プラズマに走れ、声

祐里〈猫部〉

稲光、雷鳴、小さな声


 私は学校で『不思議ちゃん』と呼ばれている。二歳年下の妹曰く、小柄で華奢な体、細い声、天然パーマで茶色い髪、色白の肌、大きな目と濃いまつげがそうさせているらしい。妖精とお話ししていそうだの、何か受信していそうだの、みんな好き放題言う。


「夜寝る前に、恋人に私の声が届いたらいいなって思ったりするの。恋人なんていないけど」


「電話とかメッセージアプリとかじゃなくて?」


「そういうのじゃなくて、静かな空気……、ご、ごめん」


 同じクラスの松下まつしたくんは、電車の中で私の言葉を漏らさないよう長身の体を縮めて聞こうとしてくれる。それがうれしくて、ついしゃべりすぎてしまう。


「何で謝るの?」


「……え、っと……、こんな話興味ないかなと思って」


「そんなことないよ。梨早りさちゃんもこういう話喜ぶよね? 僕も同じだよ」


 一人で帰れると言っても、彼は「危ないから」と言って私を送ってくれる。それも、文化祭の準備が終わる今日までのこと。明日から私は『婚約者の姉』に戻る。戻ってしまうのだ。


「梨早は、仲がいいから」


「そうだよね。本田さんの話、よくしてるよ」


 松下くんは私のことを「本田さん」と呼び、妹の梨早のことは「梨早ちゃん」と呼ぶ。私の方が先に出会ったのに。一年生の時のクラスで名前順が前後になって、先に仲良くなったのに。二年生と三年生でも同じクラスで、運命だと思っていたのに。


 梨早の外見は私とあまり似ていない。どちらかというとふっくらした体型で、髪は黒くてまっすぐ。身長は高校に入学した半年前に百六十センチになったらしい。私より十センチも高くて、梨早の方が姉と間違えられることも多い。


「うん。……松下くん、進路どうするの?」


「僕は……、医学部に入らないといけないから……。文化祭は息抜きになっていいんだよね」


「そうだよね、大きな病院の跡取りだもんね」


「僕自身は、大したことないやつなんだけど」


 顔を下に向けて、彼は頭をかく仕草をする。梨早の前でもするのだろうか。


「そんなことよりさ、さっきの話、静かな空気……のあと何を言おうとしてた? 教えてよ」


「……え? あ……、みんな寝静まるような夜の静かな空気の中でも、その……、電線って活動してるでしょう? 電線を……、伝って、声を届けられたらいいなと思って」


「なるほど、おもしろいこと考えるね。夜中に雷が鳴ったら大きな声が届きそうだな、大気がプラズマ状態に……ああ、何か的外れなこと言っちゃったかも」


「ううん、そんなことない。雷の音に負けちゃいそうだけど。特に私は」


 最後の方は、すごく小さな声になってしまった。それでも彼は笑ってくれた。それだけで満足する、はずだった。



 ◇◇



 梨早が松下くんのお父さんに見初められたのは一年前で、通っている茶道教室でのことだったらしい。私は高校受験の前にやめてしまったから、そんな出来事があったなんて知らなかった。とても気に入られ、ぜひ息子の婚約者にと言われたと、本人に会って一目で好きになったと、梨早は頬を染めて話した。「大輝だいきくんがお姉ちゃんと同じクラスだなんてすごい偶然」と、喜んでもいた。


 両親は「梨花りかの方が頭が良いのに、いいのかしら。まあ、愛想と愛嬌は梨早の方があるわね」と言っていた。ひどい言い草だと思ったけれど、反論はしなかった。そのとおりだと思ったから。両親にも、私はいつもぼんやりと不思議なことを考えていると思われている。


 今日の夜はこの地方に雷の予報が出ている。大きな声で届けたいことはある。でも、もし届いてしまったとしたらどうなるのだろう。私なんてただの不思議ちゃんでしかない。力がなくて、文化祭の準備でも役に立たないお荷物でしかないのだ。


 いつものように部屋の明かりを暗めにしてベッドの上でぼんやりしていると、いつの間にか雷雲が近付いてきたようで、突然レースのカーテンの向こうが白く光った。遅れて数秒後に鋭い音が鳴り響く。きっと近くに落ちたのだろう。


 雷雲から地面に向かって走り出した電子はぶつかった原子から電子をはじき出し、正電荷とマイナス電子の両方が大気中に存在することになる。松下くんが言っていたプラズマについて、学校の授業を思い出しながら考える。


 雷は、一度空気を切り裂いて道ができるとそこを狙って何度か落ちるという。確か先生が稲妻の通り道なんて言っていたっけ、と思い出していると、また稲光のあとに雷が落ちた。


 稲光と雷の間隔が短くなっていく。胸がどきどきする。私にも大声で言葉を届けられる? プラズマの中なら、できるのだろうか。ほんの小さな衝撃を受けただけで走り出してしまいそうな衝動なら、私にだってある。梨早と私の思いは両方存在していいの? 私の思いも、空気に紛れ込ませていいの? 彼に、届けていいの?


「だ、い……、すき」


 小さくて細い声は、近所に落ちたであろう雷の大きな音に負けてしまった。



 ◇◇



 文化祭の当日がやってきた。「忙しい」と文句を言いながらばたばたと走り回る生徒だって、内心では浮かれている。「あまりはしゃぐなよ」と生徒を注意する先生だって、きっとうかついているのだ。


 私はクラスの中で役立たずの不思議ちゃんとしての地位を確保しているため、何も用事を頼まれることなく、廊下を歩き回ったり、疲れて校舎の裏で休んだりしていた。梨早が来ているはずだけど会いたくない。きっと松下くんと一緒に楽しい時間を過ごしているだろうから。帰ってしまおうかとも思ったが、重い体を動かすのも億劫だ。


「……あれ、こんなところにいたんだ」


 校舎裏のベンチに一人で座っていると、後ろから声がかかった。松下くんだった。


「あ、うん、疲れちゃって」


 疲れているのは本当だけど、心配をかけたくなくて軽く笑みを作る。


「またおもしろいこと考えてた?」


 そう言いながら、松下くんは私の隣に座った。彼の肘が私の腕に触れる。途端に熱くなる頬を隠したくて、私は逆方向を向いた。


「昨日、雷鳴ったね」


「う、うん」


「何か届けられた?」


 どくん、と心臓の鼓動が大きくなる。


「……届いて、ないよ。きっと」


「そっか。なんて、言ったの?」


「なんて、って……言えないよ。秘密」


 彼の顔を見ることができない。心臓の大きな音を消してしまいたい。私と梨早の思いは両方存在してはいけないのだから。こんな思いは、稲妻と一緒に地面に吸い込まれるべきだった。


「梨早、は?」


 何とか松下くんの方を向き直して、声を絞り出す。少し震えているけど気付かれてはいないだろう。すると彼は頭を下げ、「ん」とだけ答えた。


「……僕も、ちょっと疲れてるんだ。ここにいていい?」


「あ、うん」


「僕は……」


 ベンチに付いていた彼の手が、私の膝に置いていた手に重なった。どんどん早くなる胸の鼓動。きっと顔は真っ赤になっているだろう。


「どうして」


「本当は、本田さん、を」


 小さな小さな、誰にも届かなくていい声だったのに、届いてしまった。彼の熱い手にくらくらする。もう何も考えたくない、ここで地面に消えてしまいたい、そう思った瞬間、彼は手を離してベンチを立った。


「……もう、行かなくちゃ。またあとでね」


 私の手に施された熱は、なかなか冷めなかった。



 ◇◇



「一緒に帰ろう」


 弾む息を整えながら松下くんが言う。まだこのベンチにいてよかったと、罪悪感とともにひっそりと愉悦を覚え、ひどい姉だと心の中で自分を責める。


「うん」


 どうしても小さな声になってしまう。でも松下くんは聞こうとしてくれる。繋がれる手はやはり熱い。走ってきたせいか、彼の首筋には汗が滲んでいる。


「昨日、なんて届けたかったの?」


「……え?」


「僕は、きみに届けたかった。大好きだって」


 彼の背後の西の空では、沈もうとする太陽が私と彼の長い影を作る。雷雲が来る気配はない。


「そ、そんなこと……、言っていいの?」


「いいんだ。このままじゃ梨早ちゃんにも悪いから、さっき別れてきた。父さんの説得には、時間がかかるかもしれないけど……」


 彼が握る手の力が強くなった。影は動かない。


「私も、大好き、って……届けたくて……」


 私の言葉に、彼はほっとした表情になった。それでも影は動かない。


「よかった」


 彼の影が動き、私の影と重なった。

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プラズマに走れ、声 祐里〈猫部〉 @yukie_miumiu

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