いつも娘がお世話になっております。」
入口から響くはきはきした声に、係長がはっと顔を上げる。ベージュ色のスーツを着こんだ母が黒いハンドバッグを持ち、自動ドアを背にする格好でぴったりと立っていた。
「ああ、昭島さんのお母さん。今日も時間ぴったりで。」
ファンデーションにムラ一つなく、眉毛一本に至るまで化粧を整えた母の笑顔が、くたびれた社内の中で場違いなほどぴかぴか輝いている。
母に連れられて会社を後にする私を、係長は憮然とした表情で見ていた。ドアを通り抜ける時、ちょうど内見客の案内から帰ってきたらしい同僚とすれ違う。
「マザコン娘、きっしょ」
駐車場で軽自動車の運転席に乗り込んだ母が、後方座席の私を振り返ることもせずエンジンをかける。アクセルを踏み出したのを見て、慌ててシートベルトを締めた。
「今日の仕事がどうだったかは家に帰ってから聞くわ。」
バックミラー越しに母の目が私をじろりと見やる。
それで終わるかと思っていたのに、母の目はバックミラーから動かない。
「会社では、上手くいっているのよね?」
「……うん。」
ここで首を首を振る選択肢は存在しない。許されるのは「はい」だけだ。
信号待ちの交差点でサイドブレーキを入れると、母が運転席から身体を斜め後ろに乗り出してくる。
「いい、高校受験だって大学受験だって、私が受ける学校を選んだから上手くいったの。そうでなければあなたの力では入れなかった。就職だってそう。お母さんがいいところを探して口を利いてやったから、人事の人があなたに内定をくれたの。わかっているわよね? 私が母親じゃなかったら、あなたの人生はどうなっていたか分かりやしないわ。」
母は私が否定しないのを分かっている。これは問いかけではなく、ただの確認作業だ。形も終わりもすでに分かりきっているものを、もう一度手でなぞって確かめる行為に過ぎないのだ。
「ここまでしてやった母親に対して、その優しさに対して、何か言うことがあるでしょう?」
頷く。頷くだけじゃだめで、喉の奥から定型の言葉を生み出さなければならない。
「ありがとう、ございます。」
母はそこまで聞いて初めて、バックミラーから目をそらした。
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