ある小説

スナメリ@鉄腕ゲッツ

第1話

 さしたる理由もなく人はふと、ある日『小説家になりたい』と思いたつのである。

 そのひらめきは、老若男女かまわず、まるで天災のようにふりかかる。

 

 ある者はいま文字を覚えたかと思えばひらがなで話を書きはじめ、学校の将来の夢に小説家と書いて親を心配させる。あるいはまた、ある者はエナジードリンク片手の徹夜仕事のさなか、とつぜん天啓をうけて短編ひとつ完成させたこともないのに小説家になることを決意する。またある者は、会社人生を卒業して若いころの夢を思い出し、回顧録がわりの小説を書きつけ、もうすっかり自分は小説家だと信じ込む。

 しかしごく一部、ごく一部に本当に小説を愛し、自分の生まれ育った文章の世界に呼吸するためだけに小説を書くものがいるのである。


 そしていま、ここにそのような不幸な男がいた。そしてこの男は編集者をしていた。

 男はほんとうは小説家になりたかった。男は小説家になるために新聞社を辞めて出版社に転職した。そこでやりたくない仕事もこなしながら、コツコツ原稿を書き、じっとデビューの機会を待ったのである。


 自分の技術を磨くため、小説の下読みもできる限りこなした。普段の仕事に加えての下読みはほとんど寝ずの作業になった。しかし男はそれでも良い小説家になりたかった。

 この男はほんとうに文章を愛する男であった。


 そしてこの男の不幸は、ある日とつぜんに始まった。立てつづけに下読みをこなしていたときのことである。男はまったく同じ原稿が二つの別の賞に応募されていることに気が付いた。それはあまりにも拙く、それゆえに記憶に残るほどの原稿だった。

 

 はじめて読んだとき、あまりにも拙くて落とした文章である。中身も大変に陰鬱で、読後感も惨憺たるものだった。あるセールスマンが大変な文才を秘めた人間にもかかわらず、周囲に理解されずに不遇のうちにこの世を去るというあらすじである。

 それは拙い文章と相まって、あたかも棒人間で描かれたダンサーインザダークだった。それは一言一句変わらない、まるで小学生の書いたような文章のまま、まるで無邪気にもういちど別の賞への応募原稿として男の手元にあった。男は激怒した。

 それでも男は最後まで読み終えると、さらに憤懣やるかたない気持ちになった。なぜこのように明らかに拙い文章を、改稿一つせずそのままおくるなどという所業ができるのか。

 かろうじて男は理性を保つ努力をし、『同じ小説をすでに読んでいるので評価ができない』と別原稿との交換を打診した。

 翌日、かわりの原稿が送られてきた。しかし、それは一言一句、落選させた文章と同じ小説であった。男は間違いだと思い、もういちど交換を打診した。しかし次に送られてきたのもまったく同じ件の小説であった。


その日から、恐ろしいことが起こった。気を取り直して別の応募作を読み始めたときのことである。男は戦慄した。

 違う題名の小説が、冒頭の一文だけまったく例の小説と同じになっていたのである。

 男は焦りおどろき、そしてアタマがおかしくなったかと思って冒頭の一ページをもって精神科に駆け込んだ。

 精神科の医師は両方の原稿を見比べ、気の毒そうに言った。


「相当おつかれのようですな……。確かにこの文章は私が見ても、一言一句同じです。たまたま似てしまったのでしょう。そういうことはよくあると言うじゃありませんか。最近はみな異世界に転生するんでしょう? 流行というのは似通うものだ、そこにどれだけ違いが出せるかが才能だって、以前おっしゃっていたじゃありませんか。それでも不安感を感じるということは、神経が参っているのだと思います。軽い睡眠薬を出しますから、様子を見てください。根を詰めすぎるのは厳禁ですよ」

 

 そう言われてみると確かにそれが自分が言ったことなのだった。本当に神経が参ってしまっているのだろう。男はもらった睡眠薬でその日、ぐっすりと寝た。


 だがそれはこの不運な男にとって、さらに恐ろしい日々の幕開けだった。

 男が朝起きるたび、いくつかの原稿の文章が『あの小説』におきかわっているのである。一か月もすると、全ての原稿、学生時代からため込んだ本棚の本ですらも、一言一句、あの拙い文章に変わっていた。


 それは文章を愛する男にとって恐ろしい罰であった。ぼろぼろになるまで読み込んだ愛すべきプーシキンの短編が、シェークスピア、森鴎外すらも、すべてあの拙い文章になってしまったのである!

 精神科医は首を振りながら言った。


「あなたの症状は精神科ではどうしようもありません。なぜなら、あなたがいま私に見せているその文章は、たしかに一言一句同じ文章だからです。誰かがいたずらで巧妙にすり替えたのでしょう、あなたが相談に行くべきなのは警察ですよ!」


 男は頭を抱え、脳みそがすべて涙と鼻水になってしまうかと思うぐらい泣いた。誰かのいたずらではなかった。これは男の世界そのものの変容だった。なぜなら、いまや電車の中吊りまでがあの拙い文章なのである。

 男は絶望し……絶望した。

 それは滑稽な棒人間のダンサーインザダークの絶望であった。

 男は命を絶つほかないと決意した。しかし、あの呪われた文章にたった一つでも仕返しをしたいと思った。


 男はもうとっくに結果の出た原稿にむちゃくちゃに率直で辛辣でしかし誠実な赤を入れ、編集部に応募者に送り返してくれるよう頼み込んだ。編集部の知人は最初はいぶかしみ、拒絶し、しかし最後には男の絶望的な頼みを聞き入れた。

 男はその復讐を果たすと、自分の終わりの準備をした。それは三日ほどで済むはずだったが、いざ準備をしてもまだこの世に未練があった。それは他でもない、あの赤入れをした原稿のことであった。


 さてそれでもこの世の未練を断ち切ろうとしたその日、編集部の知人から連絡があった。原稿がメールでまた送られてきたというのである。男はいままでにない恐怖を感じた。またあの原稿を読まされるというのか。


 はたしてその原稿は少し違っていた。『てにをは』が直してあり、さらに男がいちばん辛辣に書いた部分、最後の展開が違っていた。

 自分の才能を信じられずに亡くなっていく主人公が、せめて自分の才能を信じて死ぬ展開になっていたのである。


 男は狂喜乱舞した。それは数か月ぶりにみる『新しい文章』であった。たった一文字、たった一展開の違いが、男の喉を潤した。それは男の沈み切った心に、信じられないほどの力を与えた。男は知人からその応募者のメールアドレスを聞いた。男は家に帰ると、さらに赤を入れた。


 男が赤を入れて原稿を送ると、それが数日後には直って帰ってくるようになった。それは生きる希望そのものとなった。相変わらず開く本全てが同じ文章だったが、せめて数日前とは少し違う文章になっていた。


 終わりの見えない同じ文章の果て、たった一行の進歩が、たった一文字の新鮮な空気がいまや男のよろこびの全てであり、男を生かしていた。

 どれほど小さな歩みであっても、それは未来への希望、福音、男の生きた証であった。男はいまはじめて人生を生きているような気がした。


 一年後、男は自分が赤を入れて完成させた小説の小さな賞の授賞式に立っていた。不思議なことにその小説家の書いた小説はいまはじめて目にする素晴らしい文章だった。

 いま世界は子供時代のように美しいことばであふれており、男は絶望していなかった。

 さて男はいまだ小説家ではなかったが、小説を真に世に生み出す者であった。

                                         


                                     了

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