赤い首輪の猫

汐見 杳

1

 さいたいけんらく。

 聞いたことあるでしょ? 生まれてくる赤ちゃんの首に、臍帯、つまりへその緒が絡まっちゃっているやつ。あんた、生まれた時それだったのよ。こっちはあれだけ痛い思いをして産んだっていうのに、いざあんたが出てきたら紫がかった顔して、息もしていないし、半開きになった唇も真っ青でね。血相変えた看護婦さんがあんたの背中をばんばん叩いて、そうしたらようやく泣き始めたってわけ。まるで、本当はこんな世界になんか出てきたくなかった、血や羊水塗れになって引きずり出されたくなかった。そう思っているみたいに。周りが、それでも生きなさい、生きて息をすることがあんたの義務だって急かすものだから、しぶしぶ息を吸って泣いてやったみたいな態度よ。本当にうんざりする。……ねえ、ちょっとあんた、話聞いてる?

 切り取られて空中に吐き出された母の声が、私の耳と、鼻腔と、半開きになった口の中に流れ込む。食道を伝い、鼓膜を震わせ、リンパ液に浸透し、血管の中に入り込んで、それは赤血球とともに、心臓の鼓動に合わせて一定のリズムで肉体を駆け巡り、私の手足に、指先に、細くうっすらとそよいでいる産毛に到達する。流れ来る血、血の帯、それによって私は呼吸し、飢えを満たし、生きている。生きている。しかし、細くうねった血は私が動くのに合わせてぬめって身体に巻きつき、手首を捻り上げ、首に絡みつく。さいたいけんらく。揺らぐことのない意識の、薄暗い水底から浮かんでくるとばかり思っている私の思考は、実際には赤黒い血となって頭の奥を震わせ、微かな反応を起こす火花によって作られている。ぱちぱち、ぱちぱち。

 ぱちん、目の前に祈るように合わせられた母の掌があって、手を鳴らされたのだという事実が遅れて頭にやってくる。

 「臍帯巻絡でしょ。私が生まれた時の話」

私が咄嗟に並べてみせた言葉のぎこちなさを母は見逃さない。母の両の目がすうっと細くなり、私は失敗してしまったことに気付く。今までに何度も見てきた、お前が悪いと私を糾弾する目。母の望む答えを用意して、満足させるまでは絶対に許さないと私に語りかける目だ。

 頭の中を灰色にしていたから、母から呼びかけられているのが分からなかった。私が椅子に座っている身体から目を切り離し、すこし上昇して見下ろすと、私の周りにあったはずの色彩は褪せ、瞬く間に枯れていく。母から私に突き刺さる棘、その痛みを何とか和らげるためには、私自身の感度を下げなければいけなかった。やりすぎると、私に向けられている質問にも答えられなくなってしまう。ぼーっとしていた、という言葉で母が追及を止めるはずがない。それでも、何も考えていなかったから話せることがない。両手で握りしめた湯呑はとっくに冷たくなっている。

 「まあいいけど」

母は珍しく答えを求めることなく話を切り上げた。のぞき込んだ湯呑の中にそっと止めていた息を吐きだすと、少しだけ煎茶の表面が波立つ。明るい緑色の液体の中に移る私は私を怯えた目で見返してくる。

「じゃあ今日はどうだったの」

母がその言葉でスイッチを入れる。私は顔を上げて湯呑を脇に避けた。私と母との間で、一日も欠かさずに続くいつもの儀式が始まる。

「今日は、朝七時に起きて見送りした後に、洗濯機を回した。いつも通り、色柄物は分けて、靴下は洗濯ネットに入れて、私の下着は別の洗濯ネットに入れたよ」

「洗剤のジェルボールは? ちゃんと汚れもの入れる前に置いたんでしょうね」

「入れたよ。それから、ビーズの芳香剤を蓋で計って洗濯ものにまんべんなくかかるように入れて、それから漂白剤を入れて」

「直接服にかけたの? 」

「いや、洗濯槽の隅っこにある入口に注いだよ」

「じゃあいいわ。柔軟剤は? 」

「前に言われた通り、柔軟剤の専用ポケットに入れた」

「ポケットに溜まった水は? 」

「柔軟剤を入れる前に洗面台に流したよ」

「ちゃんと柔軟剤の量は計ったんでしょうね」

「洗濯物の量が四二リットル分だったから、柔軟剤は一四ミリリットル」

母が頷く。これは私の報告が母の想定したものと寸分も違わなかったことを表すしるしだ。私の報告は午前中の洗濯、掃除機のかけ方、午後休憩したときに見たテレビ番組の内容、読んだ本の書名と内容、今晩風呂に入る時刻と続く。中学生の時は、授業で教わった内容と給食のメニューと部活の練習内容だった。大学生になると、サークルが主催する飲み会の会場名、遊びに行った同じ学部の友達の名前、新しいワンピースを購入した店の名前になった。私は母を満足させ、追及から逃れるために答えを用意しなければならなかった。

「まだ終わってないわよ。今日のお昼ごろに宅配来たでしょ」

唸りをあげて道路の左脇に駐車したトラックが、脳裏にぼんやりと浮かび上がる。月に一度、二リットルのペットボトルを6本、合計12リットル、段ボール一箱分のミネラルウォーターを定期的に届けてもらっていた。

「いやあれは」

「水でしょ。でもさっきそれ言わなかったわね」

言葉が出ない。母がまた目を細める。母の持つ棘の先が眼前に突きつけられている。

「全部話すこと。親子なんだから隠し事はしない。私言ったわよね」

私はゆっくりと頷く。母は素早く湯呑を掴んで台所へと消えていく。その背中を見ながら、また止めてしまっていた息を吐き出した。

 儀式が始まると、居間の中で向かい合わせに座った母と私は警察官と犯罪者になる。柔らかいオレンジのフロアライトは、狭い取調室の中で白く輝く薄汚れたテーブルランプに変わり、木目が際立つ四人掛けのダイニングテーブルは、灰色の角が丸くなった事務机になる。私はこの一連の会話を儀式と呼び、母はお喋りと呼んでいた。

 母が湯呑を洗い始めた音を背にして、テレビのリモコンを探し電源ボタンを押す。ニュース番組を見ている振りをして、それ以上の会話を防ぐためだ。儀式の中で母は私の不明瞭な答えを許さなかった。話す内容がどんなに小さくても、どんなにつまらないことでも、たった一言答えて逃げようとする私を母は金切り声で𠮟りつけた。答え、母がいったいどんな答えを求めているのか、私には分からなかった。母は私以上に私を理解している。私の一挙手一投足は母に驚きや困惑を与えるに値しない。すでに何度も観て結末や展開の分かっている映画のように、私の思考は母の予想した通り動いた。

 だから、私は生まれてから今まで一度も、母に嘘をついたことがない。

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