いないはず、けどいるかもしれない
龍田乃々介
いないはず、けどいるかもしれない
家の鍵を掛け忘れたことに気づき、昼休憩で慌てて帰って来た。
「はぁ……はぁ……、…………っ」
職場から自転車を飛ばして片道10分。残り時間は多く見積もっても40分といったところか。
「…………ああ」
鍵穴に鍵を差しこみ回すと、案の定空転する。思い込みではなく、本当に鍵を掛け忘れていた。
意を決して、扉を開けて中に入る。
空き巣に入られていないか確かめなくては。
🚪
扉を開けた俺を出迎えたのは、薄暗く彩りに乏しい寂れた空間。カーテンを締め切ったリビングから澱んだ空気が開けっぱなしのスライドドアを抜け玄関の俺まで流れつき、やけに冷たくじめっとした感触を肌に残す。
そこは出勤前の朝の家とも、帰宅後の夜の家とも、休日の昼の家とも異なる場所だった。
その場にたちすくみ、思わずきょろきょろと見回してしまう。
すると、空気感とは別の違いを俺は見つけた。
「こ、こんなに、土埃があったか……?うちの玄関は……」
サンダルが一組と、履かなくなったスニーカーが靴箱の下にあるのは変わらない。
だが朝見たときは、もう少し綺麗だったはずだ。いや、もちろん毎日玄関を掃除しているわけでもなし、見間違いということも大いにあるだろう。俺が出ていく時舞い上がった埃があとから落ちたせいとも考えられる。
しかし、どうしてもそう思えない。
……もしかしたら。
良からぬことを目論む誰かが偶然、俺が鍵を掛け忘れて出勤するのを目撃し、着の身着のまま汚れた靴でやってきて家の中に入ったのでは……。
邪な心を持つそいつはここで靴を脱ぎ、悪臭を放つそれを手に摘まんで家の奥へと入っていき、金目のものを垢塗れの手で手あたり次第に漁ったのでは。
いや、漁っているのでは。
「あ、ああっ……………………ああ、いや……」
俺は鞄を開けてスマホを取り出したが、真っ黒な画面を見て思いとどまった。
警察を呼ぼうと思った。すぐに。だが、それはできない。
……時間がないのだ。俺はあと35分と少しで会社に戻らなければならない。警察を呼んだら経緯を詳細に説明することになるだろうし、警察の捜査の間その場に留まるよう求められるだろう。ダメだ。できない。
警察を呼んではいけない。
「はあっ……はあっ……」
スカスカの傘立てから一本のビニール傘を引き抜いて構える。空き巣がいるかもしれない。ばったり会ったら居直り強盗になるかもしれない。相手は武器を持ってるかもしれない。
こんなものでもないよりマシだ。
🚪
一見してリビングやキッチンに侵入の形跡は無かった。
机の上のコップの位置、棚の中の本や雑誌の並び、棚の上の置物や殺虫剤の向き。
そして、出て行った妻と娘の写真が入ったブラウンのフレームの写真立て。何一つ変わっていないように見える。
それはもう、わざとらしいくらいに。
流し台の溜まった食器の数も、壁に掛けた十一本の包丁やナイフも、冷蔵庫の中の食べさしのつまみの袋の折り目の数も。変わらなすぎと言っていいほど変わっていないのだ。
「……これは、……こいつは……嘘だろ…………」
息を呑んだ。
空き巣は、相当な執着を持つ異常者かもしれない。
この家に入った痕跡という痕跡を消去し元の状態に戻すことに、並々ならぬ拘りを持っているのかもしれない。
いや、きっとそうに違いない。でなければこんなにもあからさまに変わったところがないのはおかしい。人間がいなくとも微かな風や小さな力の積み重ねで物は動くはずだ。このつまみの袋についた折り目などまさに、昨晩冷蔵庫に入れた時より少しくらい開いている方が自然というもの。まったくそのままなど、ありえない……。
俺は振り返ってすぐ壁に掛けられた筋切り包丁を左手に取った。まだこの家に潜んでいるかもしれない、とんでもない狂人に立ち向かうために。
🚪
それから俺は家の中を探し回った。
まずは一階の残りの場所。一番怪しい和室の押し入れから。中には布団だけ。もちろん引きずり出して内に包まって隠れていないかも確認した。それから横目に窓を確認したが、鍵は掛かっているし部分的に切り取られた跡もない。侵入は間違いなく玄関からだ。
そのまま目についた机の下、テレビの裏、洗面所に入って洗濯機の中、風呂、浴槽の中と確認。異常者は見つからなかった。
玄関へ戻って廊下を通り階段横のトイレへ。勢いよく開けると中には不気味なほどいつも通りな洋式トイレがあった。そして恐ろしいことに、これらの全てが俺が最後に見たときと全く同じだった。
用心しつつ階段を上り二階へ行く。階段や手すりはもちろん、隅の埃にさえ変化がない。
階段を上って目の前のトイレを一階と同じように調べたあとは、すぐ隣の娘が使っていた部屋に入る。
薄ピンクの壁紙に包まれた部屋の中には大きな勉強机やクローゼットにベッドと隠れられる場所がたくさん。全て隈なく調べた。机の下、クローゼットの中、ベッドの下、布団の中、服の入っているはずの引き出し、キャスター付きワゴン棚の陰。それから遮光カーテンに隠された窓の縁も見た。この部屋の全てを元に戻した侵入者はいなかった。
次は廊下の突き当たりにある妻の部屋。鏡台の裏、ウォークインクローゼットの中、本棚の陰、ここも人体が挿入できそうなところは全て調べたが、やはり異常な侵入者はいない。
残るは寝室だけ。ドアの前に立ち心の準備をしていると、ことん、と音が聞こえた。眼前の部屋の中からだ。
筋切り包丁を握る手ががちがちに強張り、手と包丁が一体となったようだった。ビニール傘を力一杯床に投げつけて捨て、乱暴に扉を開ける。
そこにあったのは、いつものベッドだった。
妻と娘が出て行った日から一度として使っていないダブルベッド。忌々しい朝に整えたきりの、乱れのない布団とシーツ。頭の重みを忘れた枕。夜を照らさなくなったスタンドライト。その全てが。
玄関を汚した異常な侵入者が歩き回り物色し、金欲と好奇心で犯しつくしたにも関わらず、いつもと同じ様子をしてそこにあった。
「…………………
…………あ、あああ…………、ああああぁあああああぁああああああぁあああぁッッ!!あああああああああぁああああああぁああああああああああぁああああああああぁッ!!」
筋切り包丁がへし折れても、俺はめちゃくちゃに暴れる腕と足を止められなかった。
🚪
結局昼の始業から一時間も過ぎた頃に俺は職場に戻った。だがもちろん心はそこになく、ただ今日このあと仕事が終われば、俺はどこに帰るのだろうかと考えていた。
あの部屋を見てしまった以上、もうあの場所は俺の家ではない。帰ったところで、俺は惨めで不愉快で情けない悔しさに取り憑かれるだけだろう。
残業をして、できるだけ長く会社に居座った。それでも泊まれるわけもなく、深夜、公園やコンビニに寄り道をした。不良に絡まれそうになったので逃げて、逃げて……、逃げたその足が自然向かったのは結局家だった場所。
今その場所は、深夜にも関わらず大勢の人間に囲まれて、赤赤とした光で照らされていた。
真っ赤に照らされた近隣住民が俺を見つけると、その視線を手繰り、彼らのそばでなにやら聞いていた強面の男がこちらへやってくる。
男は警官だった。
真っ赤な警官は手に手錠を持ちながら、こう語った。
あなたの家の屋根に人が登っているという通報があったので来た。彼は泥棒でこの家に空き巣に入った者だ。
だが途中で家主のあなたが帰ってきたので屋根裏部屋に逃げ込んだ。
するとそこで、大人と子供のものらしき白骨遺体を見つけた。
我を失って必死で逃げたらいつのまにか屋根の上で、下で暴れるあなたが怖くて降りられなかったという。
詳しく話が聞きたい。
なんのことかわからなかった。
だが、警官の背中の向こうに停まるパトカーの中に、顔面を蒼白にした空き巣犯らしい男が見えて、俺は……
俺は、嬉しくてたまらなくなった。
いないはず、けどいるかもしれない 龍田乃々介 @Nonosuke_Tatsuta
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