月は綺麗でしょうね

珊瑚水瀬

月は綺麗でしょうね

 私は誰よりも自分が好き。だから何かが叶わないなんて考えたことなんてなかった。


「胡桃さん」


 家庭教師のバイトの帰りに、下の名前に潤んだ熱を乗せた生徒の方を振り向く。それに伴い少し微笑み髪を耳にかけて少したなびかせる。


「ふふ、また明日ね」


 少し顔を赤くした名前もわからない貴方を見て、優越感と高揚感をその場で噛み締める。それに反応する様にあなたは体を大きくのけ反り、挨拶を反射的に行う。


「また課題終わらします!!」


 体育会系特有のその場を掌握する様な声の広がりで空間を満たす貴方を見て、私はあなたからどうやって写っているのだろうかと少し想像してみた。


 大人びて、優しくて、癒してくれて、新しいものを自分に与えてくれる。


 そうやって、自分にとって都合の良い妄想をしているのだろう。誰かの心で消費される私。誰かの好意を消費する私。どっちもどっちじゃない。でも、周りはどうやら許してくれないみたいだから、まゆの様に全てを覆い隠して個性というものを私から極限に消した。

 他人の心の動きは心底興味がないのだが、私に好意がある状態が心底気持ちが良いから、誰かの好きに近づく様に少しその人の理想に寄せて自分を演じてみる。


 どうせ、どの人も自分の「理想」を当てはめて、恋をするに違いないんだから。


 盲目的な好きは、自分が好きな事と代わりないと私は思う。あなたの中にある私の姿を都合の良い様に作り変えて、自分の満たされない欲を、好きな人から得られた熱で溶かして、溶けたそれをそのまま口で転がして、とろけていったその味を何度も味わって、全て無くなる頃には、「私」とあなたの好きの差に傷つき、

「やっぱり違った」

と結論づけて、ただの人と人との会話の駄菓子へと勝手に変えていくんだ。


 あなたの熱が消えた。

 ふと、私がどこを歩いていたかが曖昧になった。あなたの熱が私がどこに居るのかの証明だったのかもしれない。私自身は本当はこの世界に存在していなかったのではないかと疑うほどには、私は私というものを主張していなかった。

 ただたまに吹き付ける夏の終わりを告げるひんやりとした秋の風が私の存在を思い出せる様に優しく頭を撫でる。

 そのままヒールの音だけがコツコツとアスファルトを蹴り出す。高層ビルが眠りについたこの時間は、人の気配が消えて音一つしない。

 街の光の煌めきが消えた空間の中にぽつりと今まで映ることのなかった月だけが私を後ろから仄暗く照らしてくれる。


 「ああ、月が綺麗だなあ」


 夏目漱石が告白に使えと言ったセリフを誰にいうでもなく呟いてみる。

 振り返らなくても私を照らしてくれてるのを知ってるから、わざわざそれを見る必要すらない。

人の好意も似た様なもので、好意がそこにあって、ただ私を優しく照らすだけなので振り返って追いかける必要すらない。

 どうせ彼らは後ろからしか私のことをわからないのだから。

 そういう意味では「月は綺麗でしょうね」が私にはぴったり具合が良いのだと思う。


 消費される女の子おもちゃの人形のパッケージの様な人間の後ろ姿を見続ける。私の不在はこれからもずっと続いていく。そうすれば叶わないことは何もないの。

だから、私は遊ぶことにしたの。

誰かの理想になりきる人形遊び。

 私の中はずっと空洞で何かが埋まることなんてずっとない。

 寂れた駅の看板を左手ですっとなぞり、その歴史を私のものとするべくタトゥーの様に身体に入れ込む。


「あの!先生は雄太のこと好きじゃないんですよね」


 鞄の中からicカードを取り出そうとした時、心から一生懸命振り絞って必死に伝える声が聞こえて、後ろを振り向く。

 この子は、確かこの前あなたの家の写真の集合写真にいて「俺の幼馴染」と紹介されたことは「何これ?」と言った彼女の特徴的なミケランジェロのピエタ像のキーホルダーから思い起こされた。


「ああ、これ。こいつ美術が好きなんだ。変なやつなんですけどねー。胡桃さん好きですか!?」


すぐ私の話に変わったそれをふと思い出す。

たわいない会話の中で紹介された彼女の目は、先程の月よりも散りゆく前の星の終わりみたいに真っ赤に明るく燃えていた。

 私は先ほどよりも芯の熱さまでも感じるその真剣な眼差しに心底心が満たされる高揚感を感じた。


「えっと、どうしたの?」

「先生。弄ぶくらいなら彼を取らないで……」


 私をすごい形相で睨みつけて、そして泣きそうになって目に溜まったそれを見せまいと強がるあなたに、私は余計に胸が高まった。


「そんな表情しちゃダメよ。欲しくなっちゃうじゃない」


心の声かそれが彼女に向かって発したのかわからなかったが、彼女にはジンの香りのする

レースのハンカチを手渡したのは確かだった。


「ジンの香りするでしょ。ロンドンではね、ジンは死の酒とも言われてるの。最安価の酒で酔いがすぐ回るから」


涙を軽く拭き取って、そのまま握らせようとしたが、彼女がそれを手で払ったのでそのまま鞄に入れた。

意味があまり伝わっていないのか、それともずっと考えているのかはわからないが、ただ若さの輝きが残る口びるをわなわなと震わせているのは何らかの影響があった事がわかり、さらに私の体が先ほどより更に高揚していくのがわかる。


「じゃあね、ミケちゃん。また明日」


 変わらぬ同じ熱量で、ミケ?と口にしてただ立ち尽くしている彼女を横目にまだ外側にいるあの子に別れを告げて颯爽とひと足先に外側から駅の内側へと入った。


「また、明日」


 たまらないほどの体の火照りと熱を感じる出来事がこれからも続いていくことを期待した眠らない駅では、まだ人工の光が照ったままだ。

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